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2013年11月26日

テレビ取材


晴れのち曇り

朝8時から夜まで終日テレビ取材。


「子どもの家」の前にオートバイ屋でリー君と
偶然出会う。

近くで『工事手伝い」をしているとのこと。
元気そうだったが、私が買ってあげたリー君の
オートバイを貸したあるのだが、違うオートバイに
乗っている。私名義の0オートバイは売ってしまった
ようだ。

投稿者 koyama : 08:55 | コメント (0)

2013年11月25日

テレビ取材団来訪

午前5時半起床。

午前7時朝食。

「フォー・ガー」(ハノイ名物・鶏肉米麺)

当面の諸課題の整理。

バオミンさん・税田さんと何回か電話で意思統一


午前11時半、昼食。
「チャオ・バイン・カイン」(小麦粉の手打ちうどん)

午後、「子どもの家」の子どもたちの問題について
私見をまとめる。

バンベー44号の原稿の仕上げ。

その後、日本料理店へ。

午後8時過ぎ、バオミンさんと一緒にテレビ取材団を
フエ空港へ出迎え。午後9時10分取材団、フエ空港へ到着。

車で市内の軽食レストランへ。明日からの取材の日程等を
打ち合わせ。ホテルへ。

午後11時半、宿舎着。

投稿者 koyama : 17:10 | コメント (0)

2013年11月24日

「子どもの家」へ

午前7時起床。

簡単な柔軟体操・筋力トレーニング。

午前8時半、宿舎へバオミンさんが迎えに
来てくれた。

バオミンさんのオートバイの後ろに乗せてもらい
「子どもの家」へ。

今日は日曜日。子どもたちはそれぞれの方法で
休みを楽しんでいた。

今日は、退所を希望している子ども・親との
懇談・面談をした。

A君。重度の脳性まひ。G医学専門家が
長い間支援をしてくれている。
大分成長し、表情も豊かになっていた。

在宅支援終了予定のBさんと懇談。



家庭の経済状況が良くなったので退所したいとのこと。
父親は心臓病で仕事が出来ない。
本当に経済力が付いたかの実情を親に聞く。

ーー

C君(14歳) 子どもたちで年上の男子に
いじめられるのが怖いという。

「子どもの家」のいじめの実態を詳細に
調査する。
事実、C君がいうような実態があったことが判明する。
セン委員長・ロック寮長とも話し合い、「子どもの家」
の中での年上の「男子」のいじめの実態をなくす
方策を相談する。

来週、もう一度、C君と話し合い、「子どもの家」に
残るよう説得する。「子どもの家」の先生たちが
責任を持って「いじめ」を撲滅すると話す。

ーー
D君

祖父母と生活。父は出稼ぎ労働者で各地を点々とする。
母親の兄が村議会議長になったので、今後、少し支援を
してもらえるようになったとのこと。最終的には、在宅支援
に。

ーーー
E君

「子どもの家」創立時からの「子どもの家」住人。
5歳で入所。現在25歳。
中学卒後、色々な研修をしたが、ほとんどの
研修は2~3ヶ月程度で終わってしまう。
25歳になり、今後どうするのか、どんな
人生を歩みたいのかを話し合う。

来週、もう一度、話し合うこととする。


2時間半、かけて5人の子どもたち、親と
話し合う。幸せな将来に向けて、子どもたちの
行方を親と一緒に相談した。
残念ながら2人の子どもは、親がいないか
親が子どもたちに目がいかない子どもたち
である。

たった1人、2人の子どもだ、との意見も
あるが、私にとっては、絶対的に大切な
存在の子どもたちである。最大限の知恵と
エネルギーを使って、子どもたちの未来、
将来設計にかかわって行きたいと
思っている。子どもたちのことを考える
親がいないという実情がある。何とか
非力な私たちではあるが、子どもたちの
未来の幸せを考え、子どもたちに寄り添って
一緒に将来設計を考えて行きたい。
今日は日曜日ではあるが・・・・。

バオミンさん・セン委員長・ロック寮長も
日曜日・休日にもかかわらず、子どもたちに
ために日曜出勤である。JASS「子どもの家」は
『お役所仕事』は絶対にしたくない。

昼過ぎ、宿舎に帰る。

途中、バオミンさんに頼み「コムディア」「ビンザン」
=庶民の食事を買う。2万5千ドン(125円)

ご飯の上に「卵焼き」「味付け肉」「野菜炒め」など
がのっている。

午後2時、昼寝に入る。


午後5時。今日の退所関連の問題で話し合った
4人の子どもたちとの話し合いの内容をまとめ
税田さん・バオミンさんに送信。

午後7時過ぎまで「必要な資料」を整理する。

明日から、テレビ取材団が「子どもの家」・日本料理店
に来る。1週間の取材だ。


投稿者 koyama : 21:32 | コメント (0)

2013年11月23日

ベトナム事務所員会議:日本料理店

雨時々曇り

午前6時基調。

午前7時朝食。「キャッサバ・小麦麺」
唐辛子が強い

朝食後徒歩でベトナム事務所へ

午前8時半、ベトナム事務所員会議

バオミン・JASSベトナム運営委員長より
当面の来訪者など諸課題についての
日程と方針提起




その後、バオミンさん・税田さんと「子どもの家」の
子どもたちの件で打ち合わせ


午前11時半、昼食。

ベトナム風おじや


午後1時間ほど昼寝。

読書「ヒトラーの台頭:ワイマースデコムラシーの悲劇」読了
(山口定著:朝日文庫)

現在の日本とワイマルー憲法下、軍国主義
が復活したドイツの状況が類似している。
もちろん、そっくりそのもではないが・・・。

当時との大きな違いは、国民の中に
現憲法が根付いていること。
ドイツは、社会民主党(日本で言えば社会党・社民党)
の天下だった。しかし、現在の日本は、社会党・社民党は
ほぼ絶滅状態。

保守系の人物にも現憲法が、日本の軍事化・
ファッショ化の歯止めになると考える人が多い
ことなど、違いはあるがヒトラーが台頭した
1930年前後に状況は似ているともいえる。

安部首相を先頭に「みどりの党」「公明党」
「日本維新の会」などが、当時のナチ党以外の
保守党と同じ役割りを果たそうとしている。

午後5時半、日本料理店へ。
夕食

税田さんを中心に日本料理店の食事の盛り付け
などについて協議


投稿者 koyama : 22:13 | コメント (0)

2013年11月22日

「子どもの家」セン委員長懇談

終日雨。

午前6時起床。

午前7時朝食。

「ブンビー・フエ」(牛肉米麺・フエ名物)

午前中は、当面のいくつかの問題についての
方針・対応策を考える。

バンベー44号の私が書く原稿を2本を完成。


午前11時半、昼食。
マカロニスープ。



午後1時間程昼寝。気候の変動が大きいので
体調不良。


午後3時、バオミンさん・税田さんと一緒に
「子どもの家」へ。
「子どもの家」の子どもたちの学校卒業・就職・
退所状況を一人ひとり確認する。

午後5時まで長時間かけて、一人ひとりの子どもたち
の家庭状況・現状・進路等について、かなり突っ込んで
協議する。

打ち合わせ終了後、少し早めだが、私の00歳の
誕生祝いの花輪を「子どもの家」スタッフより頂く。


通販「フェリシモ」さんから頂いた「500色の色鉛筆」
の半分が届く。

その後、日本料理店へ帰る。

午後7時から午後9時過ぎまで4人の来客あり。


午後9時過ぎ、日本料理店閉店。


投稿者 koyama : 23:47 | コメント (0)

特定秘密保護法案に強く反対します:日本料理店

午前6時起床

軽く運動

終日小雨・曇り。湿度が高い。

午前7時朝食。

「フォー・ガー」(鶏肉入り米麺)

バンベー44号の原稿を書く。
バンベーの構成・編集を進める。

バオミンさんといくつかの問題を電話で打ち合わせ。


午前11時半。昼食

煮魚・ご飯・サラダ

1時間ほど昼寝。
読書「ヒトラーの台頭」(ワイマールデモクラシーの悲劇)
山口定著:朝日文庫)

ヒトラーがワイマール憲法体制の下で
権力を奪取する過程を詳細に描く。

当時のドイツは、労働者が組織され、社会民主党は
政権を持っていた。独占資本の主流派は穏健な保守
右翼であり、ワイマール憲法体制を守ろうとしていた。
そうした中で1929年10月の「アメリカ発の世界恐慌」
が起こり情勢は急変する。
労働者に基盤を置く社会主義右派の社会民主党は
右翼・保守・ヒトラー派に妥協に妥協を重ね、労働者
から見放される。
ドイツ共産党はスターリンの「社会民主主義主敵論」に
たち、ドイツ社会民主党への批判を強める。
そうした中でヒトラーは、財界の右派と提携し、
財界全体をワイマール体制破棄に向かわせる策動を
行う。

種々の言論機関等を通じ、ワイマール体制打破、
ドイツの自立=ドイツ軍国主義復活へ向けた
様々な工作を行い、功を奏す。

ーー

ヒトラーが権力を握り、ファシズムを進める際、
『機密保護法』を国会に提案している。
国民・世論・国会・マスコミになどに
「ベルサイユ講和条約の事実上の破棄・国軍の
再強化・軍国主義の復活・ワイマール憲法の
破棄、そして自らが皇帝になり「第3帝国路線」
を批判できないよう、秘密保護法を制定している。

安部内閣は非常に「危うい」内閣である。
一見強そうな姿勢を示している。国民の不満に
うまく対応しているかに見える。
中国の尖閣諸島への接近問題で、強気の姿勢を
示し、そのための軍備の増強、海外で戦争が出来る
j国内体制作り、マスコミ対策などが着々と進められ
ている。
ヒトラーがワイマーツ体制を打破し、ファシズムに
向かう手法と安部首相の手法は瓜二つ。

特定秘密保護法案は、国民の目と耳を塞ぎ、
安部首相に都合の悪い情報は「機密」に指定し、
日本の再軍備・海外軍事進出ー海外で戦争が
出来る国家作りをするための「土俵作り」である。

ヒトラーは嘘は大きいほど真実味があると
言っているが、安部首相も「福島原発事故は
収束し、完全にコントロールされている」との
大嘘を付いている所は、ヒトラーとそっくりである。
ファシズムは「すり足でやってきて、気づいた時には
手も足も出ない」ものである。

今回の特定秘密保護法案を甘く見てはならない。
安部ヒトラー内閣の本質を露呈したものだ。
国民に何も知らせず、国会でも審議しないで
機密事項を自らの所有物とし、日本の軍国主義化を
推し進める体制作りの布石である。
安部首相のファシズム・ヒトラー化路線に協力している
公明党・日本維新の会のニセ修正案作りの
犯罪的役割りも糾弾したい。

特定秘密保護法案が通ったら、日本の軍事化・
軍国主義化・海外での戦争路線・若者を徴兵しての
新たな戦争路線が、実行される可能性が大ある。
アメリカに代わって、日本の若者が海外で
世界の憲兵の手下として働くようになってはならない。

ヒトラーの政権奪取の過程を読んで、
最初は多くのドイツ国民が「相手にしていなかった」
ヒトラーが政権を取りファシズム国家を作り上げた
教訓を私たちは今、改めて学ぶ時である。


午後2時半、徒歩で小雨の中、ベトナム事務所へ。

在宅支援のAさんの就職問題について、本人と
話し合う。

Aさんは生まれながらに「小さく」生まれた、
身長は140センチ程か?

多少心臓の病気も持っている。
幼稚園教員養成学校を終えたのだが、
「政治=ホーチミン思想」の単位を落とし、
就職できないでいる。

いくつかの公立幼稚園に就職を依頼したが、
背が低い病気があるとの理由で就職を断られた。
何とか就職し、働きたいとの相談。

私の方では、まず、「政治」の単位を取らなければ
ならいことを話す。
その上で、公立幼稚園は倍率が高いので
仏教など宗教の経営している幼稚園への就職を
めざしたらどうか?と話す。

午後5時半、日本料理店で夕食。

午後10時前まで4人の来客あり。

投稿者 koyama : 00:22 | コメント (0)

2013年11月21日

ベトナム先生の日

終日雨

午前6時起床

午前7時朝食。
「肉団子のブン麺」


午前中、当面の諸問題の整理

午前11時半、昼食

「チャオ・バイン・カイン」


午後2時半、電動バイクでベトナム事務所へ。

午後3時、静大留学生の親がベトナム事務所へ。

今日はベトナムの「先生の日」。

静大ニフィー留学1期生から4期生の
親がベトナム事務所へお礼と挨拶に来る。

皆さんから「先生の日お祝いの生花」を
頂く。

30分ほど懇談。静大ニフィーで留学しての
お子さん方の様子、親の気持ちなどを
聴く。日本での勉学、生活上の諸問題に
付いての訴えを伺う。


午後5時、フエ師範大で日本語を教えた
第2期生のSON君がベトナム事務所へ。
「先生の日」の花を持て来る。
バオミンさんとコックホック高校で一緒であり、
フエ師範大でも私が教えた仲。
現在、東京に本社のあるIT企業「ブライセン」の
東京本社の社員。


午後6時、日本料理店で子どもたちと夕食。


午後6時半過ぎ、日本語教師の後藤先生が
日本料理店で夕食。

夕方教えた日本語学校で生徒から「先生の日」の
お礼に花束をもらう。


日本料理店唯一の男性、ヒエップ君。

最近は、料理も大分覚え、やる気充分。


店長のTUOIさんに給料を渡す。

午後9時過ぎ、4人の来客があり閉店。

外は雨。

投稿者 koyama : 01:41 | コメント (0)

2013年11月19日

バンベー44号編集計画

ひさしびりに晴れる

午前6時半起床。

午前7時朝食。
チャオ・バイン・カイン」(キャッサバと小麦粉の手打ち)

午前中、バンベー44号の構成と編集計画を立てる。

洗濯。

部屋の掃除。


午前11時半昼食。

「アヒルの肉入りおじや」


食後1時間ほど昼寝。

読書「ヒトラーの台頭」(ワイマールデモクラシーの悲劇)
山口定著:朝日文庫)

ワイマール体制下で財界と軍部は、ベルサイユ条約に
違反して、「秘密裏」にドイツ軍の強化・復活を実行する。
その時の政府主要な役職は「ドイツ社会民主党」が
占めていた。

結局、ドイツ軍部と財界に社会民主党は屈服し、
ドイツ国防軍の「ベルサイユ条約違反」の軍拡を
秘密裏に容認していまう。

ナチ党ないでは、「国民社会主義労働者党」と名乗っている
ナチ党なので、党員の中には、真っ当に労働者と社会主義
を増すべきだとの潮流が出てくる。ヒトラーは、これらの
勢力との水面下の闘いにエネルギーを費やす。

午後5時、徒歩で日本料理店へ。

子どもたち・日本人が夕食を摂っている。

石井君・後藤君が夕食を終わる。


今日は来客4人。
午後9時過ぎ閉店。


バオミンさんは、早朝から車でホイアンへ。
夜、フエへ帰る。

投稿者 koyama : 23:57 | コメント (0)

2013年11月18日

終日曇り

台風31号の影響もあり、終日曇り。

午前5時起床。
読書。


午前7時朝食。
「フォー・ボー」(牛肉米麺)


午前中、バンベー44号の構成・割り振りなどを
考える。

私の担当部分の原稿を書く。400字2枚程度。


読書「ヒトラーの台頭」(ワイマールデモクラシーの悲劇)
山口定著:朝日文庫)

麻生副総理は、「第1次大戦後のドイツワイマール憲法下
では、静かにヒトラーが出てきて、ファシズムになった」
という趣旨の発言をしていた。

しかし、麻生氏は、ドイツファシズム史を勉強していない。

第1次世界大戦に敗北したドイツが、1917年の
ロシア革命の影響も受け、「社会主義・労働者擁護」の
国民的な雰囲気の中で、様々な妥協を経て、
ワイマールで民主主義的な憲法が制定され、
ドイツ第2帝国は崩壊した。

その後、ヒトラーの出現までには、ミュンヘン一揆や
ファシズム政党内部、ドイツ社会民主党内部、
スパルクス団などの様々な動きがあった。
ヒトラーは、ドイツ社会主義労働者党(略称ナチス党)
内部での権力争いをしていた。
ヒトラーはミュンヘン一揆で裁判にかかり、懲役刑
を受けている。

麻生氏の言うようにワイマール憲法の下で、静かに
ヒトラーが政権を取ったわけではない。

午前11時半、昼食。
「フォー・ティウ」(春雨麺)



午後1時間ほど昼寝。

読書「ヒトラーの台頭」(ワイマールデモクラシーの悲劇)
山口定著:朝日文庫)


午後3時、徒歩でベトナム事務所へ。

バオミンさん・税田さんと当面の諸課題について
長時間論議する。


日本料理店のヒエップ君の身の振り方について
話し合う。

午後5時半、日本料理店。

軽く七ビールを飲む、が、ビールが温かい。
グエットさんに言う。調べた結果、
水素ガスを起動するコンセントが抜けていたことが
分かった。

「30分待たないと冷たくならない」とのこと。

しばらく待つ。

富岡先生と人生を語りながら「フダビール」
を飲む。

今日は4人の来客あり。

午後9時閉店。

投稿者 koyama : 23:32 | コメント (0)

2013年11月17日

終日、宿舎で仕事

午前9時起床

終日、「バンベー44号」関係の仕事。


読書「ナチズムとユダヤ人ーアイヒマンの人間像」
   (村松剛著 門川文庫 1972年版)読了

こんな文章が書かれていた。

『ユダヤ人は自分たちの預言者であるキリストを
殺した。その罪によって、彼らは今家を失い、
永遠の流浪の運命付けられているのだ、と
キリスト教の僧侶は言った。ユダヤ人は永遠の
異邦人であり、流浪者と宣言された。
『いつの日か、キリストがふたたび現れて
ユダヤ人を許すまでは、すなわち最後の審判
の日が訪れるまでは、彼らは社会的・法律的
に一段劣った扱いをうけ、真のキリスト教信者
から隔離されなければならないだろう」。

本書を読むと「ワルソー・ゲットー」など
ユダヤ人の強制収容所・ホローコーストの
企画・実行の責任者だったアイヒマンの
「出世欲」と「学歴コンプレックス」が根底に
あると。

著者の村松氏はイスラエルのアイヒマン法廷を
傍聴しての感想を書いている。

本書を読むと「ホローコースト」「ユダヤ人への蔑視」
などは、長い間の欧米世界の中にあったことが
分かる。この問題も「ヒトラー」や「アイヒマン」だけに
ユダヤ人差別・蔑視問題を矮小化することは出来ない
歴史的な背景があることが分かる。

投稿者 koyama : 22:29 | コメント (0)

2013年11月16日

ベトナム事務所員会議:再び浸水

昨夜の『台風31号』の影響は今日も続く。
31号は、ベトナム中部の南側を横断し、
カンボジアで熱帯低気圧になった。

今日も台風31号の影響による「降雨」が続く。

午前5時に起床。昨夜、宿舎の1階に浸水すれすれの
状態だったが、今朝はどうなったか?

昨夜よりは、水位は下がっていた。長靴で何とか
外出できるようだ。

宿舎前の小道は、下水道か吹き出た水で、今朝も
水が残留している。

宿舎玄関前もかなりの水位

2Fから見た宿舎前の小道


午前7時、朝食。

「精進料理」 今日は、旧暦10月14日。
ベトナムでは毎月1日と15日には精進料理を食べる
風習が残っている。本来は明日の旧暦10月15日に
精進料理を食べるのだが、明日は日曜日で
料理のセンさんが朝食を作らないので、1日早い
今日、精進料理をなる。


午前8時半、徒歩でベトナム事務所へ行こうとしたが、
台風31号の影響で道路にまだ水が溜まっている。
何とか「ゴム長靴」を履けば、外出できそうな
水位なので、出かける。

ベトナム事務所員では、ハンさん、アンさんの
家付近が水位が高く、家の外に出られないとのこと
で今日は欠勤。

日本料理店の子どもたちに税田さんが電話を
入れる。店長TUOIさん・接客主任グエットさん
たちが、家の周りが増水し、外に出られない
とのこと。

税田さんと相談し、危険なので今日の日本料理店
開店を中止とする。

午前8時45分、ベトナム事務所員会議開催


バオミンさんから当面の日程の提案あり

・元日本語教師のK先生の来訪(12月10日~)
・地球の歩き方スタディーツアー来訪(12月14日~)
・全教女性部千葉を中心としてツアー来訪(12月21日~)
・内田さんクリスマス会その他(12月19日~)
・北海道K先生ご夫妻来訪(14年1月8日~)
・里子から里親への手紙の件
・日本語学校・クラス充実の打ち合わせ
・バンベー44号の内容・編集の進め方等
・その他



午前10時終了。午前11時、ベトナム事務所を
出て帰宅。途中、フォンザンホテルとフールー
小学校を結ぶ「フォン河」の増水状況を視察。
フエ市内とフール地区を結ぶ道はフォン河の
増水で『閉鎖」されていた。
改めて「台風31号」の影響と恐ろしさを知る

ベトナム人はなかなか「したたか?」
洪水という悪条件を利用し、「四手網」で魚を
獲っていた。

完全に道路が冠水していた。

フエ市内とフール地区は通行不能。


左の「フォン河」から右の「支流」に濁流が
流れていた。


宿舎へ帰る途中の「オートバイ修理店」には、
たくさんのオートバイが、エンジンを水で濡らし
動かなくなってしまい、修理に来ていた。


大通りから宿舎へ行く「小道」に入ると、既に
かなりの水が溜まっている。

我が宿舎の前でオートバイのエンジンが冠水し
立ち往生している男女の若者がいた。

既に水深は私の膝上まで来ている。

私の長靴にも水が入り、両足はびしょびしょ状態。


朝から降り続く雨を下水が吸収できず、
宿舎前の下水道から「水が吹き出ている」
状態。→明らかに「人災」。

午前11時半、昼食。

午後12時半から昼寝。


読書「江戸色街散歩」(岩永文夫著:ベスト新書)読了


浅草の花やしきの裏に昔「銘酒屋」と称する
私娼窟があった。「茶屋」など江戸時代から
公娼の「吉原」以外の「岡場所」「飯盛り女」など
様々な形で「私娼」が流行った。

「浅草」の12階付近(花やしき付近)
には、『銘酒屋』(利き酒・きき酒)と
称して「お酒」を紹介するという形をとっての
私娼が数百軒あったとのこと。

ここには、石川啄木も頻度多く通っていた。
奥さんに知られないように「ローマ字日記」
を書いている。
1909年(明治14年)4月10日の日記。
『余は去年の秋から今まで およそ
13回~14回も行った。そして10人
ばかりの淫買婦を買った。ミツ、マサ、
キヨ、ミネ、ツユ、ハナ、アキ・・・」。


「ナチズムとユダヤ人」(アイヒマンの人物像)
松村剛著;門川文庫1974年版」
池袋の古本屋で100円で買う。

ユダヤ人大量虐殺の責任者の一人であった
「アドルフ・アイヒマン」の生涯を記したもの。

日本へ帰国中に「ハンナ・アーレント」の
映画を見た。ユダヤ人大量虐殺の責任者の
アドルフ・アイヒマンが、南米で逮捕。
その裁判がイスラエルで行われた。
哲学者で作家の「ハンナ・アーレント」女史が
米国新聞社の委託で「傍聴記」を書く。
新聞社も読者も世論も「アイヒマンの残忍性を暴露」
する傍聴記を書くと思っていた。しかし、アーレントは
「アイヒマンは、真面目で上司の指示を執行しただけ」
という趣旨の傍聴記を書く。

この映画を見て、「アドルフ・アイヒマン」という人間は
どんな生い立ちがあり、どんな人生を歩んだのか?
を知りたくなった。
偶然、、池袋西口で「青空古本市」をしていた。
色々な本屋の古本を見ていると本書があった。
100円だった。しかし、今日から読み出したが、
古本ではあっても内容は古くない。
ハンナ・アーレントが言った通り、普通の人間が
ファシストになり、平気で軍国主義者になり、
平気で思想が違うというだけで、他人を排除する
ということが起こることがわかる。


投稿者 koyama : 19:09 | コメント (0)

2013年11月15日

台風31号の影響で終日豪雨ー床上浸水寸前

朝から大雨

午前6時起床

午前7時朝食「フォー」

食後、年末年始、1月、2月東京での現地報告会等
についていくつかの計画を考える。


台風31号の影響で雨。


午前11時半、昼食「魚のフライ」「ご飯」・・・


午後12時過ぎから2時間程昼寝。

台風の影響なのだろうか、体や異常にだるい。
気圧の変化のせいなのかも知れない。

午後2時半、引き続き、当面のいくつかの問題で
バオミンさんや税田さんと電話で連絡。

午後5時前、日本料理店へ行こうと宿舎を出ようと
したら、既に宿舎の前の道は、冠水。長靴では
水が入ってしまう水位となっている。宿舎の
1階に水が入ろうという状況。
長靴を履いて、傘を差して日本料理店へ行こうと
思ったが、長靴では既に水を防げないほど、
増水している。強風と豪雨がほぼ1日続く。

道路が30センチから40センチ位の冠水状態。

税田さんから電話あり。
日本料理店前も冠水。このままでは
日本料理店の子どもたちが家へ帰れなくなるので、
夕食を食べたら、日本料理店を閉店にしたいとの
こと。オートバイで数十分の所から通っている
日本料理店スタッフもいる。
早く帰らないと道路が寸断され、オートバイでは
帰れなくなる。

午後6時、宿舎の「床上浸水」寸前。

道路からは、50センチ以上の浸水。
引き続き「豪雨」が続く。

午後7時、1階床が浸水するかしかいかの
状態に。

一時的に大量の雨が降ったので、排水能力の
ない「フエ市」である。高級ホテルができ、
町には「ベンツ」を乗り回すフエ人が出没している
フエではあるが、庶民の生活に直結する
「下水」「排水」のう力が極端に低い。
今回の洪水は、根本的には、『地球温暖化進行』
が原因だと思われるが、直接的には行政が下水の
整備をしていない所に原因があるものと思われる。
降雨量が多いので浸水したのではなく、下水から
水が「逆流」してきの浸水である。

午後10時。豪雨が「小降り」になる。
宿舎の床上浸水「スレスレ」まで水位が上がるが、
その程度で止まる。何とか床上浸水を免れる。

投稿者 koyama : 18:54 | コメント (0)

2013年11月14日

日本語教育の打ち合わせ:日本料理店

終日雨:時々曇り

午前6時起床

午前7時朝食。「肉団子入りブン麺」

午前9時。

ベトナム事務所で「日本語教育」について
論議を深める。特にブライセンベトナムの
日本語教育を一層充実する態勢を作る。



午前11時半、昼食。

「マカロニ入り麺」

午後12時過ぎから昼寝。何故か強い疲労感を
感ずる。


午後4時半、日本料理店へ。

ベトナム事務所のソン君の奥さん(メンさん)と
息子のBAO(バオ)君が日本料理店の前に
きていた。

BAO君は、2歳4ヶ月になるという。
しっかりと成長していた。

午後9時過ぎまで日本料理店。

来客は3人。

午後9時過ぎ閉店。

小雨の中徒歩で帰宅。


投稿者 koyama : 23:34 | コメント (0)

バオミンさんと打ち合わせ:日本料理店会議

快晴・時々曇り・小雨(不安定な気候)

午前6時起床。

午前7時朝食。
私の好きな「ホー・ボー」(牛肉入り米麺)


午前中、宿舎で当面の課題と仕事の整理


午前11時半昼食

私の一番好きな「手打ちうどん」

「チャオ・バイン・カイン」美味しい。

午後時、徒歩でベトナム事務所へ。


午後5時、日本料理店会議。
当面の問題点・改善点などを話し合う。


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午後9時まで日本料理店に。
8人の来客。

その間、リー君から何度も電話あり。

午後9時過ぎ、徒歩で宿舎へ帰る。

宿舎で軽く「飲み直し」をしているとリー君から
何度も「酔っ払った」勢いでの電話あり。

投稿者 koyama : 00:02 | コメント (0)

2013年11月12日

ブライセン関連の打ち合わせ:日本料理店

快晴 気温34度 真夏

午前6時起床

午前7時朝食。
「チャオ・バイン・カイン」(キャッサバ入りの手打ちうどん)



午前9時過ぎ、徒歩でベトナム事務所へ。

ブライセン本社の担当者といくつかの
打ち合わせ。バオミンさんも参加


午前11時半、徒歩で宿舎へ。

昼食「アヒル肉入りのおじや」


食事をしながら読書
『江戸色町散歩』(岩永 文夫著 KKベスト新書)

吉原の歴史と内情等の詳しい解説本。

私は寝る時は大体落語を聞いて寝る。

「志ん朝」が一番多い。「付き馬」「居残り左平次」
・・・・・。

先代の桂文楽も良く聴く。その中でも一番好きなのは
「明烏(あけがらす)」。
生真面目な大店の息子を親父の依頼で町内の
不良が『お稲荷さんにお篭りに行こう』と騙し、
新吉原へ連れて行く話。
何度も聞いているが本当の意味が分からない言葉が
かなり出てくる。明治・大正・昭和初期位までは
通用していた言葉なのだろうが・・・。

吉原の歴史。そもそも何故「新吉原」というのか?
旧吉原はどこなのか?

本書を読むと江戸時代の『江戸』の人口は
約100万人。人口世界一の大都市だった。
新吉原は、東京トーム約2個分の土地の中に
1万人ほどの人たちが、様々な職種で
働いていたそうだ。
 当時の江戸の男女比率は、男7対女3~
男6対女4位の「男ばかり」の都市だった。
参勤交代で江戸に詰める地方の藩の武士は
大体、家族や奥さんなどを連れずに江戸に来る。
そんな「男ばかりの世界最大の都市江戸」だから
こと、芽生えた「吉原」だったといえる。

1時間ほど昼寝。

午後2時過ぎソン君が「洗濯機修理業者」を
連れてきてくれる。

乾燥機が使えなくなった。業者は、やおら機械の
蓋を開け、「ヘヤードライヤーはありますか?」と
私に聞く。ドライヤーを持ってくる。
ドライヤーで開けた乾燥機の蓋の中を乾かす。
すると乾燥機は「始動」し始めた。

日本の業者なら、お店まで乾燥機を運び、
色々と検査などするのだろう。
フエの修理業者は日本の業者よりも「専門家」だ。
現在、フエは雨季で雨が多い。湿気が多い。
乾燥機の心臓部分が湿気で濡れて作動しなくなった
ことを良く知っているのだ。
壊れた洗濯機を「直した」のではなく、『湿気』を取った
だけなのだが・・・・・。有難いことである。
いつも私の生活上の問題があるとソン君に
お願いする。快く仕事を引き受けてくれる。
ソン君にいくら払えばいい?」と聞く。
「5万ドンでしいです」とのこと。「250円」。

1ヶ月半、宿舎を不在にしたので、家中の
衣類が、かび臭くなっている。
洗濯機で全てを洗わなければならない。
シーツとマクラカバー、毛布などをやっと
洗い終わったばかり。まだまだ、洗濯が
必要な衣類等が残っている。


午後5時過ぎ、徒歩で日本料理店へ行く。

日本料理店で子どもたち・税田さんたちと
夕食を摂るはずだったが、麦関連の
液体夕食を摂ることになる。

富岡先生、石井君と夕食。
私は液体夕食。


今日はサーモン1尾を買ってきて、刺身に
する。新鮮なサーモンの刺身は美味しい。

昔、私が店長兼調理主任のTUOIさんに
教えた「キャベツと卵いため」を作ってくれた。
美味しく出来ていた。


病気でしばらく休んでいたヒエップ君が復帰。
元気に仕事をしていた。

午後9時、閉店。


ヒエップ君は17歳。「子どもの家」から通って来ている。
自転車で帰る。



徒歩で宿舎へ。午後9時40分、宿舎着。

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原子力「即ゼロ」を=安倍首相に政策転換迫る―小泉氏

時事通信 11月12日(火)14時12分配信

 小泉純一郎元首相は12日午後、日本記者クラブで会見し、原子力利用について「即ゼロがいい」と述べ、直ちに「原発ゼロ」を目指すべきだとの考えを表明した。小泉氏は、安倍内閣の支持率が高いことなどを理由に、「安倍晋三首相が決断すればできる。こんな恵まれた時期はない。ピンチをチャンスに変える権力を首相は持っている。分かってほしい」と首相に決断を促した。
 脱原発に関して首相は「無責任」としており、原子力利用を進めていく立場を堅持している。しかし、首相の「政治の師」である小泉氏の発言で、エネルギー政策の転換を求める声が勢いづきそうだ。
 小泉氏は「原発ゼロという方針を政治が出せば必ず知恵ある人がいい案を作ってくれる。専門家の知恵を借り、その結論を尊重して進めるべきだ」と主張。「首相の力は絶大だから、首相が『ゼロにしよう』と言えば、そんなに反対は出ない。首相の在任中にこの方向を出した方がいい」と語った。原発再稼働にも反対する考えを示した。
 小泉氏は、原発から出る放射性廃棄物の最終処分が技術的には可能でも、受け入れ先がないと指摘。「核のごみの最終処分場のめどを付けられると思う方が楽観的で無責任過ぎる」と重ねて訴えた。
 小泉氏の発言に対し、菅義偉官房長官は12日の記者会見で「政府としては責任あるエネルギー政策を推進することが極めて大事だ」と述べ、原発維持の方針を強調。自民党の細田博之幹事長代行は「一石を投じていることは評価するが、正しくない結論ではないか」と苦言を呈した。公明党の石井啓一政調会長は「目指す方向は変わらないが、即時ゼロは現実的なハードルも高い」と指摘した。 


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小泉純一郎前首相は、個人的には
「好きななれない政治家」である。
特に「郵政民営化」は、稀代の詐欺師の
やり方だった。

しかし、上記「時事通信」が報じている内容が
事実だとすれば、元小泉ライオン首相の
言っていることは、正論であり、日本の未来を
示すものである。
小泉元首相の主張を「元自民党の首相」という
レッテルだけで見てはならない。
思想・意見の違いを乗り越えて、福島での
経験をわたし達日本人は世界に先駆け発信
していく義務がある。

民主党菅首相はベトナムに2基の原発を売った。

安部首相も中東などへの原発売り込みに精を出している。
原発売込みで儲けるのは、日立・東芝・・・などの
大企業だけである。

小泉純一郎元首相の発言は「耳を傾ける」意味の
ある発言である。誰が言おうと、小泉発言は
正論である。

原発ゼロ・脱原発の全ての人々が大同団結し
日本や世界中の子どもたち・これから生まれる
子どもたちのために危険で経済効率の悪い
原発をゼロにする必要があると思いながら、
純米大吟醸「酔心」を飲むのであった。

投稿者 koyama : 18:26 | コメント (0)

2013年11月11日

ハンさん誕生会:バオミンさんたちと打ち合わせ

午前6時起床

曇り・のち晴天

私の不在中、ベッドの毛布などが「かび」てしまい
臭い。しかし、寒いので「臭い毛布」で寝る。

朝から寝具全ての洗濯をする。
洗濯機が故障。乾燥が出来なくなった。

洗濯だけして、乾燥は窓に出して乾かす。

シーツ、毛布等全ての寝具を洗濯し、外で
乾燥させる。

午前7時朝食。

フエ名物「ブンボー・フエ」
フエ在住20年。完全にフエ人になっている。
「ブンボー」を食べないと1日が終わらない。


午前8時45分、電動バイクでベトナム事務所へ。
今日は、ベトナム事務所会計担当のハンさんの
00回目の誕生日。ハンさんとは、20年前に
日本語を教えてからの付き合いである。


富岡先生・後藤先生から誕生祝の
寄せ書きなどが準備された。


後藤先生から誕生ケーキ贈呈


色紙贈呈



誕生祝のケーキ



その後、会場を会議室に移し、お茶などを飲みながら
1時間ほどベトナム事務所員全員で交流会。


交流会終了後、私が日本から持て来た
JASSへの支援金・奨学金等を
ハン会計部長に渡す。



バオミンさん・税田さん
の3人で私の不在中の諸問題、
今後の課題についての具体化を話し合う。

午前11時、宿舎へ戻り、昼食。
「春雨麺」(余り好きではない)


その後、2時間程昼寝。
昨夜、遅くねたので熟睡する。


午後2時過ぎ、バオミンさんのオートバイに乗せてもらい
「グエンフエン高校」を訪問。校長先生・副校長先生と
懇談。

学校の実情、奨学金をしているがその効果などを
聴く。



午後3時過ぎ、「子どもの家」へ。

昨日、ベトナム中部の大きな台風が襲来した。

当局の指示もあり、「子どもの家」の大木が
倒れる危険があったので、短く切る。

セン「子どもの家」運営委員長といくつかの
問題について協議。

①子どもたちの現状
  「子どもの家」在籍20年の男子が年下の
  子どもたちを恐喝し、金品を強奪している
  実態をセン委員長や寮母さんが最近知った
 とのこと。

②11月は、「子どもの家」創立記念日。
 その準備の打ち合わせ

③入所を希望する子どもたちの調査の件


日本料理店へ帰り、税田さん、日本料理店の
子どもたちと若干話す。


午後5時過ぎ、宿舎へ帰り、宿舎の掃除と整理。

夜、いくつかの大事な問題について、書類等を
作成する。


投稿者 koyama : 21:16 | コメント (0)

2013年11月10日

成田→ ホーチミン市→フエ

日暮里駅で午前7時41分のスカイライナーに乗ろうと
したが、7時35分頃、突然の「地震」。京成線ホームの
屋根が大きく揺れる。
ホームの屋根にある蛍光灯が左右に揺れる。

ホームの地下から「突き上げる」ような振動が足に伝わる。

しばらくして構内放送。「現在、東京を中心に震度4の地震が
ありました。全ての列車は安全が確認されるまで停止します」
とのこと。

午前9時半成田発の飛行機に乗る予定。

結局、1時間程列車がストップしてしまう。

午前8時20分にスカイライナーは出発した。
しかし「安全を確認しながら進みますので、20キロの
速度になります」とのこと。

通常でも日暮里から成田第1ターミナルまでは、約1時間程
かかる。

ゆっくりと進む。このままでは、到底、午前9時半の出発に
間に合わない。

しばらくして千葉県に入った頃に「安全が確認されましたので
通常の速度で進行します」との車内放送。

結局、成田第1ターミナルに着いたのは、9時20分。
第1ターミナルの「北ウイング」(中森明菜の歌に出てくる)
4階の出発カウンター着、午前9時35分。
既に ホーチミン市行きの飛行機の出発時間が過ぎていた。

急いでベトナム航空のカウンターに行ったのは、私一人。
「もうダメか?」と諦めつつ、カウンターに行くと、「待っていました」
とのこと。急いで荷物を預け、ボーディングパスをもらう。
ベトナム航空の女性従業員が待っていて、セキュリーティー
チェックまで案内してくれる。並んでいる一番前まで連れて行って
くれて、チェック終了。

更にセキュリティーチェックの所に違う女性従業員が待って
居てくれて、「入管」まで連れて行ってくれる。
入管も長蛇の列。最前線まで連れて行ってくれて、入管手続き
終了。
入管の前に更に違う女性従業員が待っていて、飛行機の中まで
案内してくれる。

私が機中に入って10分ほどして、離陸した。

ベトナムでベトナム航空と付き合って21年になるが、
親切などという言葉とはおよそ縁遠い航空会社だったが、
ベトナム航空の成田第1ターミナルのスタッフは、本当に
親切だった。

10月にキューバ・アメリカの3週間程旅行したが、
これらの国の応対は、「親切」「サービス」という言葉が
泣くようなひどい対応だった。

日本の「おもてなし」の精神は、世界に 誇るものである。

そんな事情で何とか15分程遅れて離陸した。

離陸して直ぐに飲みものが出てきた。シャンパンを飲む。

その後、缶ビール3本。

日暮里から重たいスーツケース2つを持って、駆け足で
成田空港のベトナム航空カウンターまで行った疲れが
一気にでた。

しばらく眠ったような気がしたが、起こされ「昼食」となる。
一昨日、インプラント歯の本歯を3本入れた。歯科医師は
「今日からは何でも食べられます」という。
私は「スルメ」も食べていいですか?と聞くと「OK」とのこと。

飛行機ででた和食を両方の奥歯でしっかりと噛んで食べる。
3ヶ月振りのであった。やはり食べ物は、口の中でグルグル
回しながら食べると「味わいも一層深い」ものになる。

午後3時40分(日本時間) ホーチミン空港に到着。
約6時間のフライトだった。

ホーチミン空港の気温は32度。真夏だった。

ホーチミン空港の国際線を出る際、荷物検査を受ける。
想定していた通り「荷物を開けて、中を見せろ」という。

「デコ電」(携帯電話のデコレーション)のために材料を
多量に持って来ていた。日本料理店の子どもたちが
内職としてやりたいとのことで、昨年から実験的に
「デコ電」作りをしている。
ビース用の飾りなどかなり大量の材料を持っていた。

全ての箱を開けて中を見せろという。
前回来た時には、荷物検査の「おばさん」は2万円
程度のお金を私から取り上げた。

今回はそうした馬鹿なことはしないようにした。

デコ電材料を「サンプル」と説明。全ての箱を開け、
中の小さい材料を確認。問題ないと「無罪放免」される
のかと思ったら、「京滋YOUの会」から送られた
「手紙」の束が入っている封筒を「お金を隠しているのだろう」
との「嫌疑」で封筒を開けろという。
封筒は破き開ける。手紙だけが入っていた。

やっと無罪放免。



ホーチミン空港国内線へ。

午後7時50分発フエ行き。

ホーチミン空港で5時間程待つ。長い時間だった。
バオミンさん・税田さんに無事 ホーチミン空港に
着いたことを報告。

明日、午前8時15分から「ハンさんの誕生祝いの会」を
するとのこと。

午後2時頃から午後7時50分まで ホーチミン空港で
待たされる。
本来は、午後4時頃出発の予定だった。
しかし、4時間程遅延となり、飛行場で長い間待たされる。
こうした体験をすると「いよいよ、ベトナムに着いたか」と
改めて自らがいる位置を確認した。

午後7時50分、 ホーチミン空港を飛び立ち、午後9時半に
フエ空港に無事到着。25度。少し前まで雨が降っていたようだ。
路面が濡れている。

フエ空港は新築されていた。きれいで拡大された空港に
様変わりしていた。

いつもの「ヒゲおじさん」が車で迎えに来てくれる。

30分程で宿舎へ。午後10時過ぎ(日本時間午前0時)。

朝食を摂らず昼食のみ食し、夕食時刻も過ぎてしまった。
お腹がすいたが夕食がない。となれば、夕食の代わりに
なる「液体夕食」を少し、試飲し、眠りの世界へ。

ーーーーーー
機内で「流星ひとつ」を読む。(新潮社 2013年10月10日発行)

作家の沢木耕太郎が1979年秋に「藤圭子」にインタヴューを
した内容をそのまま掲載したものである。

藤圭子は、2013年8月22日自ら住んでいた高層マンション
から投身自殺をしている。娘の宇多田ひかるは、新聞の質問に
「母は心を病んでいた」と答えている。

このインタビューは、藤圭子が北海道旭川で「浪曲師夫妻」の
娘として生まれ、母親浪曲師は、盲目。そして、中学が
終わる頃、東京に出てきて、18歳でデビュー。直ぐに
人気者となり、シングル34枚、総計700万枚のレコードを
売る。LPも35枚、110万枚。テープ100種類で150万本。
稼ぎ出したお金が170億円。途中で前川清と結婚し、
直ぐに離婚。10年間の歌手生活をし突然引退。

藤圭子のインタヴューは、30数年前のもの。
場所は、東京紀尾井町の「ホテルニューオータニ」の
バー「バルゴー」でのもの。
中々、興味のある内容であった。
藤圭子の歌が流行った頃、私は東京巣鴨の「中華料理屋」で
働いていた。お店にあるテレビから藤圭子の歌が流れていた。

「新宿の女」がデビュー作。
「女のブルース」
 女ですもの 恋をする
 女ですもの 夢に酔う
 女ですもの ただ一人
 女ですもの 生きてゆく

私が中華料理屋で働いていた時は、
「圭子の夢は夜ひらく」が大ヒットしていた。

1971年前川清結婚する。1971年に私は
教員になっている。

藤圭子の歌と一緒に高校・大学と過ごしたような気がする。

このインタビューを読むと藤圭子という人間がどんな
人間だかがおよそ判る。

1、純粋
2、沢木の質問への回答がかなり「反抗的」
  (自分を恰好良く見せようとの野心が全くない。
   質問者の沢木が「こんな答えをっ引き出そう」と質問を
   すると、大体、予想とは反対の回答をしている。

3、単純な感想は、非常に純粋な人のように思えた。
  あるいは、この頃から、自殺する気質があったのかも
  知れないとインタヴューを読んで感じた。

4 彼女は最後まで「孤独」であり、「自分を探していたよう」に
  思えた。
5、私よりも数才年下ではあるが、大体同じ世代。
  あの68年、70年安保闘争の最中に生き、大ヒットをだし、
  大スターにのし上がった藤圭子が、あっさりと28歳で
  引退する。当時の時代背景が強く影響していたと想える。
  反体制・社会への反抗という学生運動、社会運動には
  参加していないが、流行歌手として同時代を生き、その中で
  自分と社会を見つめていた人のように思えた。
   冥福を祈る。


投稿者 koyama : 18:32 | コメント (0)

2013年11月09日

ベトナム「帰国」のための諸準備

午前中、ベトナム帰国のための荷物整理。

思っていたより荷物が増え 、2つのスーツケースとなって
しまった。

午後、会員、関係者から送られた「支援金」「奨学金」等
を銀行からおろし、ベトナム事務所へ持って行く準備。

夕方、前泊のため家を出て、安ホテルへ。

バオミンさん・税田さんにいくつかの件でメールを送る。

投稿者 koyama : 06:25 | コメント (0)

2013年11月08日

太平観光訪問・インプランント仕上げ・高校同級生懇談

午前8時半、自宅を出て池袋経由「大泉学園」へ。

太平観光の北垣会長を訪問。
北垣会長は、毎年200万円の奨学金をフエ医科大学など
の大学生・高校生・小学生に支給していた。10数年に
わたって。

北垣会長は体調を崩し、自宅で療養中。
今日はお見舞いも兼ねて太平観光を訪問。



太平観光の応接室で北垣ご夫妻と懇談。



北垣さんは、心臓の動脈乖離の大きな手術をした。
現在、回復への療養中であるが、かなり回復への
道を歩んでいるという実感を感じた。

この10数年間で総額3000万円を越す奨学金を
フエの大学・高校・小学生などに支給してきた。

心から感謝している。

今日は、2013年分の奨学金を頂く。

午後1時半、自宅へ帰る。

急いで「インプラント歯」の本歯入れに歯科医院に行く。

最終の本歯を入れる治療を行う。結構、上下の歯の
かみ合わせがうまく行かず、2時間程時間がかかる。

最終的にインプラント歯の噛み合わせもうまく調整できる。
医師・医療者の皆さんに感謝。
これで堅いものも何でも両方の奥歯で噛めるようなった。

今後、数か月したら最終チェックが必要となる。

午後5時、歯科医を出て、地下鉄・J経由で池袋へ。


高校の同級生のT君(ラオス在住)とY君(50年ぶりに会う)
と懇談。


午後9時まで「来し方行く末」について懇談する。

帰宅は午後9時過ぎ。

投稿者 koyama : 22:00 | コメント (0)

2013年11月07日

心臓病院→テレビ関係者懇談

午前中小雨

午前8時半、自宅を出て新宿の心臓専門「榊原クリニック」へ。
地下鉄で春日経由都庁前へ。

外は小雨。心臓病クリニックは都庁の前にある。
都庁前を通るとたくさんの「ホームレス」の皆さんが
都庁前の空き地に「避難」していた。

心臓病院へ来る度に「日本社会」の深層を見る思いである。

時々帰国する我が祖国日本は、「偽装社会」でもある。

トップは安倍首相のオリンピック招致演説。
「福島の原発は完全にコントロールされている」との発言。
この安倍無責任発言を頂点に「大手大企業」ホテルなどの
食品偽造事件の続発。
日本社会のモラル喪失の現実でもあるが、都庁前では
雨を避けて午前9時過ぎには、たくさんのホームレスの
皆さんが寝ている現実。何とも言葉が出ない日本社会である。

この病院は予約制。数日前に診療予約の電話をしたが、
予約は一杯とのこと。数時間待てば受診可能とのこと。
日本滞在中の日程が満杯。病院へ行く時間がない。
今日は早目に病院へ行き、受信を待つ。
2時間程待ち、心電図、心臓のレントゲンを撮る。
更にしばらく待ち、20年近く専門医として私の心臓を
見守ってくれている「A医師」の受信を受ける。
既に長い付き合いなので色々な話をする。
私が先生の年齢をうかがうと「80歳を超えている」とのこと。

血液を溶かす薬、精神安定剤など4種類の薬をもらう。
既に20年近くこの薬を飲んでいる。死ぬまでこの薬を
手放すことはできない。午後12時半に受診終了。
薬をもらう。(明後日、自宅を出てフエへ行く。フエで
飲む薬としてフエへ持ち帰る。今後、2ヶ月~3ヶ月は
フエに滞在する。その間の薬)

しばらく新宿西口を散策する。大学時代(1960年代)
新宿西口の「しょんべん横丁」の大衆食堂に通ったことが
ある。当時住んでいた板橋区十条付近から武蔵小金井の
大学まで通っていた。途中、池袋→新宿→武蔵小金井と
新宿を経由しての通学だった。
しょんべん横丁は、一時火事になったが、昔の面影を
残していた。

午後2時、テレビ関係の方お2人と新宿東口の喫茶店で
2時間程懇談。11月25日からのフエ・JASS・「子どもの家」
日本料理店などの取材の最終打合せ。
二人とも真面目な方々だった。こういう方の取材なら
安心して協力できると思った。
放映は、12月29日(日)午後6時~10時位とのこと。
「テレビ東京系」で放映される。

その後、新宿から日暮里へ。
11月10日午前10時成田発の飛行機でフエへ帰る予定。
日暮里→成田のスカイタイナーの切符を買いにいく。
何となく「心に引っ掛かるもの」があったので、観光会社
にいる次男に電話。成田→ ホーチミン市→フエの
飛行機の時刻の変更はないか、確認してもらう。
やはり想像通りだ。

成田発10時→9時半に変更。
ホーチミン発フエが午後4時55分が午後7時30分に
変更されていた。
午前10時 成田発のつもりで成田空港へいくつもりだった。
30分出発が早まったので、早く空港へついていなければならない。
日暮里発のスカイライナーも30分早目のものを買う。

午後7時、自宅へ帰る。明後日のフエ「帰国」に向けて
荷物の整理。

JASS会員の「Kさん」から電話。
同会員「Uさん」から電話。
里親の「Oさん」から電話。

昼間、高校同級生のN君から電話。陸上部に所属し、
一緒に3年間、陸上をやった仲だ。高校卒業後、
50年。一度、偶然、地下鉄の中であったことがある。
弁護士となっているN君だ。人権擁護委員をしている
とのこと。人権講演会をしてもらえないかとの話。
喜んで受けることにした。

同時にNからやはり同級生のY君が私と連絡を取りたい
と言っているとのこと。私の携帯電話を教えて、と頼む。

その後、高校同級生のY君から電話。Y君とも50年間
ほど会っていない。私に会いたいとのこと。
明日、午後4時、池袋で会うことにする。
高校を卒業し50年程、半世紀振りに明日Y君と会う。

投稿者 koyama : 07:23 | コメント (0)

2013年11月06日

終日、メール等での連絡

午前8時起床。

ベトナム事務所からのメールへの対応。

高校友人から50年ぶりにメールが来る。

ビックカメラとのトラブルについての総括を行う。

投稿者 koyama : 19:23 | コメント (0)

2013年11月05日

何人かの方々と面会

午前10時、巣鴨駅で高校同級生の與芝君と会う。
喫茶店で打合せ。ベトナム事務所で行っている
「デコ電」関係の材料をベトナムへ運搬することを
頼まれる。1時間程、話し合う。デコ電以外にも
日本の腐りきった政治・世情について、改革の話し合いを
する。


巣鴨から五反田へ。

ブライセン本支社で藤木社長と懇談。
今後のブライセンのフエでの活動等について話し合い
完全な合意に達する。

午後2時、池袋の「ビック・カメラ」へ。

数日前の「小型スキャナー」事件について、ビックカメラ
店長のY氏、店長代理のE氏と懇談。

「小型スキャナー問題」について協議。Y店長がわざわざ
我が家に来られるとのことだったが、それは申し訳ない
ことなので、私が自ら「ビック・カメラ池袋店」へ出向く。

1時間程話し合う。

私としては、①従業員がきちんとした商品への知識がないこと
②来客へ真摯な対応ができなかったこと
③トラブル発生の際に管理職が適切な対応をできなかったこと
などについて、意見を言う。

ビック・カメラ側は、自らの過ちを認め謝罪」をした。
その時点で、この問題は終わりにする。

午後6時過ぎ、帰宅。

20数通のメールを受信。返信に数時間の時間を要す。

投稿者 koyama : 14:03 | コメント (0)

2013年11月04日

母方の親戚の家へ

午前10時、上野駅で姉と合流。

午前11時、母方の実家へ。土浦市。

実家に居住している母方の従兄妹と懇談。


戦争で死んだおじさんや母の若い頃の写真などを
見せてもらう。

母の父親(私の祖父)は、明治時代に当時の原野であった
土浦へ移住。土浦一体の開墾・開拓をした最初の人間であった。

投稿者 koyama : 19:20 | コメント (0)

2013年11月03日

浅草「酉の市」へ

午前9時、自宅を出て浅草酉の市へ。

今日が日曜日だとは知らずに「一の酉」に行った。
おおとり神社の入り口には、多くの人たちが列を作くり
参拝の順番を待っていた。



今年は「三の酉」まであるので、火事が多いとの
言い伝えがある。

境内で「縁起物」を二つ買う。




父親が浅草で育ったので、子供の頃から浅草の縁日
などに連れていかれた。今でも「上品ぶった、阪神・阪急
ホテル」などの偽高級ホテル・レストランよりも、浅草の
大衆的な安い食べ物の方がおいしく、且つ好きである。


酉の市は浅草。地下鉄では「入谷」。
入谷の隣りは上野。帰りには、上野から近くの
根津に住んでいる姉の家に行き、酉の市の縁起物を
持って行った。

午後五時半頃、ビックカメラの店長さんから丁寧な
電話があった。

インターネットを調べると「ビック・カメラ」は「ブラック企業」
のカテゴリーに入っていた。働く従業員も無理難題の
経営体質の中で苦労しているのだろうな、と思い、
考えさせられるものがあった。

11月5日の午後、再度、ビックカメラ池袋店に行く約束をする。

投稿者 koyama : 17:37 | コメント (0)

2013年11月02日

ビック・カメラと言う量販店の実態

バオミンさんとキューバに行き、キューバの公安警察に
バオミンさんの「携帯スキャナー」が取り上げれれてしまった。
その事件を通して、「携帯・小型スキャナー」があることを知った。

昨日、池袋の「ビックカメラ」に「小型携帯スキャナー」を
買いに行ったが、以下のようなトラブルがあり、ビックカメラの
池袋本店の店長に以下のような抗議の文章を送った。

ビックカメラが真っ当な会社かどうかは、この手紙の
返事でわかるというものである。

以下、ビックカメラに送った手紙の全文を添付する。

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ビックカメラ
池袋本店店長殿


前略にて失礼致します。
突然、手紙をお送りし申し訳ありません。
私は小山道夫と申します。住所は東京都板橋区高島0-00-00(携帯電話 000-0000-0000)に居住しております。
実際の仕事はベトナムでストリートチルドレンや障害児の支援をしています。既に20年間、現地に住んで活動をしております。
1年間に2回程度日本に帰国して、講演会などを行っています。(詳細は同封の資料をご覧ください。決して「怪しい者」ではありません)以上、簡単な自己紹介です。

 以下、2013年11月1日、午後5時頃貴店池袋本店パソコン館にて体験した「異常な接客」「一種の偽装販売的」な社員の態度に接し、非常にショックを受け、同時に不愉快な思いを長時間させられました。
 今後、他の顧客に同様の出来事が起こらないよう、店長さんに「ことの顛末」をお知らせし、貴店パソコン館の店長代理『E氏』、2階プリンタ・サプライコーナー担当の『Tさん』の猛省を望むものです。

(1) 何が起こったのか?
① 2013年11月1日午後3時頃、貴店2階で「小型スキャナー」を買いました。販売員に「私はITの知識があまりないこと」「大量の文書を毎日読んでおり、大事な文書をスキャンして、パソコンに保存したい」と伝え「移動しても使える小型のスキャナーを買いたい旨」を伝えました。
② スキャナー付近にいた店員さんは、「私はスキャナーは詳しくないので詳しい者を呼んで来る」といい、30歳代と思われる男性が来ました。私の趣旨を説明すると「ブラザーのスキャナーは、ちょっと前までは倍の値段だったが、今は半額になった。性能は変わらない」との説明があったので、その小型スキャナーを買いました。
③ キャッシャーで「ビックカメラのカード」を使い支払いをし、店を出ました。
④ それから2時間程、池袋の本屋などを散策し、疲れたので喫茶店で一休みしました。その際、貴店で購買したスキャナーを開封し、素人の私でも本当に使えるか?を確認しました。
⑤ すると、開封し箱の中には、スキャナー関連の器具はありましたが「使用説明書」がありません。これでは、私はどうのように貴店から購入したスキャナーを使ったら良いのか分からないので、
再度、貴店池袋本店パソコン館2階に
 行きました。
⑥ 2階キャッシャーの女性に「店長さんに会いたい。先ほど購入した品物の件で話をしたい」と伝えましたが、「店長は忙しくて会えない。代わりに店長代理がいます」との返事でしたので、E店長代理にお会いしました。
(2) 私は何を言い、貴店関係者はどのような対応をしたのか?
① E店長代理に「スキャナーを買ったが、使用説明書がない。説明書がないと使えないので、助けてほしい」とお願いしました。
② E店長代理は、「使用説明書は入っています。CDがそれです」との回答でした。
③ 私は最初から「ITには疎い人間です」と
申し上げています。例え「CDが説明書」であるなら、スキャナーを入れた箱の中に「CD」が入っています、そこに使用法が書いてあります、との「取扱い説明書」を入れておくのは常識ではないか?と私は言いました。
④ しかし、E店長代理は、「CD」に説明が書いてある、との返事に終始しました。私のような素人は、CDが何のために「箱の中」に入っているのか、その理由がわかりませんでした。
⑤ E店長代理に「私にこのスキャナーを説明・販売した販売員の方は、スキャナーの箱の中を見たことがあるのか?
梱包の箱の中にどんな書類や器具が入っているのか? 販売員は箱の中を開けて見たことがありますか?」と聞きました。E氏は調査し、販売員は、自分が私に販売した「スキャナー」の箱の中を見ていないことが判明しました。
⑥ 確かに解説書を入れていない責任は製造会社の「ブラザー」にあります。
 しかし、その製品を仲介販売する貴社にも「販売」の責任はあります。
最低、販売する販売員は、まずもって
 自らが販売する製品の箱の中に何が入っているのかを確認する義務はあります。然し、貴社の「スキャナー販売員」は自らが顧客に販売する製品の内容を何ら確認せず、箱の内容についての知識を一切持たずに顧客に製品を販売していたことがわかりました。無責任の誹り(そしり)を免れることはできません。
⑦ 仕方がないので、せっかく購入しても「このままでは、私はスキャナーが使えない」。使用説明書が欲しい、と再度
 お願いしました。
⑧ E店長代理は、「それでは、プリンタ・サプライコーナ担当のTさんに使用説明書の代わりに使い方を説明させます」とのことでしたので、私は喜び、感謝して「宜しくお願いします」とお礼の言葉を言いました。
⑨ Tさんが、使用説明を始めた最初から、内蔵していた紙の使い方がわからないと言い出しました。
これでは、使用説明になりません。
私がお金を支払って購入したスキャナーですので、使えなければ意味がない訳です。私は難癖を付けるために言っているのではありません。スキャナーの使用説明書が入っていないので
 使用方法を教えて欲しいというお願いをしただけです。
 貴社T社員が、「教える」と言って、スキャナーの箱を開け、教え始めた冒頭からTさん自体も「使用法」が分からないという醜態を演じてしまいました。
⑩ もうこの時点で、貴店に入店して2時間以上の「無駄な時間」を過ごしています。使用説明書がない代わりにTさんが教えると大見得を切ったにも関わらず、Tさんは、冒頭から紙の使い方さえ分からないという、製品販売業者の最低の知識、技能もありませんでした。
⑪ 私が午後3時に「スキャナー」を購入し、更に午後5時から午後7時過ぎまでかかって、簡単なスキャナーの使用書をもらおうとしました。
 しかし、販売担当者は、スキャナーの入った箱の中を見たことがない。何が箱の中に入っているのか?という販売業者の最低限の仕事すらしていな実態を知りました。
 更に2階フロアーの責任者であるTさんは、スキャナーの使い方を教えると称して、冒頭から「スキャナーの入っている箱の中の紙」の使い方すら分からないという「常識では考えられない異常な貴店2階フロアーの担当者・責任者」の実態を知るに至りました。
⑫ 私は、2時間以上も貴店の社員に「引き回され」、その上、「使用説明すらできない」社員の実態を見て、「もう、このスキャナーは、いらない、使えない」、と判断し、スキャナーの箱を足で踏みつけ、全てをぶち壊し、店を出ました。
自分で5180円のお金を出して買った「スキャナー」です。2時間も引き回され、その上、貴店責任者までが、
使用説明ができない「スキャナー」を買ってしまった私の責任が大きいと判断しました。どうせ家へ持って帰っても使えない「スキャナー」なので、貴店のE氏・T氏の目の前で、スキャナーをぶち壊しました。
⑬ 仕方がないので、「ビックカメラ」の隣りの「ヤマダ電機」で真っ当なスキャナーを買おうと、「ヤマダ電機」へ行こうとしましたら、E氏が「ヤマダ電機」まで案内しました。
⑭ 私は「競争相手」のヤマダ電機に私を案内するE氏を見て、この「男は何を考えているのだろう」と思いました。
E氏の行動は、自分の恋人を他の男性に紹介するようなものです。
 E氏が本当に「ビックカメラ」の店長代理なら、競争相手のヤマダ電機に私を連れていく「バカ」はありません。
⑮ 結局、この日はヤマダ電機できちんと説明を聞いて、新しいスキャナーを手に入れ帰宅しました。申し訳ありませんが、ヤマダ電機はきちんとした説明と親切な応対をしました。短時間ですべてが完了し、帰宅しました。
⑯ 貴店で「5180円」を支払って購入した「スキャナー」は、「通り魔に会った」と思い、「命だけは助かった」ので良かったと思い「足で踏みつぶし」「諦めて」います。

(3) 結論
以上、2013年11月1日午後5時から午後7時過ぎまでの間、貴店パソコン館2階で起こった出来事を記載し、
今後、こうした問題で「泣き寝入り」する人が出ないようにして頂きたく、貴店最高責任者である店長さんに「ことの顛末」をお知らせする次第です。
    私は貴店に何も求めるものはありません。ただ、貴店で起こった出来事・事実を私のブログ等で世間の皆さんに知って頂き、ビックカメラ池袋本店パソコン2階で起こった出来事を報告し、
   私と同じような体験をし、「お金は取られるは、品物は使えないは」「従業員は製品についての知識がなく、説明責任を全く果たしていない」という「事実」を公表しようと決意しているところです。

文末になりますが、店長さんを始め、貴店の
従業員の皆様のご健康をお祈りいたします。
                草々
2013年11月2日
小山道夫 拝

投稿者 koyama : 18:41 | コメント (0)