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2013年11月10日
成田→ ホーチミン市→フエ
日暮里駅で午前7時41分のスカイライナーに乗ろうと
したが、7時35分頃、突然の「地震」。京成線ホームの
屋根が大きく揺れる。
ホームの屋根にある蛍光灯が左右に揺れる。
ホームの地下から「突き上げる」ような振動が足に伝わる。
しばらくして構内放送。「現在、東京を中心に震度4の地震が
ありました。全ての列車は安全が確認されるまで停止します」
とのこと。
午前9時半成田発の飛行機に乗る予定。
結局、1時間程列車がストップしてしまう。
午前8時20分にスカイライナーは出発した。
しかし「安全を確認しながら進みますので、20キロの
速度になります」とのこと。
通常でも日暮里から成田第1ターミナルまでは、約1時間程
かかる。
ゆっくりと進む。このままでは、到底、午前9時半の出発に
間に合わない。
しばらくして千葉県に入った頃に「安全が確認されましたので
通常の速度で進行します」との車内放送。
結局、成田第1ターミナルに着いたのは、9時20分。
第1ターミナルの「北ウイング」(中森明菜の歌に出てくる)
4階の出発カウンター着、午前9時35分。
既に ホーチミン市行きの飛行機の出発時間が過ぎていた。
急いでベトナム航空のカウンターに行ったのは、私一人。
「もうダメか?」と諦めつつ、カウンターに行くと、「待っていました」
とのこと。急いで荷物を預け、ボーディングパスをもらう。
ベトナム航空の女性従業員が待っていて、セキュリーティー
チェックまで案内してくれる。並んでいる一番前まで連れて行って
くれて、チェック終了。
更にセキュリティーチェックの所に違う女性従業員が待って
居てくれて、「入管」まで連れて行ってくれる。
入管も長蛇の列。最前線まで連れて行ってくれて、入管手続き
終了。
入管の前に更に違う女性従業員が待っていて、飛行機の中まで
案内してくれる。
私が機中に入って10分ほどして、離陸した。
ベトナムでベトナム航空と付き合って21年になるが、
親切などという言葉とはおよそ縁遠い航空会社だったが、
ベトナム航空の成田第1ターミナルのスタッフは、本当に
親切だった。
10月にキューバ・アメリカの3週間程旅行したが、
これらの国の応対は、「親切」「サービス」という言葉が
泣くようなひどい対応だった。
日本の「おもてなし」の精神は、世界に 誇るものである。
そんな事情で何とか15分程遅れて離陸した。
離陸して直ぐに飲みものが出てきた。シャンパンを飲む。
その後、缶ビール3本。
日暮里から重たいスーツケース2つを持って、駆け足で
成田空港のベトナム航空カウンターまで行った疲れが
一気にでた。
しばらく眠ったような気がしたが、起こされ「昼食」となる。
一昨日、インプラント歯の本歯を3本入れた。歯科医師は
「今日からは何でも食べられます」という。
私は「スルメ」も食べていいですか?と聞くと「OK」とのこと。
飛行機ででた和食を両方の奥歯でしっかりと噛んで食べる。
3ヶ月振りのであった。やはり食べ物は、口の中でグルグル
回しながら食べると「味わいも一層深い」ものになる。
午後3時40分(日本時間) ホーチミン空港に到着。
約6時間のフライトだった。
ホーチミン空港の気温は32度。真夏だった。
ホーチミン空港の国際線を出る際、荷物検査を受ける。
想定していた通り「荷物を開けて、中を見せろ」という。
「デコ電」(携帯電話のデコレーション)のために材料を
多量に持って来ていた。日本料理店の子どもたちが
内職としてやりたいとのことで、昨年から実験的に
「デコ電」作りをしている。
ビース用の飾りなどかなり大量の材料を持っていた。
全ての箱を開けて中を見せろという。
前回来た時には、荷物検査の「おばさん」は2万円
程度のお金を私から取り上げた。
今回はそうした馬鹿なことはしないようにした。
デコ電材料を「サンプル」と説明。全ての箱を開け、
中の小さい材料を確認。問題ないと「無罪放免」される
のかと思ったら、「京滋YOUの会」から送られた
「手紙」の束が入っている封筒を「お金を隠しているのだろう」
との「嫌疑」で封筒を開けろという。
封筒は破き開ける。手紙だけが入っていた。
やっと無罪放免。
ホーチミン空港国内線へ。
午後7時50分発フエ行き。
ホーチミン空港で5時間程待つ。長い時間だった。
バオミンさん・税田さんに無事 ホーチミン空港に
着いたことを報告。
明日、午前8時15分から「ハンさんの誕生祝いの会」を
するとのこと。
午後2時頃から午後7時50分まで ホーチミン空港で
待たされる。
本来は、午後4時頃出発の予定だった。
しかし、4時間程遅延となり、飛行場で長い間待たされる。
こうした体験をすると「いよいよ、ベトナムに着いたか」と
改めて自らがいる位置を確認した。
午後7時50分、 ホーチミン空港を飛び立ち、午後9時半に
フエ空港に無事到着。25度。少し前まで雨が降っていたようだ。
路面が濡れている。
フエ空港は新築されていた。きれいで拡大された空港に
様変わりしていた。
いつもの「ヒゲおじさん」が車で迎えに来てくれる。
30分程で宿舎へ。午後10時過ぎ(日本時間午前0時)。
朝食を摂らず昼食のみ食し、夕食時刻も過ぎてしまった。
お腹がすいたが夕食がない。となれば、夕食の代わりに
なる「液体夕食」を少し、試飲し、眠りの世界へ。
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機内で「流星ひとつ」を読む。(新潮社 2013年10月10日発行)
作家の沢木耕太郎が1979年秋に「藤圭子」にインタヴューを
した内容をそのまま掲載したものである。
藤圭子は、2013年8月22日自ら住んでいた高層マンション
から投身自殺をしている。娘の宇多田ひかるは、新聞の質問に
「母は心を病んでいた」と答えている。
このインタビューは、藤圭子が北海道旭川で「浪曲師夫妻」の
娘として生まれ、母親浪曲師は、盲目。そして、中学が
終わる頃、東京に出てきて、18歳でデビュー。直ぐに
人気者となり、シングル34枚、総計700万枚のレコードを
売る。LPも35枚、110万枚。テープ100種類で150万本。
稼ぎ出したお金が170億円。途中で前川清と結婚し、
直ぐに離婚。10年間の歌手生活をし突然引退。
藤圭子のインタヴューは、30数年前のもの。
場所は、東京紀尾井町の「ホテルニューオータニ」の
バー「バルゴー」でのもの。
中々、興味のある内容であった。
藤圭子の歌が流行った頃、私は東京巣鴨の「中華料理屋」で
働いていた。お店にあるテレビから藤圭子の歌が流れていた。
「新宿の女」がデビュー作。
「女のブルース」
女ですもの 恋をする
女ですもの 夢に酔う
女ですもの ただ一人
女ですもの 生きてゆく
私が中華料理屋で働いていた時は、
「圭子の夢は夜ひらく」が大ヒットしていた。
1971年前川清結婚する。1971年に私は
教員になっている。
藤圭子の歌と一緒に高校・大学と過ごしたような気がする。
このインタビューを読むと藤圭子という人間がどんな
人間だかがおよそ判る。
1、純粋
2、沢木の質問への回答がかなり「反抗的」
(自分を恰好良く見せようとの野心が全くない。
質問者の沢木が「こんな答えをっ引き出そう」と質問を
すると、大体、予想とは反対の回答をしている。
3、単純な感想は、非常に純粋な人のように思えた。
あるいは、この頃から、自殺する気質があったのかも
知れないとインタヴューを読んで感じた。
4 彼女は最後まで「孤独」であり、「自分を探していたよう」に
思えた。
5、私よりも数才年下ではあるが、大体同じ世代。
あの68年、70年安保闘争の最中に生き、大ヒットをだし、
大スターにのし上がった藤圭子が、あっさりと28歳で
引退する。当時の時代背景が強く影響していたと想える。
反体制・社会への反抗という学生運動、社会運動には
参加していないが、流行歌手として同時代を生き、その中で
自分と社会を見つめていた人のように思えた。
冥福を祈る。
投稿者 koyama : 2013年11月10日 18:32