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2004年12月31日
大晦日ー年越し
中国の方から「冷気」が南下し、ベトナムはこれから1週間
異常に冷え込むとの予報。
今日の天気予報では、中越国境付近が「2度~4度」、
ハノイ「7度~10度」、フエ「14度~19度」。
明日、フエは「12度」とのこと。今日も朝から異常に寒い。
雨。通常、寒いと言っても20度以上。12度14度などという
気温は滅多にない。毛布1枚では寒くて眠れない。
午前9時、トンチンカンホテルにハイバーチュン中・高校の
副校長先生と2人の先生が訪ねてきた。
年末の挨拶とのこと。ハイバーチュン中・高校のカレンダーと
生姜の砂糖漬け、生花を頂く。副校長先生は2005年5月で
退職とのこと。
●ハイバーチュン中・高校副校長先生たちと
午前中、JASS第11回総会議案書ー総括部分を書き上げ、
役員会へ送信。今回は「子どもの家」の全スタッフ
ベトナム事務所員、日本人スタッフから意見を聞き、必要な
部分は総括に取り入れた。
午後、「あとぴナビ」(全国アトピー友の会機関誌)の原稿
2つ(800字×2)を書く。
午後5時半、トンチンカンの日本人スタッフで年越し。
皆さんが持ち寄って、年越しそば、おでんを作る。
午後5時半は日本の午後7時半。NHKの紅白歌合戦が
始まる時刻。40年ぶりに昨年紅白をみる。今年で2年連続
ということになる。残念ながら知っている歌手と歌がほとんない。
山本譲二が「ふるさとの歌を歌おう」を歌った。1965年頃
北原謙二が歌ったなつかしい歌。
東京が雪で真っ白。日本全国も雪の大晦日ー年越しとなった。
今年は災害と戦争とテロ(拉致も含め)で明け暮れた。
来年は、平和と人間が大切にされる年であることを祈る。
投稿者 koyama : 21:16 | コメント (0) | トラックバック
2004年12月30日
「子どもの家」の子どもたち
A9ベトナム事務所へ。札幌の外科医・大西さん父娘が事務所へ。
1時間ほど、JASS活動を説明する。娘さんは高校2年。
今井君と一緒に「劣化ウラン弾」の問題を究明するNGOを行っている。
高遠さんとも交流があるそうだ。
午前10時過ぎ、「静岡フエ青年交流会館」ーオートバイ研修センター
などを視察し「子どもの家」へ。
ベトナム事務所のサンさんと一緒に「子どもの家」を案内。
午前11時半、「子どもの家」で子どもたちと一緒に昼食を摂る。
昼食は「ご飯」「アヒルの玉子焼き」「インゲン炒め」「にがうりのスープ」。
子どもたちは、期末試験の真っ最中。2週間にわたって
試験が行われている。フエは気候も安定し、子どもたちも
昼食を楽しんでいた。1月1日の陽暦正月にはほとんど興味が
ないようで、2005年2月9日の旧暦の「テト正月」を楽しみにしている。
10周年記念文集に載せる子どもたちの顔写真を撮る。
最後の一人がとこかへ行ってしまい、明日また来て撮ることとする。
●今日の昼食 アヒルの玉子焼き、インゲン炒め、ニガウリスープ
午後3時、ベトナム事務所で日本人スタッフの年末反省。
小山・坂本・原・松下・中村さんが参加。
日本語教師として赴任しての苦労、フエに住んでの問題点
など今後改善すべき諸問題を話し合う。
投稿者 koyama : 20:40 | コメント (0) | トラックバック
2004年12月29日
教え子の結婚式に参加
午前8時過ぎ、ベトナム事務所でミンさんと「10周年文集」作成
の打ち合わせ。
午前9時、フエ市人民委員会ニエン外務部長と当面の緊急問題
で打ち合わせ。
午前11時からフエ師範大日本語クラスの教え子(第2期生)の
SON君の結婚式に参加。ミンさん、サンさんと一緒に。
10年前に教えた学生である。現在は日本に滞在し、日本の会社
で仕事をしているとのこと。
●教え子SON君と新婦、ご両親と
ベトナムの結婚式は本当に「ざっくばらん」なものである。
SON君の結婚式には300人もの人が参加。席も決まっていない。
披露宴が始まる前に参加者は勝手に乾杯をし飲み始める。
家族・本人挨拶は1分ほど。後は、参加者に美味しい料理を
食べてもらい、カラオケ大会で楽しんでもらうといもの。
文字通り関係者を招待しての「披露宴」である。
約2時間、延々と料理と生バンドのカラオケ大会が続く。
ビールは氷を入れるビール。私は生暖かいビールを飲む。
却って酔ってしまう。
結婚式にはフエ師範大学時代の教え子が何人か来ていた。
女子の教え子はみんなお子さんがいるとのこと。
●教え子と新郎新婦と
結婚式参加後、気分が悪くなる。吐き気。夕食を抜きにする。
日本教育公務員弘済会「きょうこう通信」最終号(4000字)
全国アトーピー友の会機関誌「あとぴナビ」3月号(800字)の
原稿を書き上げ、送信する。必要な写真を探し添付する。
スマトラ沖地震と津波の被害の大きさに心痛む。
今年は自然災害と戦争で終わった年のような気がする。
一説には7万人の死者との報道もある。
スリランカ、インドそしてアフリカ諸国の被害者、被災者を
思うと言葉が出ない。
投稿者 koyama : 21:11 | コメント (0) | トラックバック
2004年12月28日
「子どもの家」創立10周年記念文集写真撮影
午前中、バオミン・ベトナム事務所長と打ち合わせ。
12月24日のクリスマス会に参加した日本事務所の
上原祥子さんが帰国の挨拶。わざわざ日本から来て頂き
感謝。
午後2時過ぎ、「子どもの家」へ。
「子どもの家」創立10周年記念文集用の子どもたちの
顔写真を撮影に行く。訪日したソン君と一緒に。
30人が文集に寄稿した。今日は6人が学校へ行っていたため
24人の顔写真を撮る。デジカメで2枚、フイルムで2枚。
出来るだけ子どもたちの笑い顔を撮ろうと努力したが中々
難しい。2月6日の総会には間に合うよう出来るだけ早く作成
することにしている。
先日の台風被害で雨漏りとなった食堂の屋根の張替えと
隣の倉庫との間の補修が終わった。
また、「子どもの家」全体の電気の総合的な修理も完了。
これらの修復・修理は京滋YOUの会の水本さんのご支援で
全て行われた。改めて水本さんに深謝。
役員会にいくつかの重要事項の報告を行った。
午後7時過ぎのトゥアティエンフエテレビで昨日の観光学校卒業式
の様子が報道された。坂本さん、原さん、松下さん、フーンさんの
日本語教師たちがアップで写っていた。
午後10時半、この日記のアクセス数が「11111」となった。
2002年8月2日から2年5ヶ月。
投稿者 koyama : 20:51 | コメント (0) | トラックバック
2004年12月27日
忙しく1日を過ごす
インドネシアの地震とその後の津波の凄さと被害の大きさに
声を失う。タイのプーケット島では、冬休みを利用して家族旅行
に出かけた子どもたちが被害にあっているようだ。
1万8千人以上の死者が出ている模様で、心痛むものがある。
被害にあった方々に心から哀悼の意を表したい。
私もプーケットに行ったことがあるが、島全体が貧困な中に
外国人用の豪華なリゾートが作られていた。
およそ津波対策など出来ない貧しい地域と豪華なリゾート。
世界の南北問題を象徴しているようであった。
今年は、世界中が自然の猛威と驚異に目覚めた年でも
あった。人間が自然を完全にコントロールは出来ない。
『自然を「いじる」のもほどほどに』との警告でもあるように
思える。
午前7時、トンチンカンにリー君とホア君が訪ねてくる。
午前9時、ベトナム事務所へ。
昼食時、停電となる。ロウソクの中での昼食となった。
しばらく停電は続いた。
●停電の中で昼食を摂る
午後2時、フォンザングループ総支配人のドン氏と懇談。
12月24日のクリスマス会の不祥事についてフォンザングループを
代表してお詫びするとのこと。今日午後5時、フェスティバルレストラン
関係者全員を集め反省会をする。必要な処分をするとのこと。
私は「子どもたちから楽しみを奪ったこと、日本からの支援者の
気持ちを逆なでしたことについて、大変残念に思う」との話をした。
今日午後5時の全員集会での反省会の結果に基づき、
フェスティバルレストランからしかるべき対応があると思う。
結果を待つ。
午後2時45分、ヤーホイ高校へ。2005年2月14日から
フエに来る京都産業大学の学生22人との交流会の打ち合わせ。
校長は喜んで交流会を受け入れてくれた。フエの伝統お菓子を
日越の学生で食べながら交流しようとの積極的な提案が校長
からあった。
●ヤーホイ高校校長先生との懇談
午後3時半からトゥアティエンフエ省立観光学校卒業式に参加。
ベトナム事務所近くのセンチュリーリバーサイドホテルにて。
この学校は「ハノイ国民経済大学」と提携し観光の授業内容を
指導している。卒業認定はベトナム教育訓練省が行う。
実際の認定は、ハノイ国民経済大学が代行する。
今日は同大学のMANH教授が卒業認定を行った。
71名の対象者の中で卒業認定を受けた生徒は61名。
10名が落第。
71名の生徒の中に「静岡フエ青年交流会館」付属日本語学校
の日本語ガイドコースの生徒20人も含まれている。
今日卒業証書をもらい、今後、「静岡フエ青年交流会館」付属
日本語学校で2年間日本語の勉強をし、私たちが日本語ガイドの
資格を付与してもよいと判断した生徒のみが、国家認定の
「日本語ガイドライセス」が付与される。
今日、落第した10人には「再試験」のチャンスが与えられるとのこと。
20人の日本語学校生徒のうち何人が落第したかは「不明?」。
●トゥアティエンフエ省立観光学校卒業式会場風景
●トゥアティエンフエ省観光副局長のTHANH氏と
「静岡フエ青年交流会館」付属日本語学校教師
クリスマス会を寄贈してくれた内田さんから電話。
12月25日(土)夜11時半頃のANA機でホーチミンから
成田へ帰国する予定だったが、機内に入ってしばらくすると
降ろされ、結局、ホーチミン市内で1泊することになったそうだ。
昨日の日曜日、午後10時過ぎに何とか成田に到着したとのこと。
中野の自宅に着いたのは、午前12時過ぎ。大変なベトナム旅行
だった。私は日曜日の朝、無事成田に着いたとばかり思っていた。
大変な旅行、お疲れ様でした。
夕食後、「子どもの家」創立10周年記念文集の最終校正を
行う。
投稿者 koyama : 20:54 | コメント (0) | トラックバック
2004年12月26日
全教千葉の先生方ハノイへ。
午前6時半、ラームさんと一緒に全教千葉の先生方を
迎えにフォンザンホテルへ。午前7時、フォンホテルを出て
フエ空港へ。8時50分のハノイ行きに乗る。今回はラームさんも
添乗しハノイ、北部山岳民族訪問などを行う。
●千葉の先生方と記念撮影
午前8時、フエ空港からトンチンカンホテルへ。その足で
ドンバ市場市場へ。きょうこう通信最終号用の写真を撮りに。
野菜、肉、魚などを撮る。途中、路上で韓国「ヨン様のブロマイド
が売られていた。
午後、「子どもの家」創立10周年文集(子どもたち、スタッフ等)
全員の原稿に目を通し、言葉遣いなどの最終調整・チェックをする。
投稿者 koyama : 21:05 | コメント (0) | トラックバック
2004年12月25日
福田副代表 5年4ヶ月のベトナム事務所勤務を終わり帰国
午前9時、福田副代表は5年4ヶ月のベトナム事務所での仕事を
終え、トンチンカンホテルを出発した。
長い間のベトナム事務所での仕事に感謝。
ベトナム事務所員全員で見送り。
福田副代表のご両親と内田さんも一緒に帰国。
●フエ空港で全員の記念撮影
昼食後、「子どもの家」へ。子どもに里親の手紙を手渡す
●日本の里親からの手紙をベッドで熟読するチュン君
午後、昨夜のクリスマス会でのレストラン側の不祥事について
社長に「お願い文」を出す。(詳細は「続きを読む」に)
午後4時、全教千葉の先生方と近くの「ミーアン温泉」へ。
市内から車で15分。
私は体調が心配なので入浴せず。庭で待つ。
先生方は1時間ほど温泉につかる。
入浴後、車で市内に戻り、食堂「フォーサイゴン」で夕食。
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お 願 い
DONG フォンザングループ社長殿
前略にて失礼致します。
私はベトナムの「子どもの家」を支える会(JASS)代表の小山道夫と申します。
いつも、37グエンチャイ「子どもの家」やストリートチルドレン、生活困難な子どもたちに関心を持って頂き感謝しております。
さて、今日は12月24日、貴社の「フェスティバルレストラン」で行われたJASSのクリスマス会の件でお願い致します。
12月24日、午後7時半まで私たちは「フェスティバルレストラン」をお借りし、
37グエンチャイ「子どもの家」の子どもたちのクリスマスパーティーを行う予定でした。ところが、午後7時前に「フェスティバルレストラン」の係りの人は机を移動し、掃除を始めました。日本からの支援者など多くの人たちから椅子と机を取り上げました。結局、クリスマスパーティーは、途中で中止し、午後7時には終了せざるを得ませんでした。
●今回の「フェスティバルレストラン」の行動と態度には以下のような問題があります。
①今回のクリスマス会は日本の支援者の寄金で行われました。また、多くの日本の支援者がわざわざ日本から「フェスティバルレストラン」のクリスマスパーティーに参加しました。多くの日本の支援者は、ストリートチルドレンの家の子どもたちに1年に1回のクリスマスパーティーを楽しんでもらいたいと願い、9年間もクリスマス会を寄付してくれています。約束に違反し、途中でクリスマスパーティーを中断に追い込むのはクリスマスパーティーを寄贈した日本人に対し、大変失礼な態度です。
②両親がいなかったり、様々な家庭の理由で不幸な身の上の子どもたちは、1年に1回のクリスマス会を楽しみにしています。既に7年間、フォンザン会社のレストランやホテルなどをお借りしクリスマス会を行っています。ストリートチルドレンの家の子どもたちの楽しみをこわし、奪ってしまった責任は大きなものです。
③本来この種の問題は、ビジネスの契約です。午後7時半まで「フェスティバルレストラン」を借りるという契約の下に私たちは必要な費用を支払いました。
ところが、30分以上も早く午後7時前に片づけを始めたのは、契約違反です。フォンザン会社は
国際的な契約に基づくビジネスがしっかり出来ないでいます。これは、大変恥ずかしいことです。
④フェスティバルレストランの責任者は何が悪いのか、何が問題なのかを理解していません。きちんとした謝罪もありません。これは、ストリートチルドレンの子どもたちや日本人に対して差別でもあり、失礼な態度と行動です。
あなた方は、トゥアティエンフエ省共産党主催のパーティーでも同じことをしますか?
フェスティバルレストランの責任者は午後8時から行われる次のパーティーの準備が大事のようで、私たちのパーティーを途中で打ち切りました。責任者は自分の誤りを全く自覚していません。
●私のお願い
①「フェスティバルレストラン」の責任者がベトナム事務所に来てきちんと謝罪すること。
②午後7時半までフェスティバルレストランを使うという契約を破ったことについて、
フェスティチバルレストラン側は謝罪金を支払うこと。
今回の支払いは、日本人の支援金で支払われています。私たちJASSはこの支援金をきちんと使う責任があります。
③フェスティバルレストランの関係者をきまりに基づき処分をすること。
以上、お願いする次第です。
2004年12月25日
ベトナムの「子どもの家」を支える会
代表 小山道夫
投稿者 koyama : 22:29 | コメント (0) | トラックバック
2004年12月24日
「子どもの家」クリスマス会
午前6時半、藤田氏・福島氏をフエ空港へ見送り。
午前8時、全教千葉の先生方をフエ空港で出迎え。
その足でフエ市内の食堂「ブンボーフエ」へ行き、ブンボーを
食べる。
午前9時半、全教千葉の先生方はフールー小学校へ。
フールー小学校で千葉の子どもたちの作った100種類の
折り紙を子どもたちに渡す。フールー小学校の子どもたちに
サンタの折り紙を教える。
●全教千葉の先生方
午後2時から数種類の報告書などの文章を書く。
午後4時半、内田征子さん寄贈のクリスマス会の会場
「フェスティバルレストラン」へ。
午後6時からクリスマス会が始まる。
●司会は坂本文子さんとサンさん。
●最後にクリスマスケーキを食べる
(高橋さん、柳沢さん、景山さんより寄贈)
投稿者 koyama : 23:36 | コメント (0) | トラックバック
2004年12月23日
福田もえ子副代表「離任」送別会
1日晴天。
午前8時半、藤田氏・福島氏、ミンさんと共に
「静岡フエ青年交流会館」視察。
続いて、オートバイ研修センター・工場視察。
その足で「子どもの家」へ。セン運営委員長と懇談。
子どもたちにお菓子を贈呈。各施設を案内する。
京滋YOUの会の水本さんからの支援で「子どもの家」では
全館の配電の総点検・総改修を行っていた。
11月15日の水害で雨漏りがあり、「子どもの家」各所の
電気が壊れたり、蛍光灯がつかなかったりしている。
●「子どもの家」の配電を直す業者
午後、4000字の原稿を書き上げる。
午後6時、福田副代表「離任送別会」。
5年4ヶ月ベトナム事務所で働いた福田副代表が12月25日に
帰国する。今日は、5年4ヶ月のベトナム事務所での仕事に感謝し
日本での再出発を激励する会を行った。
ニエン外務部長、セン「子どもの家」委員長、ロック寮長も参加。
日本からは福田副代表のご両親、内田さんが参加。
●司会はバオミンさんと坂本文子さん
投稿者 koyama : 23:59 | コメント (0) | トラックバック
2004年12月22日
ベトナム人民軍創設60周年記念日
60年前の1944年12月22日にベトナム人民軍が創設された。
今日は60周年記念日。
数週間前からテレビ、新聞ではその特集番組が組まれている。
フランスとの抵抗闘争、ベトナム戦争中の解放戦線、人民軍の
闘いについて、詳細に報道されている。テレビには、胸に勲章を
たくさんつけたご老人が登場。ベトナム戦争中、いかに自分は
勇敢に戦ったかなどという話をしている。前に倒れるのでないか
と思われるほどたくさんの勲章を付けている。
●ベトナム人民軍創設60周年記念の横断幕
午前9時、トゥアティエンフエ省共産党本部を訪問懇談。
マン共産党委員長はベトナム共産党中央委員・国会議員・
トゥアティエンフエ省人民軍総司令官でもある。
トゥアティエンフエ省(人口100万人)の権力の全てを
一手に握っていると言ってよい。
●トゥアティエンフエ省共産党本部玄関にて
その後、静岡県の男女共同参画センター
の福島さんとティエンムー寺へ観光。福島さんは初めての
フエ訪問なので、短い時間ではあるが、フエの観光スポット
を案内した。
●ティエンムー寺にて
昼食はフエ名物の「ブンボー」。
午後2時からフエ市人民委員会本部(フエ市役所)にて、
QUANGフエ市共産党委員長、CAOフエ市長、
NHIENフエ市外務部長などと懇談。
●フエ市人民委員会との懇談
その後、福島さんは王宮を視察。
午後6時半、フエ市人民委員会主催の夕食会。
フエ市人民委員会側からは、QUANGフエ市共産党委員長、
CAOフエ市長、NHIENフエ市外務部長、HUAN外務部員など。
ベトナム事務所からは、小山、ミン、ラームが参加。
午後9時過ぎまで夕食会は続いた。
投稿者 koyama : 23:37 | コメント (0) | トラックバック
2004年12月21日
静岡・藤田氏フエ訪問
1日、晴れ。
メール23通受信。10通送信。
京都産業大学、ピースインツアーと連絡。
日本教育公務員弘済会機関誌「きょうこう通信」原稿書き。
札幌の孫から電話。クリスマスを楽しみにしているようだ。
ハノイの日本大使館と打ち合わせ。
午後6時半、ミンさんとフエ空港へ。静岡の藤田氏・福島氏
出迎え。空港でフォンザンホテルのドン社長と会う。
記念撮影。
午後8時、藤田氏一行と「フォーザイゴン」でフォー(米うどん)
を食べる。
ミン・ベトナム事務所長の「バオミンホテル」(ハンマーホテル)
へ。藤田氏と明日からの日程等の打ち合わせ。
トンチンカンホテル帰宅午後9時。
投稿者 koyama : 22:37 | コメント (0) | トラックバック
2004年12月20日
福田副代表、「子どもの家」で離任の挨拶
朝、濃霧。フエに戻って丁度1ヶ月。初めて太陽が1日出た。
体調は少し回復。朝、足と右手にお灸。夜、腰と足にお灸をすえる。
午前8時半、ベトナム事務所で京都産業大学ツアー受け入れの会議。
小山、ミン、ラーム、サンの4人。
2005年2月14日から25日までの2週間フエに来る22人の学生さん
の受け入れ準備をする。「子どもの家」での活動、農村ホームステー。
フエ高等師範大・フエ農業大・ヤーホイ高校・ハイバーチュン中・高校
交流。フエ平和村、フエ中央病院小児科、フエ市立病院視察。
ナムドン山岳少数民族訪問・・・・・。
12月27日から1月の始めに全ての訪問先との折衝を行い、
諸準備の担当等を確認。観光会社のラームさんとベトナム事務所長
のミンさんとの提携を密にすることを確認。1時間半の打ち合わせ
午後3時。「子どもの家」スタッフに福田副代表の離任を報告。
福田副代表は1999年8月に着任し5年4ヶ月の任期を終え、
2004年12月25日に離任し、帰国する予定である。
今夜、フエ発のハノイ便でハノイへ行く。福田副代表のご両親が
ハノイへ到着するのを出迎える。
●福田副代表離任式
投稿者 koyama : 22:44 | コメント (0) | トラックバック
2004年12月19日
1日休養
1日、部屋で休む。
午前10時、「腰湯」。暖かいそうめんを作って食べる。
昼寝。
午後、「今井記念海外協力基金」申請書。
その他、いくつかメールの送受信。
夕方、「玉子のおかゆ」が食べたくなり、ドンバ市場へ
玉子を買いに行く、市場前で日本語教師フーンさんと出会う。
やはり買い物にきていたそうだ。
大学時代の同級生、大極安子さんから「千年灸」をすえるよう
助言を受ける。お灸はないと思っていたが、確かベトナム事務所に
あったような気がした。玉子を買った帰りにベトナム事務所へ
寄る。以前、マブベの会が持って来てくれた「千年灸」が3箱あった。
部屋でお灸をすえる。本当は腰と背中にすえたいのだが、無理なので
大極さんの助言で「足内くるぶしの上指三本分にある三陰交」というツボ
にお灸をすえる。
日本から持ってきた炊飯器で「おかゆ」を作り、出来上がり間近に
玉子をといて入れる。食べる時にベトナムにねぎを切っていれる。
先週の日曜日から体調不良。休養と食事で治す。
夜、BSドキュメンタリー「ロシア・兵士たちの日露戦争」を見る。
日本のテレビで本当のドキュメンタリー番組がなくなって久しい。
久しぶりに見ごたえのある番組だった。日露戦争に参加した
ロシア軍の兵士たちの手紙や記録をもとに「ロマノフ王朝」がいかに
間抜けな専制政府だったかが具体的に記録され、兵士がどれだけ
苦労したかが分かる。これはけしてロシアだけではなく我が日本も
同じことである。専制君主は最前線の兵士に苦しみを理解できない。
広瀬修子アナウンサーのナレーションは本当に素晴らしい。
こうした人を「人間国宝」にすべきである。
民放のアナには期待するものはない。せめてNHKはと微かな
期待をもってはいたが、久保純子アナを筆頭にきちんとした
日本語が話せない。広瀬修子アナの「つめの垢でも煎じて
飲め」といいたい。有働アナなど広瀬アナのナレーションを真剣に
学ぶべきである。
投稿者 koyama : 20:32 | コメント (0) | トラックバック
2004年12月18日
フエ市人民委員会役員と懇談
午前9時からフエ市人民委員会役員と懇談。
朝から「洟水」が出て、また体調不良となる。
午後は寝ている。立っているとだるい。
微熱(37度)。しょうが湯、梅干湯を三食時に飲む。
友人の助言で今夜は「足湯」をする。20分ほどぬるま湯に
足を付ける。しばらくすると体中が、ポカポカしてきた。
今夜はぐっすり眠れそうだ。
明日は日曜日。1日休む予定。
投稿者 koyama : 20:15 | コメント (0) | トラックバック
2004年12月17日
体調不良
37度という「微妙」な熱。仕事を休むほどではないが
頭痛、倦怠感。朝食、「しょうが湯」「梅干湯」を飲む。
午前中、トゥアティエンフエ省幹部と懇談。その後昼食を
ともにするが、食欲なし。
午後は19通のメール受信、7通の送信。
夕方まで休養。
投稿者 koyama : 21:03 | コメント (0) | トラックバック
2004年12月16日
原稿書きーメールの返事、その他
久しぶりに太陽を見る。
まだ体調が回復していないようで、体がだるい。
外に出る気力が起こらない。原稿を書いたり、メールを
送受信したり、ベッドで休んだりの1日だった。微熱あり。
日本教育公務員弘済会機関誌「きょうこう通信」の原稿を
書く。2000字だが、一度書き上げて読み直すと不満が残り、
再度書き直す。2005年2月3月分、それぞれ2000字の
原稿を書けば、1年間の連載が終わる。
現在、二つの機関誌に1年間の連載を書いているが、
結構、精神的な負担となる。文章は文章自体で一人歩きする。
活字になり、機関誌に載るということは書いた文章と内容に
責任が出てくる。この数日で2000字の原稿2本を書きあげな
ければならない。
その後、800字の原稿を4本書くことになる。
投稿者 koyama : 19:35 | コメント (0) | トラックバック
2004年12月15日
明誠学院高等学校(岡山)「子どもの家」訪問
午前中、少し晴れるが直ぐに曇り。夕方小雨。
17度~24度。
「しょうが湯」「梅干湯」を飲む。汗が出てくる。
今日から日常業務に復帰。午前中は各種文書、メール受信・
送信。
午後1時45分、ベトナム事務所へ。
岡山県岡山市にある「明誠学院高等学校」の生徒さん(19人)と
引率関係者8人、計27人がベトナム事務所へ。
同校「国際ボランティアコース」2年生・3年生の生徒さんたち。
バスの中で福田副代表などベトナム事務所員の紹介。
そのまま、私、ミン、サン、中村が同乗し、「子どもの家」へ。
●「子どもの家」へ到着した生徒さん
「国際ボランティアコース」の生徒さんが岡山で街頭に立ち、
ストリートチルドレンへの支援金を募金してきてくれた。
●街頭募金をセン「子どもの家」委員長に手渡す生徒さん代表
その後、ミンさん組とサンさん組に分かれ「子どもの家」の
諸施設を案内。
音楽室で小山の講演会(40分)
「子どもの家」の歴史、JASSがめざしているボランティア
、ボランティアとは? 国際支援とは?などを話す。
その後、音楽室で「子どもの家」の子どもたちと交流
午後5時過ぎ、「子どもの家」の子どもたちと記念撮影を
し、ホテルへ戻る。
まだ体が本調子ではなく、午後5時過ぎに帰宅したが、
体のだるさは残る。夕食後、しばらくベッドで休む。
投稿者 koyama : 22:55 | コメント (0) | トラックバック
2004年12月14日
今日も1日休む。
今日は兄(一義)の命日。1945年8月15日の敗戦を境に
中国から引き上げる。その途中、風邪から急性肺炎となり死亡。
一切の医療を受けることなく。生きていれば63歳位に
なるのだろうか?
今日も1日、部屋で寝ている。昨日から「しょうが湯」を作って
もらいお粥と一緒に飲んでいる。今日から「梅干のお湯割り」
も飲みはじめる。梅干の焼酎お湯割りは良く飲むが、
梅干だけのお湯割りは初めて。「しょうが湯」を飲むと、
体がポカポカと熱くなる。出来るだけ新陳代謝を良くしようと
思い、水分をたくさん取っている。しょうが湯、梅干湯は
確かに体調回復に良いように思った。
今日は食欲も出てきて何とか普通の食事が摂れるようになった。
明日からは通常業務に戻る予定。
今日からこの日記にカウンターが付いた。
板橋区立舟渡小学校時代の教え子である手島守君が
付けてくれた。また、2002年8月2日から書き始めた
この「火炎樹日記」の最初からの全日記も読むことが
出来るようになった。これは副代表の山西さんが
別のホームページに保存していてくれたお陰である。
古い日記に興味のある方は、「2002年8月2日~の火炎樹日記」
をクリック。
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2004年12月13日
体調を崩す。1日寝ている。
終日曇り・雨。最低気温14度。最高気温22度。
昨日から頭痛。食欲不振。夕方の「国際ボランティア・デー」
のパーティーも座っているのが辛かった。途中で退席。
昨夜、体中がいたくなる。歯ぐきも。熱っぽく、悪寒。
今朝、7度5分。朝食はブンボー。半分ほど食べるが
食欲なし。
昼食、夕食はおかゆ。1日、部屋で寝ていた。中々熱が下がらない。
私は風邪程度なら基本的には薬は飲まない。
時間がかかっても自然の治癒力で治すつもりでいる。
休養と食事で体力をつけ。明日も1日休養か?
投稿者 koyama : 20:42 | コメント (0) | トラックバック
2004年12月12日
「国際ボランティア・デー」 レセプションに参加
午前中、短時間太陽が出るが、直ぐに雨と曇り。
1日中、寒い。
第11回総会議案書(総括)ほぼ仕上げ。後は、「子どもの家」
スタッフ、ベトナム事務所スタッフの意見を聞く。その後、
役員会・日本事務所会議などへ提案する「原々案」とする。
方針案を少し考える。
午後、トンチンカンホテル1階のトイレが詰まったとのことで
業者が入る。かなづちで「トントン」「トントン」とタイルやレンガを
叩く音が続く。しばらくすると「頭痛」。
午後6時半から「12月5日 国際ボランティアデー」を祝う
フエ市ホーチミン共産青年団主催の祝賀会に招待され参加。
センチュリーリバーサイドホテルにて。シンガポール、
フランス人などが参加。
個人的にはこの種のパーティー参加はあまり好きではない。
●アン元市長、ユン現副市長と
投稿者 koyama : 23:34 | コメント (0) | トラックバック
2004年12月11日
総会議案作成
終日、曇り。寒い。町中、埃っぽい。
午前中、ベトナム事務所で奨学金支給人数、支給額等をハンさん
から詳しく聞く。
総会議案の総括部分の続きを書く。
昼食、「チャオ・バン・カン」(ベトナム風小麦の煮込みうどん)
午後、引き続き総会議案総括部分を書く。90%程度書き上げる。
平行して、2005年度活動の計画(方針案)の骨子を考える。
午後3時過ぎからNHKTVで「NHK新人演芸大賞」コンテストを
見る。コント・漫才部門と落語部門。
落語部門は5人。大阪からも2人参加。東京落語とは大分違う。
「ちりとてちん」という大阪落語を話したが、東京では「酢豆腐」
となる。8代目桂文楽のテープを毎晩、聴きながら寝ている。
新人ということもあるのだろうが、同じ話ではあるが、大阪落語
は大げさで、説明が多すぎる。何も説明をしないで、話の中で
雰囲気と情景が目に浮かぶ落語を聴きたいものである。
8代目桂文楽の「酢豆腐」は数十年前にテープだか、
聞いていて、腐った豆腐を食べる情景と匂いまで感じるのである。
話芸とは素晴らしいものだ。
昨年人気を呼んだ「テツ アンド トモ」という漫才なのかコントなの
かわからない二人組がゲストとして出ていたが、既に笑いを失っ
ていた。確か昨年の紅白歌合戦にでたような気がするのだが・・・。
流行の移り変わりがあまりに速いのに驚く。
ウクレレ漫談の牧伸治は数十年もウクレレで人気を保っていた。
テツ あんど トモは、たった1年で凋落してしまった。
そういえば、「はにわ」とか何とかいうのもいたっけ。
どうなったのだろうか? テレビは「芸人さんを使い捨て」にする。
賢い芸人さんはテレビに振り回されない自分の芸をしっかりと
作っている。
午後4時過ぎ、ドンバ市場までウオーキング。
今週は1週間、一切アルコール類を飲まなかった。
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2004年12月10日
JASS第11回総会議案書作成
終日曇り。寒い。
メール受信24通。送信13通。
午前中支援者へ手紙を書く。徒歩、ベトナム事務所へ。
終日、JASS第11回総会議案作成。2004年総括部分。
午後、日本経済評論社の「評論」(NO141)と言う小冊子を読む。
暉峻衆三氏の「同時代私史」は懐かしい人物の名前が出てきた。
宇野弘蔵、風早八十二、西口克己、藤本武、山川均・菊枝、
安部公房、山田盛太郎、大塚久雄、家永三郎(先日逝去)。
この小冊子の中の「前 HEALTH AND DEVELOPMENT
SERVICE アフガニスタン事務所代表」の桑名 恵さんの
短文には引かれるものがあった。
アフガニスタンへの国際支援が「援助のショーケース」化し、
援助団体間の援助競争が激化し、「より、住民に受け入れられる
支援を優先」し、自立を促さない「全てを与える支援」が
横行しているとのこと。住民は「与えられて当然」という援助への
依存を作り出している。援助が「自立した社会再建」というねらい
とは逆の結果をもたらしていると言う。更に援助団体が、寄付を
くれた人々や団体にアピールをするため歪んだ状況が現われ
ているそうだ。新しい学校、診療所などの多くが、住民の
居住する場所から数キロも離れた幹線道路近くに建設されている。
寄付者などの視察は、時間の都合で道が悪い村の奥には
入り込めない。(本当はこうした所に学校や診療所が必要なのだが)
寄付者などが視察で車から見えやすい幹線道路に学校や
診療所を建設する支援団体があるという。
「××団体、水道建設プロジェクト、資金・××国援助、2003年」
等の援助団体の看板が幹線道路に色とりどりに所狭しと
並んでいると言う。桑名恵さんは「これらの状況を見ると、自立した
社会再建を実現するという大きな援助の目的を見失っているように
思える」と述懐している。「外国人が関わることで、主役である
アフガニスタンの人々の国づくりの当事者意識を殺いでしまって
いるのかもしれない」と。
海外支援の現実を的確に表現している言葉である。
私がベトナムで11年間活動して、桑名恵さんと同じ気持ちを
持つに至ったのは、まやかしの支援の実態があまりにも
多いからである。
夕方、ドンバ市場までウオーキング。1時間。
総会議案の2004年総括は、具体的な数字をきちんと
入れようと思っている。そのための細かい数字の調査に
ひどく時間を取られている。「子どもの家」やベトナム事務所
への訪問者数を月別に出したり、刺繍みやげ物店への
訪問者と年間売り上げ金額、刺繍みやげ物店で働いている
「子どもの家」卒業生の年間平均給与・・・・・・・。
良かった、悪かったと一般的な評価ではなく、具体的な数字を
出しての年間総括・評価が必要である。こうした総括の上に
立って2005年度のJASS活動方針が導き出される。
文書になるとなんでもないことではあるが、なんでもない
文書でも具体的に自己分析するのはかなり厳しい作業ではある。
毎日、コツコツと時間をかけなければ完成しない。
もう、明日は土曜日である。
投稿者 koyama : 22:16 | コメント (0) | トラックバック
2004年12月09日
フエ中央病院小児科ー小児ガンの状況視察
1日、曇り。寒い。テレビの天気予報ではフエは17度~22度。
午前中、徒歩でベトナム事務所へ。各種打ち合わせ。
バオミン・ベトナム事務所長は仕事でホーチミン市へ出張。
午前10時、サン・ベトナム事務所員のオートバイで「子どもの家」
へ。セン運営委員長と当面の訪問者への対応等の打ち合わせ。
京都の水本さん寄金で食堂の屋根の雨漏り、「子どもの家」全体の
蛍光灯など電気の総点検を行うよう依頼した。水本さん寄金の
お陰で食堂の雨漏りが止まり、壊れている蛍光灯や配線をし直し
明るい部屋で勉強や遊びが出来るようになる。水本さんに感謝。
●セン「子どもの家」運営委員長と打ち合わせ(サンベトナム事務所員)
2005年2月6日「第11回JASS総会」に向けて、「子どもの家」
スタッフの総括と要望、2005年の方針をまとめてもらうよう
依頼する。「子どもの家」スタッフの総括、方針も聞きながら、
2005年総会に向けての総括と方針案を作る予定である。
こうした議案は、手間暇をかけなければ本当のものは出来ない。
今週、から来週にかかて「子どもの家」スタッフが集まり、
2004年度の反省と来年に向けての課題を論議してもらい、
その結果を聞くことにしている。
昼食。フーティエウ。
昼食後、「アフガニスタン」(総合研究開発機構)を読む。
武者小路公秀氏の「アフガニスタンの国家再建と復興開発
への提言」部分を読む。NIRA「アフガニスタンの国家再建
プロセスと復興・開発支援」研究会の座長としての提言。
非常に興味を持って読む。学問的なアプローチだけでなく
かなり現実的且つ現地の実態に合わせての提言に賛同
すr部分が多い。とかく学者のこの種の提言は、理屈と
本来こうあるべき式の現実離れした理想論が多いが、
武者小路氏の提言は現場に視点を据えの提言である。
午後4時過ぎ、フエ中央病院小児科HUONG医長と
LINH白血病棟責任者と懇談。フエの「小児ガン」の
現状について詳細な聞き取りを行う。
●HUONG医長、LINH白血病室責任者
フエ中央病院小児科の白血病病室には年間200人
程の小児白血病患者が入院している。患者は
数週間入院しては、自宅に戻りまた入院するという
ことを3ヶ月ほど繰り返すという。骨髄移植はベトナム
ではしていないとのこと。基本的には存命期間を出来るだけ
長くするという治療をしているとのこと。10種類の抗がん剤
が必要だが、財政的な事情で7種類しか用意できていない
とのこと。患者の子どもたちは、学校へ行っていないそうだ。
トゥアティエンフエ省では、白血病の専門医師は5人。
入院当初は1ヶ月500ドルほどの治療費がかかる。
一般市民の月収が50ドル程度なのでかなりの高額である。
保険に入っていれば保険会社から治療費は出るそうだが、
郊外の農村などの子どもたちの多くは保険にすら入って
いない。小児ガンについては、多くの問題と課題があることが
分かった。
自民党の武部勤幹事長が9日、東京都内での講演で、若者のフリーター増など教育問題に関連して「1度自衛隊にでも入って(イラク南部の)サマワみたいなところに行って、本当に緊張感を持って地元の皆さん方から感謝されて活動してみると、3カ月ぐらいで瞬く間に変わるのではないかと思う」と語ったそうだ。
かつて、狂牛病(BSE)発生当時の農水大臣だった武部氏。牛肉を「美味しい」などと言ってパクつき、国民に「安心して食べてください」とパフォーマンスをした直ぐ後に「BSE」(しかも武部氏の地元から)が発生したという、間抜け振りを発揮した武部氏に期待はしていないが、若者のフリーターが「自衛隊に入って、サマワに行けば、3ヶ月位で瞬く間に変わる」とは、何と情けない自民党の幹事長だろうか?
若者のフリーターの実態を少しでも調べてみたらどうだろうか? 20代の若者の失業率は10%を超えている。若者が好き好んでフリーターになっているのではない。仕事をしたくてもないのである。若者を失業に追い込んでいる責任者は政権党の「サプライズ幹事長」の武部氏である。
若者が根性がないからフリーターになったかのような無知無能な認識で、政治や教育を語る資格などない。武部氏自身がまずサマワーに行って、砲弾が8回飛んで来た「非戦闘地域」で3ヶ月ほど、まやかしの「国際協力」「人道支援」なるものをしてみたらどうだろうか。
12月8日、護憲・反戦集会に参加し、今の日本の 「情報統制は戦前と似ている」 「サマワに日本の記者が1人もおらず、自衛隊発表の情報でニュースが作られている▽テレビなどで政府に厳しい意見を言う評論家がいつの間にか降ろされている」「そこのけそこのけ、早うやれという新聞まで出てきた」「「新聞とラジオだけという時代でも私のような模範的な軍国青年が生まれた。今はテレビも週刊誌もある。今の流れがどんなに危険か」と発言した先輩幹事長の野中広務氏の爪の垢でも煎じて飲んだらどうだろうか?
もっとも野中氏も日歯連1億円事件では完黙を決め込んでいるという汚点を持ってはいるが。
加藤紘一元幹事長は「自衛隊の1年延長に反対する」と発言している。
この程度の人物を自民党のNO2である幹事長に据えた小泉首相の人間性がよく分かるというものである。
今日、閣議で自衛隊のイラク派兵を2005年12月14日まで1年間延長することを決めた。小泉首相の記者会見をテレビで見た。
相変わらず「自衛隊のいるところは非戦闘地域である」と繰り返していた。説得力がない。
自衛隊は武力は使えない。2005年3月には、自衛隊を守っているオランダ軍が撤退する。その後の自衛隊を守る軍隊はいない。イギリスに依頼しているそうだが、イギリス軍も1600人の派兵で手一杯。
英軍を増員しない限り、自衛隊を守ることは出来ないという。1年間の延長だけが既成事実として、ブッシュ大統領に誓約してきた小泉首相であるが、2005年3月以降の自衛隊の護衛軍すら決まっていないまま、自衛隊をサマワに派兵するという全く無責任な態度である。幹事長が幹事長なら党首も党首である。
イラクの武装勢力は自衛隊を「侵略軍」と規定し、攻撃を公言しているのである。
北朝鮮の拉致被害者に対しても、自衛隊員に対しても「人間の尊厳」「命への畏敬」の気持ちを持っていない首相。簡単に人間の命をあしらっている悲しい現実ではある。
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2004年12月08日
アジア・太平洋戦争開戦63年目
午前中、ベトナム事務所へ。各種相談・打ち合わせ。
午後、21通のメール受信。10通のメール送信。
JASS第11回総会議案書作成作業。各種資料作り・調査。
ベトナム事務所へ。カバンのジッパーが壊れる。
ドンバ市場でジッパーを買い、刺繍みやげ物店のタンさんたちに
縫い付けてもらう依頼する。ドンバ市場から1時間ほど
ウオーキング。
今日12月8日は「アジア太平洋戦争開戦63周年」である。
1941年、ハワイの真珠湾とアジアへの侵略を開始した日である。
日本全体が一歩一歩と軍国主義化が進行している中で
日本の主要新聞が「12月8日」をどう報道しているのか、
興味のあるところである。各紙の社説を比べてみた。
どのマスコミもこの問題では極端に「及び腰」である。
「時代の流れに従順な日本のマスコミのだらしない実態」を
物語っている。
●朝日新聞は「街宣車――わがもの顔は許せぬ」がトップの社説。
社説の後段で「12月8日――さて、今日は何の日?」と題して
若者にクラスで63年前に何が起こったかを話し合ってみてはと
呼びかけている。
●毎日新聞は一切触れず。社説は「NHK不祥事 受信契約の
義務規定を見直せ」
●読売新聞も12月8日には一切触れず。
社説は「学力国際比較]「なぜ『読解力』は低下したのか」
社説「法駐車対策 地域に信頼される民間委託に」
夜のNHKニュースで横田めぐみさんの遺骨と称する骨が
DNA鑑定の結果、本人のものではないことが判明。
死亡日時が変わり、ニセモノの骨を渡されるなど、
横田めぐみさんの家族は、何度も北朝鮮に振り回されている。
私が横田めぐみさんのご両親の立場になったらどんな気持ち
だろうと思うと胸が締め付けられる思いである。
小泉首相の記者会見をテレビで見た。この人は、この場に
至っても未だに「ひとごと」のような発言を繰り返している。
人間の生きた心を持たない悲しい首相をもった国民の一人と
してやり場のない怒りを感じる。
はるか遠くの「イラクの人々」のため「人道支援」と称して
自衛隊を派兵し、明日、その延長をしようとしている。
遠くのイラクの人の人道支援を言う前に「自国の国民が
拉致され、自分自身が交渉して解決する」と約束した
問題である。その約束が破られ、一人の人間の
生死という重大な問題が、さいころをころがすように
右、左と振りまわされている時に、ひとごとのような
発言を繰り返す首相。政治的な立場を別として、
人間としてどこか欠けているものがあるように思われて
ならない。
人の苦しみを自分の苦しみとして考えることが出来ない
悲しい首相である・・・・・・・・。
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2004年12月07日
第11回JASS総会議案書作成作業
午前中、京都産業大学研修生受け入れについて、
バオミン・ベトナム事務所長と打ち合わせ。
オートバイ研修センター・修理工場の実情調査。
午後、2005年2月6日に行われる「第11回JASS総会」の
議案書作成作業を行う。2004年度の総括について文書を
まとめる。特に「子どもの家」の子どもたちの数、成績、進学、
職業訓練をしている子どもたちの職種、人数などを確認する。
2004年度、全体的にどのような前進があったのか、どのような
問題があったのか、2005年度に向けて何を改善し、2005年度
JASSは何をしようとしているのかを明らかにする必要がある。
これから1週間ほどかけて議案書の小山原案を作り、役員会
の皆さんに検討して頂く予定である。その後、1月に帰国し
役員会の会合を開き更に論議し、1月30日(日)の日本事務所会議
(13:30~)で総会提出議案として最終確定していく計画である。
小山原案が出来た時点でJASSホームページにも掲載し、
多くの支援者の皆さん、市民の皆さん、関心のある方々からの
ご意見もお受けし、議案の内容を一層豊かなものにしたいと
思っている。小山原案をホームページに掲載するのは、
JASSが社会的な存在であり、社会に何らかの役割りをもった
団体だからである。会員だけで方針を決めるのではなく、
多くの市民の皆さんからの批判を含めたご意見を伺うと言う
姿勢が大事である。これからのNGO,NPO、ボランティア団体は
常に社会からの批判を受けながら活動する義務があると自覚している。
午後5時過ぎ、ドンバ市場まででウオーキング。50分。
チャンティエン橋前の「サイゴンモーリンホテル」は既に
クリスマスモードとなっていた。
(京滋YOUの会からのレポート)
京滋Youの会では春に続き、12月5日にチャリティ-バザーを
行いました。以下は京都新聞12月3日、洛西版の記事です。
『ベトナムのストリートチルドレンを支援するチャリティ-バザーが
5日午前10時から午後4時まで長岡京市調子二丁目の旧みや
こ信金の建物で開かれる。写真展やベトナムコーヒーの模擬店
も出され子どもたちへの支援を呼び掛ける。ベトナムのフエ市を
拠点に就学支援や職業訓練に取り組む日本のNGO
「ベトナム子どもの家を支える会」の支援者で作る
「京滋YOUの会」の主催。趣旨に賛同した洋服メーカーから提供
を受けたスカートやスーツ、コートなどを販売し、収益は支える会
を通じて子どもたちに直接届ける』
当日は心配された雨も上がり、朝からお客さんで賑わいました。
お手伝いのボランティア20人がVOWインターナショナル様から
提供していただいた約1300枚の服を売りました。安さもあって
515枚、約63万円を売り上げました。子どもたちの刺繍製品や
カンパ等は7万円でした。ボランティアにはこの秋、
京都国際交流センターで行われた「ベトナム語講座」に通って
この会を知った方の参加もあり、新しい人の輪が広がっています。
投稿者 koyama : 23:23 | コメント (0) | トラックバック
2004年12月06日
1日、諸活動に費やすーーフエは「ほこり」の町と化す
11月21日にフエへ戻って16日目。ほとんど太陽を見ていない。
毎日の雨。今日は1日曇り、夕方から雨。
フエの町は洪水の後、数メートルも溜まった「泥」が乾いて
ほこりとなっている。町中、どこへいてもほこりだらけ。
今日もミンさんのオートバイの後ろに乗って各所を移動したが、
目に泥のほこりが入る。今朝、起きてみると両目が真っ赤。
洪水後のほこりで目に何らかの細菌が侵入した模様。
ベトナム事務所員も目を腫らし眼科医に通っている人もいる。
私も目を洗い目薬をつけている。
●午前9時、バオミン・ベトナム事務所長と「子どもの家」へ。
セン運営委員長、ロック寮長と2005年2月14日から
2月25日までの2週間フエに来る23人の京都産業大学研修生
受け入れの打ち合わせ。
●午前10時、「子どもの家」で定期健康診断
フエ省立「子どもの家」、「盲学校」の同時に支援。
サン・原・松下さんが参加。
●12月1日に洪水緊急支援に行ったフエ市郊外「フーロック郡」
の9人兄弟の長男がベトナム事務所へやって来た。
(12月1日の写真)
●午後7時。新任日本語教師中村友香さんが日本語ガイド
クラスの授業をする。
京都産業大学の学生受け入れは、授業の一環としての
「国際協力・ボランティア体験」のためのものである。
2単位の授業として行われ、「子どもの家」での様々な体験、
特に子どもたちと共に行動し、子どもたちに折り紙、書道、
ピアノなど教える中でを共同体験する。山岳少数民族訪問、
フエ郊外の農村にホームステーもする。充実した2週間を
過ごしてもらいたいと念願している。こうした活動を通して、
一人でも多くの日本の若者に「アジアから学ぶ」という気持ち
をもってもらいたいと思っている。
トゥアティエンフエ省郊外の「フーロック郡」「ロックトゥーイ村」
「フースイェン地区」の水害被災者がベトナム事務所へやって来た。
12月1日に私・ミン・松下さんの3人で支援訪問した家庭の
長男である。11月26日、49歳の父親は洪水で水死。
心臓病の母親は未だに夫の死を知らないである。
水死したチエンさんには9人の子どもがいる。
長男は28歳
長女 25歳(結婚している)
次男 24歳
3男 22歳
4男 18歳
3女 16歳(高校2年)
4女 15歳(高校1年)
5女 13歳(中学2年)
5男 9歳(小学4年)
12月1日に訪問した時、16歳の3女以下4人の
子どもたちは学校へ行けないと行っていた。私が「必要なら奨学金
なども出すので、親戚、家族と良く相談して、困ったことがあったら
ベトナム事務所に来るように」と名刺を置いてきた。
今日、28歳の長男がベトナム事務所に一人でやって来た。
・親戚や家族と相談した。生活は家族で協力して農業を続けていく
中で何とか努力していく。
・しかし、4人の通学している子どもたちの学費は農業収入だけでは
どうにもならない。4人の子どもたちを何とか学校へ生かせて欲しい
長男はこんな話をした。私とバオミン・ベトナム事務所長とで応対。
・水害被災で苦労していることを心からお見舞い申し上げる
・4人の子どもたちの学費は私たちが支援する。当面、1年間
奨学金を出す。一人毎月10万ドン。4人で1ヶ月40万ドンを
支給する。年間480万ドン(33000円程)。
・家族で協力してお母さんを助け、頑張ってください
こんなやり取りがあった。この家族は立派である。
こうしたケースでは、多くの被災者が生活費から全ての支援を
して欲しいといってくる。中には、被災していないのに支援金が
欲しいなどと言ってくる不心得な人もいる。そうした中で、
自分たちで頑張って生活はする、学費だけは何とか支援して
欲しいという姿勢は立派なものである。私たちは、出来るだけ
子どもたちの通学を保証したい。人を育てる支援、物としては
目に見えない「人材育成」支援をして行きたいと思っている。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
【ファシズムは笑顔で堂々とやってくる】
大野防衛庁長官がイラクのサマーワを視察したそうだ。
たった5時間半の視察である。NHKテレビのニュースでは
「サマーワの安全を確認してきた」と胸を張って公言していた。
しかし、大野防衛庁長官がサマーワを視察するということすら、
事前に公表できないような危険地帯への視察である。
自分は「内密に」「お忍びで」「隠れて」視察をしておきながら
どうして「安全確保を確認した」と言えるのであろうか?
圧倒的多数の国民は大野防衛庁長官の「サマーワ安全宣言」
を本当だとは思っていない。戦前の軍隊が「大本営発表」という
嘘の発表を常套手段としていたが、防衛庁は憲法改正
以前に戦前の嘘つき軍隊の特徴を復活しているようだ。
自民党憲法改正案起草委員会の座長である中谷元・元防衛長官
が現職の陸上幕僚監部防衛部の二等陸佐に憲法改正案の作成
を依頼していたことが判明した。二等陸佐の作成した憲法改正案
はおそるべきものであった。「軍隊の創設」「軍法会議の設置」
「国民に国防の義務」を負わせるなど、戦前の日本軍を彷彿させる
内容となっている。中谷氏は、自民党憲法改正案起草委員会の
座長であり、憲法改正草案を作る責任者でもある。
国民に国防の義務を負わせるとは、「徴兵制」を意味することは
一目瞭然である。若者に再び銃をとらせる時代、ファジズムの時代
が前の前に来ている現実に慄然とする。
文民統制という言葉がある。陸上幕僚監部防衛部の幹部である
二等陸佐が政治にくちばしを挟んで来たということである。
軍人が政治に口を出し始めることこそファシズムの始まりである。
ヒトラーも東条英機も軍服を着て政治を行っていた。
自衛隊法61条は以下のように自衛隊員の政治活動・特定政党への
協力を禁じている。
政治的行為の制限)
第61条 隊員は、政党又は政令で定める政治的目的のために、
寄附金その他の利益を求め、若しくは受領し、又は何らの方法
をもつてするを問わず、これらの行為に関与し、あるいは選挙権
の行使を除くほか、政令で定める政治的行為をしてはならない。
NHKや各種新聞もこの問題を大きく取り上げてはいない。
恐ろしいことである。現職自衛官の幹部がこうした重要な
政治的な活動を自民党という特定政党のためにおこなった
ことは、不偏不党を謳っている自衛隊法・国家公務員法にも
抵触する犯罪行為である。
自民党・公明党が憲法改正のための国民投票法案骨子を
決めたとのこと。憲法改正は既に俎上に上っている。
東京都では君が代・日の丸を謳わない教職員を処分している。
最近起こる日本の出来事を一つ一つつなげていくと
戦争に一歩一歩国民が引き込まれていると言わざるを得ない。
日本は今、その進路をめぐって重要な岐路に立っている。
平和と自由がファシズムに置き換えられないようにしなければ
ならない。「二度と戦争をしない」決意こそ、国民の義務である。
戦争をしたい人間は、自分は絶対に戦場に行かない人たちである。
戦場で死んでいくのは常に若者である。ベトナム戦争、アフガン、
イラク戦争で戦死しているのは、若者である。
ブッシュ大統領や小泉首相は絶対に戦場には行かない。
若者は自分自身の問題として考えるときである。気が付いたら
兵士になっていたのでは、あまりに悲しい人生ではないか?
私は「人の命を救い」「幸せな生活」を保障するために
ボランティア活動をしている。ボランティア・海外支援と
戦争は相容れない。
人間の命をごみくずのように捨てていく戦争には絶対に
反対であり、その阻止のために闘いたい。
投稿者 koyama : 23:20 | コメント (0) | トラックバック
2004年12月05日
新任日本語教師・中村友香さん歓迎会
午前中、ドンバ市場へ。チャーゾーを買う。
トンチンカンホテルの近くで焼きスルメを買い、醤油で味付け。
途中、チャンティエン橋の水位も通常に戻っていたい。
フエ市民も通常の生活に戻っている。これは、水害が毎年
数回あるという経験から、水害自体にはそれほど動揺しない
というところがある。今後の支援は、家族がなくなったり、
行政の網の目から漏れている人々への重点的な支援が
必要である。
午前10時過ぎ、NHKのど自慢を見ながら「賀茂鶴」(純米吟醸)
を飲む。京滋YOUの会から来た三津川さんに頂いたものである。
賀茂鶴は明治6年(1873年)に作られたお酒である。231年前。
冷蔵庫で冷やして飲んだがそれなりに美味しい。
チャーゾーと焼きスルメの醤油付けをおつまみに。
午後5時半、新任日本語教師中村友香さんの歓迎会。
中村友香さんはベトナム到着早々から洪水攻撃に見舞われ
大変な思いをしたが、歓迎会に出されたフエ庶民料理を
「美味しい」と言って堪能していた。着任早々、フエに慣れて
ようだ。正確にはフエに来る前からアジアに慣れている人なの
かも知れない。
午後7時半まで歓迎会。
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2004年12月04日
水害被災者支援続報NO6 「子どもの家」スタッフ水害被災者へ救援金贈呈
午前9時、「子どもの家」で水害に被災したスタッフに対して
水害被災救援金を贈呈した。
水位1メートル以上の浸水があったスタッフには50万ドン、
1メートル未満は30万ドン。(実際には20センチ、50センチ)
床浸水で家具が壊れたり、家の中の掃除、消毒などの経費
がかかっているための救援金である。
「子どもの家」のベトナム人スタッフが自分の家庭の
ことは安心して、「子どもの家」の子どもたちのお世話が出来る
ような環境作りをすることも私たちの仕事だと思っている。
●自宅が1m以上浸水し家具などに被害が出た寮母のニエムさんへ
昨日フエを訪問した宇都宮縫製工業協同組合理事長の
佐藤氏より「子どもの家」創立10周年記念をお祝いして
スタッフの皆さんに一人10万ドンのお祝い金を寄贈して
頂いた。今日、スタッフ全員に佐藤氏よりの10周年記念
祝い金を手渡す。
先日、トゥアティエンフエ省(人口100万人)主催の
児童・生徒「作文コンクール」が行われた。
「子どもの家」の3人の子どもたちが特選、入選の表彰を
もらった。
午前中高校に行っていて「子どもの家」を不在中の
PHUONGさん(高2)は作文コンクール第2位の特選を受賞。
妹のNHIさんは入選、また8月に中学を卒業したNIさんも
入選。トゥアティエンフエ省から記念品をもらった。
特選のPHUONGさんは自作の小説。テーマは
『ストリートチルドレン物語』。
また、NHIさんとNIさんは「自分の苦しい生活経験の中で
子どもの家に入り、頑張っている」という体験記である。
●フエ省児童作文コンテスト入選のNHIさんとNIさん
午前10時過ぎ、京滋YOUの会の三津川さんの姉弟と
友人がベトナム事務所を訪問。しばらく懇談をする。
午後4時、フエ中央病院に入院中のおばあさんに車椅子を
贈呈。
午後5時からフエ市人民委員会役員と懇親。帰宅午後7時半
今週は月曜日から今日まで「11月26日のフエ大洪水」被災者
の緊急救援活動を行った。家族が水死した家庭を三軒訪問したが
どの家庭も突然の出来事で家族は「呆然自失」状態だった。
色々と質問をしても家族はあまり答えることも出来ず、
村長さんや親戚の方、地元の祖国戦線の幹部などが
対応してくれた。
こうした緊急災害の救援活動は、物資やお金の支援が必要
であることはもちろんだが、突然の家族の死亡で、
今後の生活や生き方に展望を見失ったり、「孤独」を感じて
いる方々に対する精神的な支援も必要であることを痛感した。
家族を突然失った夫・妻・子どもたちに対して、私たちも同じよう
に悲しみ苦しんでいるという回りの人間の気持ちを伝えること、
悲しみを共有するという支援もあることを改めて感じた。
ただ支援金や救援物資を村役場や国際赤十字などに送る
のも支援ではあるが、出来ることなら直接家族・遺族にお会いし、
手を握って励ますことも目には見えないが大きな救援活動だと
実感した一週間であった。日本で2ヶ月の講演会や
ソン君を連れての各地でのイベントを終えてフエへ
戻ったばかりの「大水害」に私自身も驚いている所である。
同時に水害現場にいて、被災した方々がいれば、私の
出来るところで何か応援をしたいものである。
疲労困憊の一週間でもあった。
投稿者 koyama : 23:24 | コメント (0) | トラックバック
2004年12月03日
「子どもの家」創立10周年記念式典その1
午前9時から「子どもの家」で創立10周年記念式典を
子どもたちと一緒に行う。
●10周年式典看板
JASS 37グエンチャイ「子どもの家」創立10周年記念
1994年11月21日~2004年11月2121日
参加者:
●「子どもの家」の子どもたち
●在宅支援の子どもたちと保護者
●「子どもの家」スタッフ
●フエ市人民委員会外務部長
●フエ省・フエ市の「子どもの家」関係者
●ベトナム事務所員・日本語学校関係者
今日の式典は、「子どもの家」の子どもたちや
在宅支援の子どもたちを中心に創立10周年を
祝った。本来なら11月26日に行われるはずだったが
5年ぶりの大洪水のため延期となっていた。
式典は「子どもの家」の2階の音楽室で行われた。
司会は「子どもの家」のロック寮長。
①出席者紹介
☆ニエン・セン・小山による「ろうそく点灯式)
②セン運営委員長の発表(10年間の記録)
③小山JASS代表挨拶
④ニエン越日交流委員会委員長挨拶
⑤関係者へJASSより感謝状贈呈
⑥子どもたち代表によりお礼の言葉
⑦卒業生挨拶(SONベトナム事務所員見習い)
⑧子どもたちにお菓子贈呈
⑨会食
★(1)始めにセン運営委員長による「10年間の実績」報告
・「子どもの家」の10周年はJASSとフエ市人民委員会の
支援、指導のお陰である。
・今日、10周年を迎えこのような式典をすることが出来
本当に嬉しい。
・ベトナム政府も「子どもたちが未来を作る」と言っている。
・この10年間に296人の子どもたちが入所し、生活した。
・現在、62人が入所している。(男33人、女29人)
在宅支援22人。
・2003年~2004年までの1年間の子どもたちの成績
☆最優秀・優秀 41%
☆普通 50%
☆良くない 9%
・英語、日本語、パソコン、音楽、絵画、図書など
文化的活動を進めた。
・同時に職業訓練も前進した。
オートバイ研修センター、ミシン、靴、窓鉄枠作り等
刺繍、木工彫刻研修など行った。
・ミシン研修は10期生、149人がソ卒業した。
・コンピュータ教室は過去10回募集が行われ604人が
卒業し社会で活躍している。
・「子どもの家」では道徳教育を進めている
ベトナム国家再建のため心と体を育成する必要がある。
学校では「ホーチミン共産青年団」に加入、「子どもの家」
では、赤旗隊を組織し、子どもたちの道徳教育を進めている。
・各所のレクリエイションを組織。6月1日は世界子どもの日
8月には海や温泉、焼肉パーティー、冬にはクリスマス会
など日本人の内田さんなどに寄贈して頂き実施。
・スタッフは私も含めて全員動労組合に加入し、「子どもの家」
の管理運営に責任を持っている。
・2005年に方針
今までの成果を更に発展させる。
子どもたちの自立・自活に向けてきめ細かい取り組みをする
子どもたちを育てる専門職としての知識と学習を進める。
・今後、スタッフの専門職としての専門的な勉強をしていきたい。
★(2)小山挨拶
・1993年にフエに一人で来た。1994年に6部屋の「子どもの家」
を建築した。その後、多くの心ある日本人の支援で10年間活動できた。
支援してくれた多くの日本人とベトナム人スタッフに心から感謝したい。
・日本の多くの支援者は、「子どもの家」の子どもたちが、自立し・自活
出来るようになって欲しいと思っている。そうした日本人の気持ちを
して欲しい。
・子どもたちの皆さんが健康に過こし、将来、社会で困っている人のこと
をいつも考える人間になって欲しい。
●ニエン氏挨拶
★(3)ニエン「日越交流委員会」委員長・フエ市人民委員会外務部長
・「子どもの家」の1周年はJASSとフエ市人民委員会との協力の成果
・子どもたちは学校の勉強だけでなく「道徳」を身に付けて欲しい。
・子どもたちは先生(スタッフ)の言うことを良く聞くように。また、
子どもたち同士もお互い愛情をもって付き合うように。
・私も子どもの頃は仏教の影響を受け、ボーイスカウトもして
社会に奉仕する気持ちを学んで来た。私も頑張りますが
参加も皆さんも今後、良い成果が出るよう努力しましょう。
「子どもの家」創立10周年記念式典その2
★(4)関係者へJASSより10周年の感謝状を贈呈
●小山よりセン「子どもの家」運営委員長へ感謝状贈呈
●JASS贈呈の感謝状を手にした「子どもの家」スタッフと福田副代表
★(5)子どもたち代表(グエン・ティー・トゥイー:中学3年生)さん
のお礼の言葉
・10年間、ストリートチルドレンだったり、両親がいなかった私達を育ててくれて感謝。
・一般家庭の子どものように、安定した生活、通学、十分な遊びの時間が与えられた。
・日本人の支援者、里親、訪問者にも感謝している。
・「子どもの家」のスタッフは2番目の両親だと思っている。
・「子どもの家」は自分の家。将来、どこへ行っても、どんな人間になっても、ここでの
生活は忘れない
小山先生とJASSの皆様
子どもの家の先生たちとみなさん HO KHAC THANH SON
(ホー・カック・タン・ソン)
この度、ベトナム事務所を始め皆様のおかげで、私は日本に行くこ
とが出来ました。特に日本滞在中、小山先生にはいろいろとお気使
いを頂きました。心から感謝しています。また、JASS日本事務所、
里親の方々からよろしくお伝え下さいとたのまれました。
今回、私は東京、静岡、京都、札幌など、日本各地へ行くことができ
ました。日本滞在中に私が一番感動したのは、日本のどこに行っても
支援者の皆様から暖かい歓迎を頂いたことです。私は常に日本人の
皆さんから関心を持って頂きました。おいしい食べ物をたくさん食べさ
せて頂きましたし、小山先生には色々な所へつれて行って頂きました。
うらやすの市長や静岡の市長を訪問したり、小学校、高校、大学を訪問、
見学しました。
日本で私は主に、各地で行われたJASSの10周年式典と
「子どもの家」の10周年式典に参加しました。各地の式典で
支援者の皆様と「子どもの家」についての話しをした時、日本人
の皆さんは心から「子どもの家」の皆さんに関心と愛情をもって
頂いていると思いました。日本滞在中はいろいろと勉強になり
ましたが、特に、JASSの皆様、支援者の皆様、本当に多くの
方々が「子どもの家」を助けてくれていることがよく分かりました。
今回の体験を通して、私は「子どもの家」の皆さんに言いたいこと
があります。
1.今、皆さんが学校に行ったり、良い服を着たり、おいしい物を食
べたりする生活ができるのは、小山先生や「子どもの家」の先生方
、ベトナム事務所の方々、そして日本にいるたくさんの支援者のお
かげです。特に小山先生は、皆さんがよい生活が出来るように、
支援を頂けるように、日本へ帰っても休みなく活動されています。
日本全国いろいろな所へ行き、「子どもの家」の事情を知ってもら
うために2時間ぐらいかけて多くの人々に話をしています。ですから、
小山先生の気持ちに応えるためにも、私達は勉強をもっと頑張り
ましょう。
2.日本で皆さんの里親は、いつも皆さんの勉強や生活に
関心をもっていますので、みなさんは里親の気持ちに応えるために、
勉強を頑張るだけではなく正しい道に進めるように頑張って下さい。
3.札幌の小学校を訪問したとき、生徒たちの授業態度と学校の
環境が大変良いことに驚きました。授業中生徒たちはまじめに
勉強していました。私が訪問した時、私にきちんと挨拶してくれた
のが印象的でした。大きな声で挨拶をされると、とても気持ちが
良かったです。ですから、皆さんも「子どもの家」に訪問者が来られ
たときは大きな声で丁寧に挨拶してください。
将来立派な人になれるように、そして、JASSの皆さん、
「子どもの家」の先生たち、そして里親の方々の気持ちを応える
ために、皆さん頑張ってください。
最後に、JASSの皆さん、「子どもの家」の先生たち、そして
「子どもの家」のみなさんのご健康とご多幸をお祈り申し上げます。
ありがとうございました。
★(8)楽しみの会食
特別な料理を作りスタッフと子どもたち、来賓で堪能する
午前10時に研修生派遣支援事業をしている宇都宮縫製工業協同組合
の佐藤社長がフエ訪問。私とミン・ベトナム事務所長は途中で研修生
派会社へ。夕方6時にフエを出て、フエ空港まで見送り。
トンチンカンホテル帰宅午後7時半。
投稿者 koyama : 19:43 | コメント (0) | トラックバック
2004年12月02日
水害被災者支援続報NO5 クアンビン省救援
朝7時半、ベトナム事務所長のミンさん、所員のサンさんの乗った
ワゴン車がトンチンカンホテルへ到着。これから約300キロ北の
クアンビン省の水害被災者救援へ向かう。
クアンビン省はトゥアティエンフエ省(省都フエ市)の北
クアンチ省(省都ドンハー市)を通り、更に北にある。
ベトナム戦争中は北ベトナムの最南端の省である。
車でフエ市を出発して5時間後の午後12時半。目的地である
クアンビン省クアンチャイ郡フーホア村に到着。
●クアンビン省は今でも田んぼは海のように水が一杯
のどかな純農漁村である。村の真ん中を「GIANH川)(ザイン川)
が流れている。
●蛇と遊んでいる子どもたち
被災者のマイさん(33歳)は夫のHOANG VAN AIさん(35歳)
と一緒に漁業をし生計を立てていた。
2004年11月26日、ザイン川の水位が1、5mも上がり大洪水
となった。ザイン川にはCHIEN(チエンさん)が舟に乗り流され
沈没。それを見たマイさんは、果敢にも小船に乗ってチエンさん
を助けに行った。一緒にVINHさん、THUさん夫妻も助けに行った。
マイさんがおぼれているチエンさんに近づき、おぼれている
チエンさんの手を取った瞬間マイさんの小船が沈没。マイさんも
おぼれてしまい、最後には水死してしまった。マイさんと一緒に
助けに行ったVINHさん、THUさん夫妻も手と足に怪我をしながら
も何とかおぼれていたチエンさんを助けたが、マイさんは二度と
水面には上がってこなかった。
●1、5mの洪水。「ここまで水が出た」と地元祖国戦線の幹部
水死したマイさんの家に着いたのは午後1時近かった。
残された夫のAI(アイ)さん35歳と7人の子どもたちが
呆然として部屋に座っていたい。
●8人の家族一緒に
長女 13歳(3年前に小学校を3年生で退学。生活苦のため)
次女 11歳(小5)
三女 9歳(小3)
四女 8歳(小2)
長男 6歳(幼児)
五女 3歳(双生児)
六女 3歳(双生児)
お父さんのアイさんに質問をするが、気持ちが動転しているのか
返事が出来ない。代わりに村の「祖国戦線」の人が答えてくれる。
今まで近くのザイン川で魚を獲って生計を立てていた。
平均月収は30万ドン(2000円)。時々、荷物運びや皿洗いなど
のアルバイトしながら家族9人で何とか生活していた。
今回、妻が急死したため、今後、どう生活していったら良いのか
全くわからなくなってしまった。今後、生活が出来ない。
子どもたちを学校へ通学させることも出来なくなった。
●緊急救援金を贈呈
父親と親族、祖国戦線幹部のおじさんは、「3人の子どもたちを
何とかフエの子供の家へ入所させて欲しい」「子供の家から
是非、学校へ生かせて欲しい」との要望が出た。
私は、家族・親族で良く話し合って欲しいと話した。
入所希望の3人(LANさん:9歳、HUONHさん:11歳、
HONGさん:8歳)に「本当に子供の家に入所するの?」と
聞いてみた。3人は「うん」と頭を下げた。
●入所希望の3人
ベトナム事務所の名刺と電話番号を地元人民委員会と
祖国戦線、父親へ渡した。本当に3人の子どもたちを
「子どもの家」へ入所させるんのであらば、直ぐに電話を
して欲しいと話した。「子どもの家」のロック寮長と
ベトナム事務所員が連れに来ますと。
当面の生活費として50万ドンと必要な冬用の衣類を贈った。
●亡くなったマイさんに「お焼香」(一家はクリスチャンだった。
続いて、マイさんと一緒にチエンさんを助けに行き怪我をした
VINHさん、THUさん夫妻を訪問。手と足に怪我をしていた。
救援金と大人の冬用衣類を贈り励ました。
午後2時を過ぎていた。近くの食堂で遅い昼食を摂り、
フエ市へ帰る。フエ市のトンチンカンホテル着は午後7時半。
往復12時間、車に10時間乗っていたことになる。
相当の疲労を感じた。夕食を獲らずに寝てしまった。
投稿者 koyama : 23:50 | コメント (0) | トラックバック
2004年12月01日
水害被災者支援続報NO3 フエ市内「アンクー地区」救援
午前8時半、フエ市内「アンクー地区」人民委員会へ。
私、福田・バオミン・サン・原・中村の各ベトナム事務所員が参加。
地元人民委員会の案内で水害で亡くなったおじいさんの家庭を訪問。
家庭では丁度亡くなったおじいさんのお葬式が行われていた。
おじいさん(83歳)、おばあさん(80歳)の二人は、フエ市内の
川沿いにある農村で二人暮らしをしていた。
11月25日の夜、近くの川が氾濫。家に水が入ってきた。
部屋に机を出しその上に乗ってしばらく水が引くのを待った。
しかし更に増水。逃げられずに机の上に椅子を置き
その上におじいさんが座わり、水の引くのを待った。
ところが増水は急流と変わり、机が「浮いて」しまい、机と椅子が
流されてしまう。おじいさんは、そのまま水の中に落ちてしまい、
還らぬ人となってしまった。おばあさんは、助けることが出来なかっ
たそうだ。急な豪雨と増水であったが、誰からも洪水の連絡などが
なく、何も出来ないまま、おじいさんが水死してしまったとのこと。
今日の葬儀は、長男宅で執り行われた。
おじいさん・おばあさんには4人の子どもがいる。農業をしている
との話であった。当面、葬式の費用がない、食料など、おばあさん
の生活費が不足しているとのことだった。50万ドン(3500円)
の緊急支援金を贈呈した。
●おばあさんに緊急救援金を手渡す
おばあさんに「体はどうですか?」
と聞いてみた。おばあさんは、おじいさんが流された夜から
翌日救助されるまでの1日、胸まである1メートルの水の中に立って
いたとのこと。体が冷えていると話していた。
また、今後、問題があればベトナム事務所まで相談に来て欲しいと
話し、亡くなったおじいさんにお焼香をし、現場を後にした。
こうした時は「お互い様」である。困った人がいれば出来る範囲で
応援するというのは、人間の自然な気持ちである。
おばあさんが、夫の急死を乗り越え、長生きしてくれることを
心から祈っている。
●亡くなったおじいさんに哀悼の気持ちを込めてお焼香をする
水害被災者支援続報NO4 フエ市郊外「フーロック郡」救援
午後1時半、トンチンカンホテルを出て、車で1時間半の
トゥアティエンフエ省郊外の「フーロック郡」「ロックトゥーイ村」
「フースイェン地区」へ行く。49歳の父親が洪水で水死した
家族を訪問した。小山・ミン・松下の3人で衣類などの支援物資
と緊急援助金をもって。
フーロック郡の人民委員会に着く。豪雨である。
被災者のチュオン・バン・チエンさんの家までは車で行けず、
人民委員会のオートバイの後ろに乗せてもらい向かう。
しかし途中でオートバイもは入れなくなり、豪雨の中、徒歩で
被災者宅まで行く。
地元は近くに海があり、ラグーンの水が氾濫し、1、5mの洪水
となった。
●洪水の水位を示すミン・ベトナム事務所長
11月26日の午後、近くのラグーンが氾濫し洪水となり、家も浸水。
49歳のお父さんは農業で生計を立てていた。家が浸水してしまい
大事な家具が壊れてしまっては困ると思い、お父さんは家具を
背負って、近くの高台に運ぼうとした。既に水は胸まで来ていたが
家具を守るため、胸までの洪水の中を歩いた。しかし、濁流に
抗し切れず、流され水死してしまった。
●ここでお父さんは流された
奥さん(49歳)は心臓病があり自宅で療養中。夫の水死を知った
近所の人が「心臓病の奥さんが夫の水死を知ったら、奥さんも
危ない」と考え、急いで奥さんを親戚の家へ連れて行く。
昨夕、夫の葬儀を行ったが、未だに奥さんには夫の死を
知らせていない。
亡くなったチエンさんには9人の子どもがいる。
長男は28歳
長女 25歳(結婚している)
次男 24歳
3男 22歳
4男 18歳
3女 16歳(高校2年)
4女 15歳(高校1年)
5女 13歳(中学2年)
5男 9歳(小学4年)
今回の水害で丁度収穫済みの1トンの米と2頭の豚、
20匹のアヒル、150羽のニワトリを失う。
現在、父親が死亡し、母親は家族の状況を知らないまま
親戚の家にいる。残された9人の子どもたちは、呆然とし、
私の質問にも答えられない状況だった。
代わりに親戚の叔父さんと村長さんが家族の状況を
説明してくれた。
●家族と村長さん、親戚の叔父さんなどから事情を聞く
父親を中心に長男、次男・三男とで農業をして生計を立てていた
そうだが、父親が死亡し、1トンの米と豚、アヒル、ニワトリ
という大事な財産を失い、今日からどう生活してよいのか
困っているとのこと。また、このままでは、学校へ通っている
4人の弟や妹の通学は無理だとのことだった。
昨夜、父親の葬儀を終えたばかりの子どもたちにとって、
これからどう生きていくのかは、全く考える状況では
ないようだった。
村長さん、親戚の叔父さん、長男に「家族と親戚、村長さん
などと良く相談し、今後のことを決めてください。
4人の子どもたちは是非学校の勉強を続けてください。
必要なら私たちが奨学金を出します。また、生活
が出来ないようでしたら、子どもの家で預かることもできます。
必要なら里子として生活費を援助することも出来ます。
皆さんで良く話し合って、私たちに連絡をしてください」
と話し、当面の葬式代、生活費補助として50万ドン
(3500円)を手渡す。
これから地元人民委員会(村長さん)家族などと連絡を
取り合い、支援をすることとした。
●緊急救援金を長男に渡す
豪雨の中の訪問だった。私もミンさんも松下さんもびしょぬれ。
帰りも田んぼのあぜ道を歩き、オートバイの後ろに乗り、
何とか人民委員会にたどり着く。車でフエ市内へ。午後5時。
ささやかな救援活動ではあるが、私たち自身が直接現場に行き
現状を自分の目で見て支援を行いたいものである。
支援は本当に役立つものでなければ意味がない。
支援をすること自体を自己目的化するような「支援」だけは
したくないものである。私たちの支援が一人の人間でも
良いから本当の意味で救済し自立できるように援助したい
ものである。
明日は朝7時半にトンチンカンホテルを出て、クアンビン省
の支援に行く予定。