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2005年01月31日

都立第四商業高等学校講演会

昨日から体調が悪い。風邪の初期症状を呈す。倦怠・悪寒。
食欲不振。
朝7時半に自宅を出て巣鴨経由で池袋へ。
地下鉄三田線、山手線は大混雑。
池袋で西武池袋線に乗り換える。地下道を歩くが
歩き方の速度が早く流れについてゆけない。
池袋から富士見台駅へ。午前9時20分、富士見台駅で
都立第四商業の小辻先生と会い第四商業へ。
2年生の選択科目「地理」の授業をする。
9時40分から10時半。10分の休憩後
10時40分から11時半まで合計2時間の授業。
内容は①ベトナムの紹介 ②ベトナム戦争 ③ストリートチルドレン
④ボランティア活動

生徒の皆さんは熱心に授業に集中していた。

教えた生徒と一緒に記念撮影(柔道部の生徒)

中村勘九郎の次男が飲酒の上、警官に暴行を加え逮捕されたと言う。
テレビで父親の記者会見を見たが、痛ましい感じである。
親としてはこれほどつらいものはない。当然ではあるが、親の教育・
躾はどうだったのか? などと批判される。次男が慢心していたのかも
知れない。親としてはただ「呆然」とし、平謝りするしかない。
ひとごとではない。身につまされる痛々しい記者会見であった。
今夜の朝日夕刊4面の全てを使って大広告が出ていた。
「中村勘九郎改め十八代目 中村勘三郎襲名記念展ー花咲く
勘三郎」。
間が悪いと言ってこれほど間が悪いこともない。

投稿者 koyama : 18:10 | コメント (0) | トラックバック

2005年01月30日

JASS日本事務所会議

朝7時、和歌山市内のホテルを出て「JR和歌山駅」へ。
タクシーの運転手さんと15分程話す。市内は雪。
運転手さんは私と同い年。1960年代、石神井に住み
中央大学へ通っていたそうだ。大学が閉鎖や紛争、
学生運動などで4年間勉強はしていないと言っていた。
その世代にしか分からない「世代だけが共有する歴史」
というものがあるのだと実感した。
午前8時JR和歌山から「天王寺」へ。1時間。
天王寺で下車。30分ほどまちバスで「伊丹空港」へ。
午前10時半、伊丹空港を出て羽田へ。11時40分羽田着。
その足で「日本事務所会議」へ出席。(北区教育会館)
午後1時半から午後5時まで日本事務所会議に出席。

日本事務所会議には13人が参加。
最初に参加者全員の近況報告・自己紹介。

①任期を終えて帰国した福田もえ子副代表の報告
5年4 ヶ月のフエ滞在。本当にご苦労様でした。

②2月1日から訪日するバオミン・ベトナム事務所長の在日日程
 ・2月1日(火) 6:35 関空着 京都観光(京都泊)
 ・2月2日(水)10:00 京都駅で小山と合流 神川さん訪問
          18:00 京滋YOUの会主催現地報告会
 ・2月3日(木) 13:30 京都発→東京
           19:00 「バオミンさんを迎える会」(池袋)
 ・2月4日(金) 東京観光
 ・2月5日(土) 東京視察
 ・2月6日(日) 10:30 日本事務所会議(北区教育会館)
           13:30 第11回JASS総会参加 提案
 ・2月7日(月) 10:00 成田発→ホーチミン市→フエ
 ●2月8日(ベトナムのテト正月の大晦日)

③2005年2月6日JASS第11回総会議案討議
 ・2004年の活動を振り返って
 ・2004年会計報告
 ・2005年活動の方針
 ・2005年の予算案
 ・2005年の人事案
④2月6日総会の全体日程確認
⑤緊急問題についての意思統一

皆さんの協力で2月6日の総会に提案する
各議案は了承され総会準備は大筋完了したい。
山西副代表からは財政状態が逼迫しているとの
報告があった。
午後5時過ぎに日本事務所会議は終了。

今日はかなり疲れている。口の中に
5つの口内炎が出来てしまい、食事が出来ない。
立っているのがかなりきつかった。帰りは森田さん
加藤さん、山田さんが車で自宅まで送ってくれる。
本当に助かった。自宅で簡単な食事をしそのまま寝る。
1月20日帰国後、かなり日程が詰まっていた。

明日は都立四商で講演会。

投稿者 koyama : 19:58 | コメント (0) | トラックバック

2005年01月29日

和歌山青年会議所会合出席

午後自宅を出て羽田空港へ。羽田から関西空港へ。
20分ほど羽田発が遅れる。午後6時頃関西空港着。
空港には和歌山青年会議所の赤井さんが待っていてくれる。
赤井さんの車で和歌山市内へ。
午後7時、市内の会議所で「2005年度 グローバルトレー
ニングスクール事業計画」に基づくフエでのボランティア体験
活動の具体化について打合わせを行う。
今回は近畿地区内の青年会議所メンバー(約100人)が
フエに来て様々なボランティア体験を行うと言う大きな
プロジェクト。
今回のプロジェクトを担当する和歌山青年会議所は
当日(4月21日)までの間に約30回の打合わせ会議を
予定している。また、ベトナムでの研修終了後、6月には
事後研修会として大阪の「大阪国際交流センター」で
私の講演会を行う。
今回のプロジェクトの概略日程は以下のようである。
●4月21日
  9:00 関空集合
 10:00 結団式
 11:25 関空発→ホーチミン市へ
 14:25 ホーチミン市着
 17:50 ホーチミン市発
 19:40 フエ着
 20:30 フエ市内ホテル着
 21:00 夕食 その後「小山道夫講演会」
 22:30 全体ミーティング
 22:45 班ミーティング

●4月22日
 7:00 起床
 8:15 「子どもの家」へ
 9:00 縫製工場建築予定地の整地作業(30人)
      「子どもの家」の中庭整地作業(30人)
      「子どもの家」の子どもたちと昼食の食材買出し(30人)
12:00 昼食(子どもたちと)
13:00 午前中の整地作業再開
16:00 作業終了
18:00 夕食後、子どもたちと交流会
20:30 ホテルへ
21:00 全体ミーティング
21:30 班ミーティング

●4月23日
7:00   起床
8:15   「子どもの家」へ
9:00   整地作業再開
11:30  昼食
15:00  作業終了
17:00 ホテル発
19:50 フエ空港発→ホーチミン市へ
23:30 ホーチミン空港発(4月24日 6:35 関空着)

かなり強行日程である。青年会議所の皆さんの真面目な姿勢が
良く分かる。
私たちも出来るだけ協力し、プロジェクトが成功するよう頑張るつもり
である。

●午後7時から午後10時半まで熱心に打合わせ

●それぞれの担当部署に分かれパソコンを使っての打合わせ

●プロジェクト全体の責任者である赤井さん

●午後10時時半から和歌山青年会議所の皆さんと懇親会。
 午後11時半まで


 

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2005年01月28日

支援要請で原宿へ。夕方「ベトナムツアー参加者」説明会

午後、宇都宮縫製工業組合の佐藤理事長の紹介で原宿にある
「YFLコミュニュケーションズ」(ヤングファッション研究所)代表の 
加藤武司氏を訪問。加藤氏は「プレポワ」「アーベーセー」
「ワンウエイ」も含め4つの会社を持っている。
宇都宮縫製工業組合佐藤理事長は熱心にJASS活動の意義
などを説明してくれた。感謝。
私の方からは「子どもの家」の活動などを説明。今後の支援を
要請した。
●ヤングファッション研究所で(小山・佐藤氏・加藤氏)

午後6時半、高校時代の同級生によるベトナムツアー参加者と懇談。
ツアーの日程、内容などを確認する。
3月17日から20日まで。「ボランティア体験学習ツアー」になるか
どうかは不明。というのか、ならないことは確実である。

明日は、和歌山へ。和歌山青年会議所の「子どもの家」ボランティア体験
(100人)の皆さんとの最終打ちあわせ。

引責辞任したNHKの海老沢元会長が「顧問」に就任した。
プロデューサーの使い込みをはじめ様々な不祥事の
責任を取っての辞任のはずが、顧問に就任したので
「反省」が全くないということだ。これほど視聴者を馬鹿に
した話はない。
特に政権政党に従属しての偏った報道は目に余るものが
あった。放映する前の番組内容を事前に政権政党や政府に
報告・説明するなど、およそジャーナリズムとしては敗北の
姿勢である。NHKという公器を海老ジョンイルが私的に使って
いるとしか思えない。
昨夜遅く帰宅しテレビを見ると「海老沢顧問が辞任」と報道
されていた。1日で顧問を辞任するなど、NHKの無能さ、
無責任さ、国民、視聴者無視の姿勢が露呈した。
ここまで馬鹿にされた視聴者は何をすればよいのだろうか?
NHKに抗議の電話か? 
この際、最後の「伝家の宝刀」を抜くしかないのではない
のか? NHK受信料の支払いは法律で義務付けられているが
違反しても「罰則規定」はない。「受信料拒否」という形で
国民は声を上げるときである。
あまりに人を馬鹿にしたらどうなるのかをたまには示す必要が
ある。

受信料拒否は簡単である。
①徴収しに来たら断る
②銀行振り込みの場合には、銀行にNHKへの振込みを
 停止する旨を通告すれば良いのである。

受信料を拒否しても何ら不利益はない。「お灸を据える」という
言葉がある。今度は、なめきられた国民が「お灸を据える」
番である。私は既に実行した。

投稿者 koyama : 23:35 | コメント (0) | トラックバック

2005年01月27日

杉並区立井荻中学校講演会打合わせ

午前10時半、池袋で杉並区青少年委員の海老沼さん、土地さん
と懇談。2月4日杉並区立井荻中学校講演会の打合わせ。
2月4日は午後2時から午後4時まで井荻中学校学区域の
小学校・中学校の校長・教頭、PTA役員などを対象にした
講演会である。

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2005年01月26日

久しぶりに1日自宅

今日は特に寒い。朝、雪が降る。
1日かけてパソコンに新しいメール「AL-MAIL」を
設定する。やっとメールが使えるようになった。

我が家に「振り込め詐欺」の電話があった。
次男を名乗る男が泣きながら電話をしてきた。
妻が「あなた、声が違うわよ」と言って電話を切った。
新聞やテレビでは聞いていたが、わが身の回りまで
「振り込め詐欺」の電話が来たのには驚いた。
次男の名前を語っての電話は「オレオレ詐欺」ではない。
どこかで名簿と自宅の電話番号を手に入れての
かなり芸の細かい詐欺電話である。
日本の社会そのものが崩壊の過程を辿っているように
思えてならない。
オレオレ詐欺をする若者もおかしいが、西武の堤氏、
三菱自動車、橋本元総理など「人間失格」と言いたい
人物が日本社会を牛耳っていたことに戦慄を感じる。
彼らの腐敗・道徳崩壊こそ、大きな問題である。
NHKの海老沢元会長もその系列に入るのであろう。
元首相、元JOC(日本オリンピック委員会)会長、
日本の財界を代表する三菱そしてNHKの会長と
日本社会ががけ崩れのように崩壊している。

講演会で出かける各地の学校の生徒や学生など
若者の方がよっぽど真面目に今の社会と世界の
現実に心を痛め、真っ当な社会にしようと思っている。

日本へ帰って1週間。毎日忙しく出歩く。家に帰ると
寝るだけという日々を過ごす。この間、杉花粉症の影響もあり
物を考える体調ではなかった。
今日は1日家にいて少し心に余裕が出来た。

NHK問題は、戦前のファシズム国家に日本が近づいていること
を物語っている。NHKと朝日新聞との対決ではない。
安部氏や中川氏がNHKに圧力をかけてことは、全体の流れを
みれば明らかである。
そして、問題は、NHKが放送前の番組について安部氏(当時の
官房副長官:政府)に報告しているというNHK側の体質である。
「従軍慰安婦」を取り上げたこの番組はNHK教育TV「ETV2001」
で放映されている。
同時期、私のベトナムでの活動も「ETV2001」で放映された。
私の番組は問題がなかったようだが・・・・・。
NHKが放送予定の番組の内容を事前に政府に報告することは
「事前検閲」そのものである。どんなにソフトなやりかたを
してもやはり「自主規制」という名の事前検閲である。
言論の自由はNHKの専売ではない。言論の自由は
国民の権利である。海老ジョンイルは、言論の自由を専権
と考えているようだがとんでもない思い違いである。
国民に負託された言論の自由である。
安部氏や中川氏など一部の政治家は従軍慰安婦はなかった
との立場から、この番組が制作されている最中から問題視
していたのである。彼らの「公正中立」は、自分たちの立場に
従えという意味である。NHKはこの問題だけでなく、
イラク報道一つみても著しく政府にべったりとした報道が
目立つ。こうして「脅し」と「真綿で首を絞める」
が如く、言論統制とファシズムへ傾斜していく日本が怖い。
今回100万件以上の「受信料拒否」が出ているとのこと。
国民がNHKの政権政党べったりの姿勢、会長の海老ジョンイル
のNHKを私物化している姿勢に腹を立てるのは頷ける。

ラジオで国会の代表質問を聞いた。小泉首相の答弁は
「問答無用」の態度である。例え意見が違っていても
質問者に対しては誠意を持って自説を述べるべきである。
木で鼻を括ったような態度は、言論の府である国会や
国民そのものを否定するものである。論議できない国会と
化しつつある。

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2005年01月25日

支援者と懇談

午前11時、支援者の「ブライセン」株式会社の藤木社長を訪問。
五反田駅近く。ブライセンはコンピュータ関係の会社。
従業員100名強。http://www.brycen.co.jp/
藤木社長は長年、「子どもの家」への支援を続けている。
昨年11月25日のフエ水害時にも救援金を寄付してくれた。
4年前にベトナム事務所員・東京平和産業社長のラームさんの
弟であるHOANG君を日本へ招請。日本語学校を卒業させ
この3月にはコンピューター専門学校も終わり、4月から
ブライセンの社員としてIT関連の研修を深める予定である。
この4年間、生活費や授業料等全てをブライセンが負担している。
ベトナムの青年支援という社会貢献の一環として。
HOANG君は元気にブライセンでITの実地研修を行っていた。
今日は今後のベトナム青年の招請計画について懇談。
●ホアン君、藤木社長、小山(ブライセン株式会社にて)

午後12時半、新橋「第一ホテル東京」で帯広の芳村さんたちと懇談。
障害児支援問題について意見交換。帰宅午後4時。

パソコンの調子が非常に悪い。

明日、ベトナム事務所の坂本文子さんが任期を終えて帰国する。

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2005年01月24日

静岡県芝川町立柚野中学校講演会

午前9時半自宅発。東京駅で西山優子さんと合流。
新幹線で新富士駅へ。静岡県芝川町立柚野(ゆの)中学校の
講演会へ行く。
新富士駅から車で50分。富士山中にある芝川町へ。富士山は
雲もなくきれいに雪をかぶっていた。

午後1時過ぎ、芝川町立柚野中学校着。校長室で校長先生と懇談。
午後1時20分。音楽室で講演会。全校3クラス、全校生徒99人の小規模校。

初めに私が40分間話す。ベトナム行きの経過、ストリートチルトレンの生活など。

休憩を挟んで西山優子さんが「何故ベトナムへ行ったのか、ベトナムから見える
日本、人との縁」などの話をする。

午後3時半、柚野中学校を出て新富士へ。
午後4時40分の新幹線で東京へ。自宅着午後7時。

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2005年01月23日

役員会

午後5時から池袋で役員会を開催。
山西さん、寒河江さん、柴田さん、福田さん、小山。
2月6日に行われるJASS第11回総会の議案の検討。
役員会として総括案、方針案、新役員人事案を了承。
1月30日の日本事務所会議に提案することを決める。
2008年までの大筋の現地自立への展望を話し合う。
役員会をしている隣の席に従兄弟の長島俊道さんの
家族がいた。久しぶりに話す。1951年から1959年まで
長島俊道さんの家に間借りをしていた思い出がある。
午後9時過ぎまで役員会は続く。自宅着。午後10時。

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2005年01月22日

静岡県三島市講演会

午前9時、自宅発。東京駅から新幹線こだまで三島へ。
午前11時50分三島着。静岡県の支援者3人と待ち合わせ。
昼食を摂りながら懇談打ち合わせ。午後3時半まで。
その後、3人の支援者と一緒に三島大社参観。
きれいな紅梅が満開。

午後4時、NPO「ウオータービジョン」講演会会場付近で
関係者7人と2時間ほど懇親。午後7時、三島市清水町
教育委員会後援の講演会場である清水町公民館へ。
午後7時から午後9時まで講演。参加者30名。
NPO法人ウオータービジョンの講演会は4回目。
理事長の松浦正美氏とは10年近いお付き合い。
講演会終了後、午後9時半の新幹線こだまで東京駅へ。
自宅着午後11時30分。

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2005年01月21日

宇都宮へー静岡・フエ青年交流会館付属日本語学校卒業生を訪問

日本はとても寒い。杉花粉症重症。
午前9時、自宅を出て赤羽へ。赤羽からJR湘南新宿ライン快速
で東北線「雀宮」駅へ。1時間半。雀宮は宇都宮駅の一つ手前。
雀宮駅で宇都宮縫製工業組合の佐藤理事長(マルサ社長)と
兼近専務と合流。
佐藤理事長のマルサには、静岡・フエ青年交流会館付属
日本語学校で1年間日本語の勉強をした卒業生16人が
研修をしている。
16人の卒業生の研修の様子を視察。一人一人に声をかかて
「何か問題はないですか」と聞く。

16人の研修生は縫製の研修を行っていた。工業用ミシン、
アイロンかけ、仕上げなどの作業の研修をしていた。
元気良く、生き生きと研修していたのが印象的だった。

その後、休憩時間(かなり延長となったが)を利用して、
16人の研修生と懇談をした。仕事は午前8時半から
午後5時半。休憩時間1時間、休息時間15分2回。
特に大きな病気になった人はいない。歯痛、風邪で
病院へ行った卒業生もいた。食事は自分たちで
スーパーに行って買い物をし作っているという。
魚、野菜、肉などを買い、ベトナム風料理を作るそうだ。
かなり唐辛子もいれると言っていた。「物価が高い」と
口々に嘆いていた。
2004年3月から研修生となり宇都宮に来ているが
近日中に「実習生試験」がある。筆記と実技試験を
受け、80%の成績を残した研修生だけが更に2年間
実習生として研修を続ける。佐藤理事長を中心に
マルサの皆さんは研修生全員が実習生試験に受かる
よう事前の模擬試験や日本語教室を開いての支援を
行っていた。2月9日の旧正月前には、マルサ主催で
餅つき大会を開いて、研修生と一緒に日本人従業員も
テト正月を祝うそうだ。

16人の研修生が特に大きな問題もなく生活していたことに一安心。
一人一人の表情も明るかった。

佐藤理事長・兼近専務と夕食を共にし、午後8時30分「雀宮」発の
東北線で帰宅。自宅着午後11時45分。

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2005年01月20日

日本帰国   高校同級会参加

午前7時25分、成田着。気温5度。
フエ15度。ホーチミン市30度。
ホーチミン市には日本食堂が林立。しかしその浮沈も激しい。
昨年あった店が今年はなくなっているということが多々ある。

東京は寒い。
数時間後、くしゃみと鼻水、目の痒み。杉花粉症発症。
スギ花粉症予防薬をもらいに行く。

しばらく休息。午後6時半、巣鴨で高校時代の同級生の会。

投稿者 koyama : 23:53 | コメント (0) | トラックバック

2005年01月11日

パソコン修理のため1月20日まで日記を休載します。

一日雨。
トンチンカンホテルのパソコンがウイルスに侵されたようで
不調。業者を呼んで調べてもらったところ、業者の会社に
もって行き10日間ほどの修理が必要とのこと。
1月20日までこの日記を休載させて頂く。
関係者の皆様には深くお詫びする次第である。

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2005年01月10日

試験も終わり楽しいテト正月を待つ子どもたち

午前8時半、7年前に心臓の手術支援をした子どもの
父親がベトナム事務所を訪ねてくる。
1998年から4年間実施したJICA(国際協力事業団:当時)
との共同プロジェクトである障害児支援。
当時、フエでは心臓病の手術は出来なかった。
ホーチミン市の心臓病の専門病院で手術をするしか
なかった。フエ中央病院、フエ市立病院などを通して
6ヶ月位の命と思われる心臓病の子どもたち6人を
紹介してもらい、2ヶ月間かけて手術をおこなった。
幸い、全員手術が成功し、現在は普通の日常生活を
送っている。
当時、心臓の手術は30万円位の費用が必要であった。
5人ともフエ郊外の農民。年収は1万円から2万円。
子どもたちの手術をするためには、10年間ほどの年収
が必要だった。手術から7年。父親が当時のお礼に
来た。当時13歳だった男児も今は20歳。
ホーチミン市でミシン工として仕事をしているとのこと。

午前9時、障害児の父親が支援要請に来る。
14歳の女子。10歳の時に病気となり、小水を体内から
外に取り出し、袋にためているとのこと。この4年間で6回の
手術をしたそうだ。
最近、娘さんは「友達の目が気になり学校へ行かない」と
言い出した。フエ中央病院の話では体外の袋をやめて、
手術をすれば体内で処理できるようになるとのこと。
その手術代を支援した欲しいと。父親は35歳。
フエの山岳地帯のふもとであるフンチャー郡で農業をして
いる。収入が低いので手術代がないそうだ。
フエ中央病院からの紹介でJASSベトナム事務所を知った
とのこと。3月に再度、フエ中央病院へいくそうなので
その際、手術代がいくら位かかるかを聞くよう助言する。
その間に私たちがフンチャー郡の自宅を訪ね、
家庭生活の困窮度などを調査する約束をする。

午前9時半。昨夜フエへ到着した京滋YOUの会の水本さんと
フエ滞在中の日程など打ち合わせ。その足で、「子どもの家」へ。
水本さん、サンさんと一緒に。
「子どもの家」ではセン運営委員長がトイレ改修等の
お礼を言う。水本さんの寄金で1階・2階のトイレを
大改修した。また食堂の屋根の改修、電気関係の
設備等の総点検を行った。
水本さんは「子どもの家」の図書室の整理をしてくれるとの
ことだった。

「子どもの家」の子どもたちは先週1学期の試験が終わり
2月9日の旧正月(テト正月)を楽しみに待っていた。

1月3日に入所したタン君を訪ねる。
今日で丁度1週間。タン君は元気に生活していた。
学校にも通学している。担当のニエム寮母さん、同室の
友達ともなじみになってきた。子どもたちはこうして
孤独と寂しさと闘い成長していくものだと思った。

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2005年01月09日

在宅支援希望者自宅訪問

昨夜から豪雨。1日曇り。
午前8時、バオミン・ベトナム事務所長と一緒にトゥイビュー村へ。
昨日ベトナム事務所で在宅支援を希望した両親を亡くした5人
兄弟の支援のため。トゥイビュー村はフエ市にある4つの村の
一つ。フエ郊外の山岳地域の麓。市内に比べると標高が高い。
森林業を営む家庭が多い。
フエ市内からミンさんのオートバイの後ろに乗って30分。
トゥイビュー村に着く。村の入口に昨日あった長男が
出迎えに来ていた。一緒に複雑な山道を通り自宅へ。
自宅には73歳の祖母がいた。昨日、兄弟は祖母の話は
していなかった。息子夫婦が亡くなり、5人の孫と一緒に生活
している。なかなかしっかりとしたおばあちゃんである。
家の様子を確認。失礼ではあるがどう見ても豊かな家庭で
ないことは一目見て分かる。
●祖母と5人兄弟

●在宅支援する姉妹(両側)と従兄弟


祖父はフランス語と英語の観光ガイドをしていたそうだ。
70歳代でフランス語と英語が出来るのはそれなりに
勉強をした方と見受けた。長女は大学教師、長男は
フエ医科医科短大(看護師めざす)、次男は
ハイバーチュン高校(フエの名門高校)、次女と三女の
成績優秀賞をもらっているとのこと。
家に入り水(お茶代わり)を頂く。家の雰囲気も落ち着いた
ものだった。祖母、長男、次男などの話し振りも品性を
感じる。こうした家庭の子どもたちを支援することは
有能な力を発掘することでもあり意味のあることである。
JASSの説明、在宅支援のシステムなどを家族の
皆さんに説明する。祖母は繰り返しお礼を言う。
今は貧しいがこの貧しさと生活の困難を自らの力で
乗り越えていくことを祈る。この困難は将来必ず
子どもたちの人間的な成長を助けるものと思う。
私たちは家族の皆さんが団結して困難に向かっていく
手助けをするだけ。

今日は日曜日。11月21日にフエへ戻ったが、
この1ヶ月半、ほとんど休みがなかった。日曜日の
休みは1回(風邪を引いて寝ていた)、そのほかの
日曜日は洪水、訪問者案内など、何らかの日程が
入っていた。
午前11時、久しぶりに「バスタブ入浴」。
山西さんにもらったオーストラリアの原住民族
アボリジニーの使っている不思議な「メラルーカ・オイル」
を数滴入れて入浴。不思議な香り。20分ほど半身浴。
かなり疲労が溜まっているのは事実。

ドンバ市場ではベトナム赤十字の青年が
「スマトラ地震・津波支援」の募金活動を行っていた。

夜、孫のはなから電話。東京に来ているとのこと。
「ジージー。今日、ディズニーランドに行って来たよ」と
のこと。かなりのハイトーン。良くしゃべるようになった。
子どもの成長の早さに驚く。この子の未来が平和で
幸せであることを祈るのみ。そのために私の出来ることは
何でもしたい。妻も孫の訪問を受けて嬉しい様子。
電話の声だけだが・・。

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2005年01月08日

ベトナム事務所員会議 両親がなくなった子どもたちの生活相談

午前8時半、ベトナム事務所員全員会議。
ミン、ラーム、ハン、サン、ソン、フーン、坂本、原、松下、
中村、小山の11人。
内容は①1月30日からの地球の歩き方ツアーへの対応
②2月13日からの京都産業大学スタディーツアーへの対応
③1月15日の「静岡フエ青年交流会館」付属日本語学校
観光コース卒業式の内容と式次第、諸準備。
それぞれ細かい部分について意見を出し合い原案を修正。

午後3時、ハイバーチュン高校で奨学金を贈呈している
高校3年生と兄に会う。ミンさん、ラームさんと。
父親が1999年に脳溢血で亡くなり、母親も2週間前に
やはり脳溢血で亡くなったとのこと。ハイバーチュン中・高校の
副校長先生からの連絡で会うこととなった。
兄弟は5人。長姉は26歳で大学の先生。月給は4500円。
現在出産後の産休中。夫はクアンガイ省で下級医師。月給
4500円。長男20歳(大学生)、次男18歳(高校3年生)、
次女14歳(中学2年生)、三女11歳(小学校5年生)。
長女夫妻は現在別居している。
兄弟5人と長女の赤ちゃんの6人で生活している。
収入は総額で9000円程度。家族6人が生きていくのに
最低2万円程度の費用がかかる。1万円ほど不足する。
2週間前に亡くなった母親は日雇いの仕事をしながら
4000円ほどの収入を得ていたとのこと。
長男、次男、次女、三女の学生生徒は成績優秀とのこと。
長女は大学の先生、夫は医師であるが、収入は相当低い。
長女は1万円程度の収入だそうだが、現在産休中なので
収入が半額。
最低、5000円程度の支援は必要と判断した。

明日日曜日ではあるが、ミン・ベトナム事務所と私で
フエ郊外の自宅を訪問し、本当に生活困難なのか
家族は兄が言うとおりの人数がいるのか、家庭生活の
様子などを調査する。その後、必要なら在宅支援を
行うつもりである。
こういう支援は中々難しい。私は、基本的にこの家族、
兄弟の気持ちになって考えることにしている。絶対に
お役所仕事はしないよう決意している。大変であるが、
出来るだけ応援し、自立できるようにサポートしたいもの
である。同時に支援が嘘の支援になっては駄目である。
本当に必要な支援なのかを日本の支援者の代わりに
調査する任務もある。両者をうまく統一して支援を進める
ためには、時間と労力と愛情が必要である。
●両親が亡くなった兄弟

午後4時、「子どもの家」の卒業生(正確には家出した)リー君と
進路について話し合う。小山、ミン、ラーム。
リー君は1997年、テレビ東京「ドキュメンタリー人間劇場」の
取材で知り合い「子どもの家」へ入所した。その後、中学1年
まで「子どもの家」へいたが、突然家出しホーチミン市へ行って
しまった。ホーチミン市に数年いたが、昨年突然「子どもの家」へ
帰って来た。オートバイ研修センターで8ヶ月間研修をして
いたが、突然止めて、ふらふらしていた。
昨年12月初めに私の所にやってきた。「ダナンの金堀り」に
行くとの話だった。回りの人に聞くと「ダナンの金掘りは
やくざが支配し、タコ部屋で最後は死んでしまう」とのこと。
私は何度もリー君に「ダナンヘ行くのをやめて、真面目に
仕事をしなさい。真面目に仕事をするのなら進路を一緒に
考える」と言ったが、リー君は「嫌だ」と言っていました。
一昨日、トンチンカンホテルにやって来て、「真面目に仕事を
した。紹介して欲しい」と言って来た。今日、ベトナム事務所
で会うこととした。
リー君は正確な自分の年齢を知らない。17歳位のようだ。
サービス業をしたいとのこと。レストラン、喫茶店などで
仕事をしたいと言っていた。しかし、IDカードがないこと、
年齢が17歳であることなどの理由で正式に会社が雇うことは
出来ない。
フエ市に「ガードマン」の学校が出来た。リー君は体格が良いので
ガードマンになったらどうかと話す。本人もガードマンをやりたい
とのこと。しかし、高校卒業の資格がないと入学は難しいようだ。
ラームさんに頼み小学校卒でも入れるコースがあるかどうか調べる
こととする。当面、ラームさん、ミンさんの知り合いのお店で
雇ってくれるところを見つけ紹介することにした。
不良仲間との付き合いを止めて、真面目に仕事をすることを
祈る。リー君とは10年近く付き合っている。
こうして相談に来てくれることは嬉しいことである。
出来るだけ時間をとってリー君の相談に乗るつもりである。


午後6時、1月末で帰国する日本語学校教師坂本文子さんと
会食をする。ミン・ベトナム事務所長、ラームさんと。
坂本文子さんは1年4ヶ月日本語学校の教師を勤めてくれた。
帰国後は宇都宮大学国際学部大学院に復帰する。


午後7時から坂本文子さんはメー元知事に日本語を教える。
メー元知事(現国会議員、県議会議長)からの要請により
昨年からメー元知事など5人程の日本語を教えている。
ベトナムの国会議員が日本語を話せるようになるもの
日越友好には役立つと考えている。坂本文子さん、
フーンさん、ご苦労様です。

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2005年01月07日

省観光局長懇談 オランダNGO懇談 ・・・・・

1日曇り。
午前8時半、トゥアティエンフエ省観光局長と懇談。
ミンさん、ラームさん同行。トゥアティエンフエ省観光局と
協力して実施している「静岡フエ青年交流会館」付属日本語学校
の観光コース。1月中旬で「レストランコース」、「レセプションコース」
が終了し卒業となる。今後の2コースをどうするのかを話し合う。
観光局からは、2年間のガイドコース、そして上記2コースの
結果は良かった。引き続き2コースを継続して欲しいとのこと。
私の方からは、日本語学校一般コースの初級と合同で4ヶ月から
5ヶ月勉強し、最後に専門分野の勉強をすることを提案し合意。
今後、私にトゥアティエンフエ省の観光大使をして欲しいとの話し
があった。また、トゥアティエンフエ省のホテル、企業等は今後
日本との交流を行う計画である。その際、行う各種セミナーの
講師になって欲しい。日本についての情報、知識、伝統などを
関係者に教えて欲しい。日本とベトナムの両方を知っている
私のような人間がベトナム人のためのセミナーの講師に最適
とのこと。当面「ベトナム観光協会」の会員になって欲しいとの
こと。了承する。
レセプション、レストランコースは、3月から募集初め、4月に
第2期を開講することとした。
その後、ベトナム事務所員に集まってもらい観光局長との
懇談内容を伝える。
●トゥアティエンフエ省観光局長との懇談

午後2時半、フォンザングループのドン社長と懇談。
午後3時半、「子どもの家」の卒業生でフォンザンホテル
厨房で仕事をしているトゥーイさんがトンチンカンホテル
に来る。現在、事情でID(ベトナム人がその所持を義務付けられ
ている身分証明書明)を持っていない。毎日のように
公安が家に来て「大家さん」を締め上げる。結局、今まで
住んでいた貸家にいられなくなり、引っ越す。そこにも
公安が来て「いじわる」をする。何とかIDカードを作って欲しい、
とのこと。直ぐ公安幹部に連絡しIDを作れるよう手配をする。
●卒業生トゥーイさんと


午後4時、オランダのNGO「SNV」のフエ代表と懇談。
SNVはハノイなどベトナムで5箇所で地域開発をしている
NGOである。同時に世界組織でもある。SNVの
フエ代表はカナダの¥のバンクーバー島出身。
フエでは、ナムドン山岳少数民族の支援を行っている。
ナムドン山岳少数民族の生活向上のため観光開発を
行っている。地球の歩き方ツアーなどでナムドンへ
来て欲しいとのこと。

今日は1日、色々な人たちとの懇談などで終わった。
通訳を入れたり、英語での交流は疲れる。

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2005年01月06日

忙しい1日だった

午前中、10周年文集の写真の件でミンさんと打ち合わせ。
その後、10枚ほどの写真を探しフロッピーへいれミンさんに渡す。
ミンさんは文集を「検閲局」へ持っていく。
午後ラームさんといくつかの問題打ち合わせ。
25通のメールを受信。メール内容を読む。7通のメールを送信。
役員会へ当面の諸問題を報告する。
地球の歩き方ツアー、京都産業大学スタディーツアーについて
ラームさん、ミンさんと詳細打ち合わせ。


投稿者 koyama : 23:11 | コメント (0) | トラックバック

2005年01月05日

暖炉基金の支援

終日曇りのち小雨。この1ヶ月、あまり太陽を見ない。

午前中、ベトナム事務所で10周年文集の最終校正。
今週中に印刷に回す。バオミン・ベトナム事務所長が
編集を行う。印刷の後、10日間ほど「検閲」があり、
その後、日本へ郵送する。2月6日の総会に間に合うよう
に急いで編集、校正をした。

午後2時半、障害児医療センターへ。帯広の芳村さんの
創設した「暖炉基金」を受けている障害児にテトのお年玉を
渡す。暖炉基金は芳村さんが障害児の通学を保証したいと
の気持ちから5人の障害児の通学費を援助する基金である。
希望すれば大学卒業まで支援するというもの。
今日は、芳村さんからの依頼で5人の奨学生にお年玉を
あげる予定だった。二人は来たが3人は第1学期の試験で
こられなかった。後日渡すこととする。

午後4時から、JASS第11回総会方針案原案作り。

夕食後、「静岡フエ青年交流会館」付属日本語学校参観。
1階では坂本文子先生、中村友香先生が「中級3クラス」の
試験中。筆記試験と会話の試験をしていた。
昨年9月1日からベトナム事務所員見習いとなったソン君も
一生懸命日本語を勉強していた。
2階ではフーン先生が日本語ガイドコースの生徒を教えていた。

●会話の試験をする坂本文子先生

●会話の試験をする中村友香先生

●日本語ガイドコースを教えるフーン先生

●昨年9月1日にベトナム事務所員見習いとなったソン君も
 中級3クラスで必至に勉強していた。

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2005年01月04日

ハンさんのお母さん49日法要

午前9時、フエ市人民委員会外務部訪問。
ベトナム事務所でミンさんと10周年文集の最終打ち合わせ。
2月1日までに日本へ届くよう逆算して編集・印刷等の準備。
午前11時15分、ベトナム事務所員一同とハン会計担当の
お母さんの「49日法要」に参加。
ハンさんの実家はフエで4番目に大きいキリスト教教会の中に
ある。
●ハンさんの実家

●小山焼香

●坂本さん焼香

●亡くなったハンさんのお母さんのキリスト名

●49日の法要:「子どもの家」寮長ロックさん、サン・ソンさん

●セン委員長とベトナム事務所員

●ミンさんと日本語教師


午後3時からフエ祖国戦線主催の
「アジア・東南アジア地域の津波・天災により
被害を受けた国民を支援し、寄付をする運動の
発動式」に参加。
インド洋大津波の被害者への支援運動の
大集会である。

集会はフエ市共産党委員会の本部で行われた。
フエ市人民委員会の指示の下にフエ祖国戦線
が主催する形で集会は開催され、国際赤十字とも提携。
約200人のフエの各種団体の幹部が参加。
トゥアティエンフエ省警察本部長、軍隊幹部、共産党委員長、
フエ市長、副市長その他、省・市の企業の社長、
小中高校長などが参加。
私はスマトラ地震による大災害の被災に心を痛めている。
今、私の出来る支援をしたいと思っていたところだった。
呼びかけに応え、集会に参加。
集会は以下の式次第で行われた。
①開会
②参加者紹介
③主催者挨拶(祖国戦線議長)
④寄付
⑤閉会

集会は地元のフエテレビ、ハノイのベトナムテレビも取材。
各種新聞も。
開会の言葉の後、参加者紹介があり、フエ市共産党委員長、
続いてJASS代表の私が紹介された。
主催者を代表してラック祖国戦線議長が挨拶。
・今日の集会の目的は組織、会社、学校、軍隊、警察などの
代表者が集まり、東南アジアの大津波による被害者を救済する
ためのものである。
・スマトラ地震・津波による被害者は167600人にものぼり、
多くの外国人も被災している。500万人以上の人が失業している。
国連のアナン事務局長が支援を呼びかけ、アメリカ、日本、インドが
先頭になり支援を始めている。
・現在までの支援金は20億ドル。その4分の1の5億ドルは日本。
個人の支援者はでは、マイクロソフト社のビルゲイツ氏が300万ドル。
ジャッキーチェン氏が68000ドル。
・ベトナム政府は45万ドル支援した。
・ベトナムの各団体等の支援は、ハノイ、ホーチミンで30万ドル。
・行方不明者が未だに多く、数万人に上る可能性がある。
・伝性病も蔓延し始めている。
・今日から10日間をスマトラ地震・津波支援旬間とし、全市民、
 全組織を挙げて支援活動を進めたい。
・集めたお金で食料・医薬品などを買い、国際赤十字を通して、
 被災者に送る。
・今こそ、国際連帯の気持ちで支援を強めよう。
・これから各組織、各地域、各家庭に入り、寄金を呼びかける。
・市場などに募金箱を置き、多くの市民から募金を集めよう。

その後、参加者全員が寄金を行う。
初めにフエ省警察本部より 700ドル
フエ省環境局から 350ドルの寄金があった。
3番目にJASSが紹介され 1000ドルの寄金を行った。
その後、200人の参加者全員が寄金を行い、7000ドルの
寄金が集まった。今後、10日間でフエでも最大限の寄金が
集まるものと思う。
ベトナムの一般庶民の月給が5000円から7000円程度である。
そうした国での7000ドルは多額の寄金であることが分かる。
生活が苦しいフエの人々もやはり地震と大津波の被災者への
共感と支援の気持ちを持ち、最大限の支援をしている。

私たちJASSは、弱小NGOである。ストリートチルドレンへの
支援金や寄金で成り立っている会でもある。
しかし、今、私たちの生活を少し切り詰めてでもインド洋周辺の
人々、特に被災した子どもたち、両親や家族を失った子どもたち
に共感し、支援をすべきだと思う。私たちは、先ず、自分たちで
今、出来ることをやっていこうと思っている。1000ドルは
私たちに取って高額のお金である。しかし、被害に苦しんで
いるインド洋周辺の人々の苦しみを考えると、何か出来ることを
今、実際の行動で表さなければならない。
「百万遍の理屈より実際の小さな行動を。無関心は最大の罪悪」
との考えで私は行動しいる。
日本でスマトラ地震と大津波への支援の運動がどう進んでいるの
か全く情報が入らないので分からない。しかし、私は
自分だけに目をやることなく、周りの人、世界の人々に目を
向け「互助の精神」を発揮する時だと思う。今支援をしないで
一体いつするのだろう、そんな考えが頭をかすめた。
フエで今日の集会に参加した日本人は私一人だけだった。

●地震・大津波被災者支援集会看板

●JASSからフエ祖国戦線議長へ1000ドルの救援寄金を贈呈

投稿者 koyama : 21:32 | コメント (0) | トラックバック

2005年01月03日

ベトナム事務所ー仕事再開

ベトナムの陽暦正月は1月1日のみ。

午前8時半。「子どもの家」で「入所式」。
THANH(タン)君12歳、6年生。
父親は行方不明。先日母親が死亡。
現在74歳の祖父(シクロの運転手)と73歳の祖母と
同居。
今日は、祖母と叔父さんがタン君を連れて入所式に参加。
入所式には、セン委員長、ロック寮長、小山、ミン・ベトナム事務所長、
タン君、祖母、叔父が参加。
●タン君の入所式

タン君はかなり緊張している様子だった。知っている人の誰もいない
「子どもの家」に入るのは、子どもなりに勇気のいることである。
「可愛そう」という声もあるかも知れないが、私の11年の経験では、
入所する子どもたちに取っては、悲しさと不安と闘う中で自分が
強くなっていく。現時点では「可愛そう」なのかも知れないが、
こうした悲しさ、寂しさ、不安と自分自身が闘う経験は、将来
子どもたちに取っては、大きな学習となる。「苦しみ」を
「可愛そう」と言っていつも逃げているのでは、人間の成長はない。
●ごくわずかなタン君の私物。若干の衣類と勉強用具のみ

タン君担当の寮母ニエムさんと一緒にタン君の部屋へ。
タン君の部屋は5人。今日は午前中2人が期末試験で不在。
3人の同室の子どもたちと挨拶。ニエンさんが部屋の決まりなど
を話す。
●部屋の友達と。心配で祖母と叔父も一緒に


「子どもの家」にHY(ヒー)君が来ていた。ヒー君は10年前の
1995年に日本へ連れて行った若者。JASSが出来たばかりの
夏。当時の会代表の岩辺泰吏さんの考えもあり、4人のベトナム
青年を日本に招請し、各地を回った。ラームさん、ヒー君など。
ラームさんもヒー君も当時、「子どもの家」の手伝いをしていた。
その後、ヒー君は大学を卒業し、現在はトゥアティエンフエ省
家族計画委員会の役人となっている。28歳になった。当時は
高校生でボランティアとして「子どもの家」の手伝いをしていた。
●ヒー君と10年振りに再会

「子どもの家」には日本語教師松下さんご家族が来訪。
ご両親、大学生の弟さん、中学生の妹さん。
●松下さんご一家と子どもたち

●子どもたちは前期の学期末試験中。必至に勉強している。
 グエフエ高校3年生のカイン君

午前11時、フールー小学校の校長先生が新年の挨拶に来る。

午前11時半、松下さんのご両親の招待で昼食をご馳走になる。

午後、ベトナム事務所で仕事。
夜、「子どもの家」創立10周年記念文集の最終校正。
各ページの写真を選ぶ。日本語と全体構成の最終チェック。

投稿者 koyama : 23:56 | コメント (0) | トラックバック

2005年01月02日

寒い新年

今日も寒い1日だった。
暖房器具のないフエでは防寒はただただ衣類をたくさん
着るか、毛布に包まっているかのどちらかだ。
8通のメールン受信。6通送信。
総会議案作成。
午後原稿書き。

今日は朝から禁酒を心の中で誓っていたが、
福田もえ子のご両親から頂いた「生干納豆」を
一つ口に入れてみると、どうしてもビールが恋しくなって
しまった。正月だからまあいいや。
夕方7時から地元「フダビール」を飲む。
NHK海外放送は1日中「教養番組」ばかり。
午後7時から「シルクロード」。日本の様子を知りたいのだが、
ディレクターの好み(としか思えない)で1日中、強要番組。
教養番組ばかりでは少々食傷気味。例の紅白で数千万円の
お金を誤魔化したディレクターや10数万人の受信料
不払いが出るほど、辞任要求の出ている海老ジョンイル会長
などこそ「教養」が必要だと思うのだが・・。
などと思いながら日中合作「シルクロード 楼蘭4000年の眠り」
を見ていると面白い。
紅白がとうとう40%を割った。39、3%だったそうだ。
ちょっと前までは70%の視聴率があったのだが。

スマトラ沖%

投稿者 koyama : 20:10 | コメント (0)

2005年01月01日

明けましておめでとうございます。

明けましておめでとうございます。

昨夜は年越しで「八海山」をかなり飲んだ。
紅白は何も感動はなかった。さだまさしを除いて。
飲みながら見ていたので、歌詞の意味を十分吟味する時間は
なかったが、さだまさし「メリークリスマス」だけが人間としての個性と
今を生きている人間を感じた。意味深長な歌詞だった。
イラク、アフガンで戦争があり、テロが蔓延し、スマトラ沖地震と
津波で12万人とも15万人とも言われる人々が亡くなっている
世界の現状。こうした現状と全くかかわりを持たない歌手、音楽家
というものがあるのだろうか?こうした現実を全く無視しての
音楽・芸術というものがあるのだろうか?衣装だけが個性的で
歌の内容は全く没個性。没世界。
NHKの体質といえばそれまでだが、こうした形で視聴率を
上げ、海老ジョンイル会長の保身を支える茶番。
海老ジョンイル会長は「史上最高の紅白」と言ったそうだ。
(2005年1月1日 毎日新聞報道)
今の日本人の品性と知性を象徴している言葉ではある。
日本の指導者層の精神的荒廃は深刻である。

今日は10時頃起きた。気温は9度。寒い。寒い。
ベトナムに寒波が襲来している。
毛布1枚では到底寒い。12月24日、25日頃は30度以上だった。
急に20度も気温が下がると体がついて行けない。

東京の自宅に新年の挨拶で電話。妻も元気そうな声だったが
一人だけで迎える新年は寂しいようだった。
午前10時、新年の「お神酒」を頂く。寒いので薩摩「白波」の
お湯割り
。内田さんから頂いた「するめ」を焼いて、醤油漬け
にしておいた。おつまには最高。小樽からの「鮭トバ」。
食欲なし。おかゆを作る。

メールの年賀状が届く。8通の年賀状メールを送信。
午後、ミネラルウオーターがなくなり買出しへ。
フエ市内は全く通常の様子と雰囲気。特に正月という
雰囲気はない。やはり、2月9日の「テト正月」が
ベトナムの正月なのだ。
オートバイで町に出たが、右足の「弁慶の泣き所」を
オートバイに強打。新年から「青あざ」を作る。

そこで新春の一句。

まだ黄色い素人運転玄(くろ)がって、赤い顔して青あざ作る。
(5色折込み句)

今年は、「ストップ」(赤)から「スタート」(青)
の年になるお芽出度い兆候と見た。但し、痛い。
2005年の活動方針の骨子を考える。
雑誌の原稿の草稿。

寒いので1日中毛布に包まり寒さを堪える。
新年の落語を聴く。
桂文楽(先代)の「明烏」「寝床」。
柳家小三治「屋屋番」。
夜も「お神酒」で心と体を清める。少し清めすぎのきらいあり。
新年を一人で祝う。妻をはじめ長男・嫁・孫、次男の健康と
幸福を祈る。そして「子どもの家」の子どもたち、世界の
子どもたちの幸福を祈る。

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