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2004年08月31日
8月31日(火) フエ市人民委員会打ち合わせーME前知事懇談ーー地球の歩き方ツアーグエンフエ高校交流
●午前9時、フエ市人民委員会外務部で「JASS10周年・奨学金贈呈式典」の最終打ち合わせ
●午前11時過ぎ、ME前知事(現国会議員・省議会議長)と懇談会食
●午後2時、地球の歩き方ツアーグエンフエ高校で交流
左(原・松下さんも交えて5人での朝食)
中(ニエン氏と9・14式典打ち合わせ)
右(メー前省長と懇談・会食)
地球の歩き方ツアーはグエンフエ高校で高校生と交流。
左(グエンフエ高校交流)
中(バンブーダンスを楽しむ)
右(フエ名物「バインベオ」を食べる)
午前9時、フエ市人民委員会外務部で「10周年式典」最終打ち合わせを行う。
★ベトナム側参加者(ニエン外務部長、3人の部員)
★日本側(小山、福田、ミン、ラーム)
①9月14日(火)式典参加者
・ベトナム側(236人)
・日本側(64人)
②式典式次第
A8:15 開場
A8:30 フエ伝統舞踊披露
A8:50 開会
司会(ラーム・外務部員)
・開会挨拶(司会)
・出席者紹介(司会)
1.主催者挨拶(小山JASS代表)
2・フエ省代表挨拶
3・フエ市代表挨拶
4・教育機関代表挨拶
5・「子どもの家」セン委員長挨拶
6・奨学金贈呈者代表挨拶(北垣善男様)
7・奨学生謝辞
8・奨学金贈呈式
A11 閉会
③JASS10周年活動記念レセプション(立食)
・ベトナム側出席(約40人)
・日本側出席(約40人)
P6 開会
司会(ミン・外務部員)
・開会挨拶(司会)
・出席者紹介(司会)
1・主催者挨拶(フエ市人民委員会代表)
2・出席者代表挨拶(国際ソロプチミスト京都ー西山)
3.JASSより各関連機関へ感謝状贈呈
・省共産党、省人民委員会、市共産党、人民委員会、省外務局、市外務部、省教育局、市教育部、8つの高校
4・乾杯の音頭
5・会食・歓談
ーーーーーーーーーーーーー
午前11時、ME前省知事との懇談会食。
小山、福田、ラーム。
元知事からは今後、JASSと協力して活動を進めたいとの話しがある。ME氏は現在省から出ている3人の国会議員の一人であり、省議会議長でもある。今年の春まで10年間、フエ省知事を勤めた人でもある。「静岡フエ青年交流会館」付属日本語学校での活動を高く評価していた。午後1時過ぎまで懇談は続く。
ーーーーーーー
午後2時。地球の歩き方ツアー(11名)の皆さんと一緒にグエンフエ高校で交流を行う。
1時間ほど、歌の交流、踊りや話し合いを行う。その後、日越がパートナーとなり「シクロ」に乗り、フエ名物の「バインベオ」「バインナム」「バインロック」を食べに行く。
午後4時過ぎ、交流は終了。
投稿者 koyama : 19:44 | コメント (0) | トラックバック
2004年08月30日
地球の歩き方ツアー(10名)活動開始
●A9~11時半 ベトナム事務所で「JASS活動」講演
●12時から地球の歩き方ツアーと昼食
●午後3時、「子どもの家」セン委員長と懇談。「子どもの家」に窃盗団が進入。C棟の屋根を壊し侵入。パソコン教室のパソコンを盗もうとするが、失敗し退散。昨日警察の捜査があったとのこと。
●「子どもの家」では地球の歩き方ツアーのみなさんと子どもたちが楽しく交流。
左(地球の歩き方ツアー講演)
中(昼食、ブンボを食べる)
右(パソコン窃盗団が壊した屋根)
地球の歩き方ツアー(10人)は朝9時から11時半までベトナム事務所で「ストリートチルドレン」「子どもの家」活動などの講演を聴く。
午後、「子どもの家」で子どもたちと交流。参加者は子どもたちとサッカーや折り紙などして交流を楽しむ。
午後3時過ぎ、「子どもの家」でセン委員長と懇談。一昨日の夜、「子どもの家」C棟のパソコン教室の屋根瓦を破って「窃盗」が侵入。パソコンを盗もうとした。何らかの事情で盗みを中断し、逃走。
一昨日、昨日と警察の現場検証があった。
「子どもの家」C棟の屋根瓦は大きく壊されて、このままではC棟全体の部屋が雨漏りとなる。既にセン委員長から日本語教室・パソコン教室の屋根瓦が老朽化し雨が降ると部屋に雨漏りがして、日本語教室の図書やパソコン教室のパソコンが濡れてしまう被害が出ている。9月中旬から雨季に入る。このままでは、C棟2階の各部屋は雨漏りだらけとなる。
早急にC棟の屋根瓦の総取替えをしなかればならない。かなり前からセン委員長より「C棟の屋根瓦の総取替えをして欲しい」との要望が強く出ていた。
投稿者 koyama : 22:05 | コメント (0) | トラックバック
2004年08月29日
大学生協ツアー 農村ホームステー2日目
●午前7時半、朝食「ブンボー」
●村の市場参観
●午前9時、小船を借りて「用水路」で船遊び。
●自由時間
●午前11時半、昼食。
●午後3時半までホームステー先の家庭で交流。
●午後4時過ぎ、フエ市内のホテルへ到着
●午後6時、市内レストランで夕食
●午後8時過ぎフエ空港発の飛行機でホーチミン市へ。
左(朝食はフエ名物「ブンボー」)
中(村の朝市を見学)
右(用水路をゆっくりと舟で散策①)
様々な体験と思い出を残し1日半の農村ホームステーは終わる。
左(舟で用水路を行く②)
中(用水路では子どもたちが泳いでいた)
右(午後4時全員無事にホテルへ帰着)
昨夜、ホームステー先でシャワーを浴びた参加者は4人だった。はやり、日本と違う農村のトイレ、水シャワーには戸惑っているようだった。こうした体験も日本の若者には意義のあることだと思う。本や理屈でアジアやアフリカを知るのも良いが、世界中の61億人の人々の中で「お湯のシャワー」と「きれいなトイレ」を使える人たちは、圧倒的に少数派だということを体験で知ってもらえる良い機会でもある。
今回の農村ホームステーは我がベトナム事務所でも初めての企画であった。参加した若者がベトナム人と寝食を共にすることで、「物の豊かさ」と「人間の幸福感」とは必ずしも比例するものではないことを学んでくれれば有難い。
私も2枚のゴザに4人で寝たのは初めての体験であった。35度、36度という熱暑と高湿度の中でエヤコンなしでの生活をして、私たち日本人の贅沢三昧な生活の一端を実体験で知ったと言ったところであろうか。
ラームさん、サンさん、運転手さんは朝起きると『何もなかったかのよう』に朝食にむかった。「ああ、そうか、ラームさんたちは何も特別ではない日常の夜を過ごした」だけなったのか。今、日本人にエヤコンを止め、水風呂に入れなどという気はない。しかし、世界の圧倒的な多くの人々の日常生活を体験的に知ることは、意味のないことでもないように思えた。
正直、体力の消耗を強く感じた。
7月28日にフエへ戻り今日で丁度1ヶ月。訪問者への対応、9月14日「JASS活動10周年・奨学金贈呈式典」などの諸準備で忙しい毎日をすごしている。
この間、オリンピックがあった。(今日最終日だそうだ)
ベトナムでオリンピックを見ていると日本で見ている時のオリンピックとはかなり状況を異にしている。オリンピックはテレビ放映権の売買で成り立っているようなものである。テレビの放映権を買えるのは、一部の「先進資本主義国」だけである。ベトナムなどは開会式を放映し、後は競技の終了後のビデオの一部を放映しているだけである。国民的な盛り上がりは「ゼロ」と言っても言い過ぎではないと思う。オリンピックの参加は17名。ほとんどは第1回戦で敗退している。
ベトナムでオリンピックを見ているとオリンピックの「商業主義化」の実態を見る思いがする。
202カ国と地域が参加したオリンピックであるが、銅メダルを一つでも取った国は77ヶ国。世界中の三分の一である。世界の3分の2の国はオリンピックには参加してもメダルとは全く縁がないのである。
NHK衛星放送や新聞などでは「国別メダル獲得数」というのが出ている。
オリンピック憲章第1章には、「オリンピック競技大会は、個人種目もしくは団体種目での競技者間の競争であり、国家間の競争ではない」と明記されている。オリンピックは個人の競争なのであり、国別のメダル数を比較したり、ましてや「国威発揚」のために利用されるものではない。ナチスヒトラーが利用し、旧ソ連・東欧諸国が国威発揚に使用したオリンピック。もう一度「オリンピック憲章」の精神に戻るべきではないのか?「オリンピックは参加することに意義がある」と言っていた過去もあった。けしてメダル数競争ではないはずだ。
ドーピング疑惑でハンガリーのハンマー投げ金メダリストが失格。繰り上げ当選で金メダルを獲得した
室伏広治選手が記者会見をした。「繰上げ金メダルを取ってもあまり嬉しくないですね」との記者の質問に、 室伏選手銀メダルの裏に書かれている古代ギリシャ語の詩を読み上げた後、それまで硬かった表情を少し和らげて「金メダルを期待していただくのは本当にうれしい。でも、金メダルよりも重要なものがほかにもたくさんあるんじゃないか。スポーツ、オリンピックを別の角度から見ることができるのでは。(この詩の)真実というのが印象に残った」と切々と語ったそうだ。会見の冒頭、笑顔はなかったそうだが、「本当に大切なのは、メダルへ向けて努力していくことだと、今も思っている」と語ったことは、オリンピックの本質を突いている発言だと思う。「オリンピック憲章」にもあるように、オリンピックは飽くまで「個人」の戦いなのである。個人がどれだけ努力し頑張ったかを評価すべきである。メダルは結果である。結果だけしかみないような「メダル国別表」を紙面に載せているマスコミはもう一度、オリンピックを見直すべきである。
メダルとは無縁な国が三分の二もある事実を知るべきである。最下位になっても頑張っている「メダルに縁のない」彼等(彼女等)の姿をどう評価するのか?
投稿者 koyama : 21:19 | コメント (0) | トラックバック
2004年08月28日
大学生協ツアー、農村ホームスティー
午前9時半からフエ市郊外の純農村「THUY THANH」(トゥーイタイン村)を訪問。1日半の農村ホームスティーをする。9家庭に分宿。
午後12時、農村ホームスティー先で家族と昼食。
午後は民宿先の家族と過ごす。
午後6時から村の青年団との交流。
9つの家庭に別れ一晩を過ごす。水シャワー、エヤコンのない普通の農家での生活を「堪能?」する。
小山、ラーム、サンも宿泊。
左(水郷のようなトゥーイタイン村)
中(青年団と綱引きで交流)
右(サッカーを応援)
村のホーチミン青年団との交流は続く
左(サッカー場で子どもたちと交流)
中(農村ホームステーを楽しむ参加者)
右(村は一面の黄金色)
初体験の「稲刈り実習」を体験
左(稲が見事に実っている)
中(稲刈りを体験)
右(ゴザ2枚に4人で寝る)
THUY THANH村(トゥータイン村)は人口8000人の銃農村。フエ市内から車で20分。
村に入るとあたり一面黄金色(こがねいろ)。丁度稲が実り、収穫の時期を迎えていた。
午前10時過ぎ村に着いたがとにかく蒸し暑い。下着からシャツまで汗まみれ。
大学生協連ツアー参加者15名、添乗員1名。ベトナム事務所から小山、ラーム、サン。
9軒の農家に二人ずつホームステーすることとなった。参加者全員で9軒の農家を訪問。それぞれステー先の農家で一休み。
午前11時30分、昼食。日本の若者が農村の食事を摂ることができるかどうか心配だった。ご飯、スープ、アヒルの玉子焼き、茹でた豚肉など美味しかった。参加者もしっかりと食べていた。
約2時間の休息の後、午後2時過ぎから村の『ホーチミン青年団』の若者と交流。目隠ししてクレーを割る遊び、綱引きなどでひとときを過ごす。
途中でホーチミン青年団の人が、「これから近隣農村対抗サッカー大会がある。トゥーイタイン村の応援に行くが一緒に行かないか?」と誘われる。
青年団と一緒に10キロ先のサッカー場に応援に行く。サッカー場にはそれぞれの村の応援団が集まり、さながらお祭りのような雰囲気。縁日のお店のようなものも出ている。警察官も警備に当たっている。ベトナムではサッカーが最大の娯楽スポーツ。サッカーになるとベトナム人は熱くなる。殴り合いのけんかになることもある。そのために警察官が出動している。と言っても農村のこと。のんびりと観戦。
試合は、というと、最初から準決勝。4チームの参加なのでそうなってしまう。我がトゥーイタイン村は、終始押され気味。相手はユニホームを揃え、靴を履いてる。我が方は全員「はだし」。その上、我が方のゴールキーパーは、ルールを良く知らず、キーパーエリアの外に出てもボールを持っていると言う状態。トゥーイタイン村は「肉弾戦術」「体当たり戦法」で応戦も結局、1-0で敗退。
サッカー応援も終わり、今回ツアーの一つのメーインイベントでもある「稲刈り」に挑戦。農家の方とラームさんから「カマ」の安全な使い方を教えてもらい、一人ずつ、頭を垂れた稲穂を束ね、稲を刈る。しかし、なかなかうまく刈れない。初めて経験する人がほとんどでもあり、貴重な体験となった。
夕食後、午後7時半から村役場の庭で村長さんなど村の幹部ホーチミン青年団との交流会。それぞれ歌を歌いながら、ビールを飲みながら交流を深める。
午後10時近く交流会が終了。
それぞれのホームステー先に帰り、「一宿一飯」のお世話になる。
投稿者 koyama : 23:34 | コメント (0) | トラックバック
2004年08月27日
JASSツアーホーチミン市へ
●午前7時、ホテルを出た「JASS主催ツアー」(9人)はフエ空港へ。小山が見送り、ミン・ベトナム事務所長はホーチミン市まで同行・クーチトンネルなど案内。
●午前中、午後、諸実務の仕事
●大学生協ツアーは午前中市内観光(ラーム)、午後「フエ平和村」(障害児リハビリ施設;もえ子、ハン)
左(JASSツアーフエ空港を出発)
右(翌28日JASSツアー成田着)
JASSツアーは午後10時過ぎ、無事ホーチミン空港(タンソンニャット空港)に入り、帰国の途に着いた。
翌日の8月28日、加藤団長を初め参加者全員が無事成田空港へ到着。様々な思い出を胸に家へ戻る。
加藤団長さん・山田さん・参加者の皆さんお疲れ様でした。
投稿者 koyama : 17:32 | コメント (0) | トラックバック
2004年08月26日
JASSツアーナムドン山岳少数民族と交流
午前10時、JASSツアー(9人)はナムドン山岳地帯へ。カトゥー族との交流。
午後7時、JASSツアーは今日が最終日。ベトナム事務所とお別れ晩餐会。
左(少数民族交流 加藤団長挨拶)
中(JASSツアー日本の歌を披露)
右(民族衣装をもらうJASS参加者)
JASSツアーの若者、カトゥー族の子どもたちと交流
左(カトゥー族の子どもたち交流1)
中(カトゥー族子どもたちと交流2)
右(参加者全員で記念撮影)
今朝3時頃から下痢と腹痛。
疲れで消化機能が弱まっているからなのか?
JASSツアー参加の9人(中学生1人、高校生5人、大学生1人、引率2名)は非常に元気。
今日も朝8時からトゥードゥック帝廟参観。午前10時から午後5時20分までナムドン山岳民族と交流。
午後7時から晩餐会と強行日程をこなしている。
例年よりも今年の参加者は食事をしっかりと摂る。
これは立派なことである。蒸し暑く、日本食と違う食事をするのはそれなりに努力の要るところ。ツアー参加の中高校生は頑張っている。
昨日からインンターネット回線の調子が悪く、写真をアップできない。プロバイダーの容量が少ないのが原因のようである。
投稿者 koyama : 19:37 | コメント (0) | トラックバック
2004年08月25日
全国大学生協連ツアー(16人)フエ空港到着
●午前7時、トンチンカンを出てフエ空港へ。午前8時40分、「全国大学生協連ツアー」がフエ空港到着。サンさんと出迎え。
●午前9時30分、フエ名物米うどん「ブンボー」を食べる。辛い。
●午前10時、「子どもの家」訪問交流。
●午前11時、小山講演
●午前12時、生協連ツアーと昼食。
●午後2時半、「子どもの家」でセン委員長、ミンさん、ソン君、ホアン君と「ソン君の訪日」打ち合わせ
●午後4時、JASSツアー、子どもたちと交流。果物を食べる。
●午後4時半。「静岡フエ青年交流会館」付属日本語学校2階で大学生協連ツアーがベトナム語講座を受講。
●午後7時、全教ツアーとお別れ晩餐会
左(大学生協連ツアー:フエ空港にて)
中(大学生協「ブンボー」を食べる)
右(大学生協「子どもの家」で交流)
大学生協ツアーは「子どもの家」へ。
左(大学生協ツアー 小山講演)
中(SON君訪日を協議)
右(JASSツアー子どもたちと果物)
ベトナム事務所は各種ツアーの案内で大忙し。
左(JASSツアー果物を食べる②)
中(大学生協ツアー、ベトナム語を学ぶ)
右(全教千葉ツアー、最終日の夕食会)
今日は今年の夏の最大の山場。3つのツアーが重なり、ベトナム事務所員全員が分担して3つのツアーの案内をする。
①全教千葉ツアーは、ナムドン山岳少数民族との交流へ。(もえ子、ラーム)
②JASSツアーは、午前中は「フエ平和村」で障害児の リハビリセンターを訪問し、交流・体験。午後、「子どもの家」で子どもたちと果物を食べたりの交流。(ミン、ハン)
③大学生協連ツアー(小山、サン)
ベトナム語講座(文子、サン、フーン)
④「静岡フエ青年交流会館」付属日本語学校での教育(原、フーン、松下)
ベトナム事務所員の誰がどこで何をしているのかが段々分からなくなってきた。ベトナム事務所員全員が相当疲れていることも事実。
しかし、ベトナム人が中心となっているベトナム事務所がこうして「ボランティア体験ツアー」を受け入れることで、「子どもの家」の子どもたちの体験・経験も増やし、夏休みにアクセントをつけることになる。同時にツアーのコーディネトをすることで多少だがコーディネート料を頂き、子どもたちの生活費に充当している。こうした活動をコツコツと積み上げつことにより、『現地の自立』というJASSの方針を実現することができるのである。
セン「子どもの家」委員長と懇談。
内容は「ソン君」の訪日。センさんも訪日に賛成。
11月1日位から11月20日位に間に「子どもの家」卒業生で、今年の7月に「フエ高等師範大学」コンピュータ学科を卒業したソン君が訪日する。
11月14日東京で行われる「子どもの家」創立10周年記念式典に参加。札幌、茨城、静岡、京都での「10周年記念集会」にも参加の予定。
投稿者 koyama : 22:07 | コメント (0) | トラックバック
2004年08月24日
JASSツアーハイバーチュン中・高校で交流会
●午前中、2日間の受信メール(64通)チェック。16通の返信。
●午後2時半、JASSツアー(9人は)ハイバーチュン中・高校で高校生と交流
●午後5時、「子どもの家」で全教ツアーの皆さんと記念写真
●午後6時、JASSツアーと「精進料理」の夕食
●午後7時半からJASSツアーと「子どもの家」日本語クラスを参観・交流
●午後8時半、フォンザンホテルでJASSツアー団長と懇談。
左(ハイバーチュン中・高校交流①)
中(同②)
右(同③)
JASSツアーは加藤健司さんが団長、山田さんが記録係りをしながら引率している。
左(ハイバーチュン中・高校④)
中(団長の加藤さん)
右(記録の山田さん)
夕方、全教ツアーが交流している「子どもの家」へ。
左(全教ツアーの皆さんと記念写真)
中(JASSツアーは精進料理の夕食)
右(JASSツア日本語クラスで交流)
投稿者 koyama : 23:54 | コメント (0) | トラックバック
2004年08月23日
西山優子先生帰国
●午前7時、2年8ヶ月「子どもの家」の日本語クラスで日本語を教えた西山優子さんが帰国。
●午前9時半、JASSツアー講演。
●午後12時、JASSツアーと昼食
●午後2時半、全教千葉ツアーとフールー小学校訪問。
●午後7時、全教千葉ツアー、フールー小学校教職員と夕食
●午後8時、「静岡フエ青年交流会館」付属日本語学校参観。
左(優子と見送りのベトナム事務所員)
中(優子とJASSツアー渡辺君)
右(優子とラームさん)
JASSツアー参加の中・高生・若者に活動を話す。
左(優子と松下さん)
中(優子と坂本文子さん)
右(JASSツアー参加者に講演)
全教千葉の先生方とフールー小学校を訪問。教職員との懇談
左(JASSツアー昼食会)
中(フールー小学校との懇談)
右(フールー小学校と全教千葉)
全教の先生方は「静岡フエ青年交流会館」付属日本語学校を参観
左(全教の先生とフールー小学校夕食会)
中(日本語学校参観1)
右(日本語学校参観2)
ベトナム事務所で2年8ヶ月仕事をした西山優子さんが今日帰国した。「子どもの家」の日本語クラスや「静岡フエ青年交流会館」付属日本語学校で日本語を教え、ベトナム事務所活動も手伝ってくれた。
早いものである。もう3年近く経ってしまった。
大学を卒業して直ぐに「子どもの家」へやってきたのだが・・・・。
今後は千葉大学の大学院での勉強が待っている。ベトナム事務所での体験・経験を生かして学問研究を進めていって欲しい。西山優子さんの健康と今後の発展を期待したい。長い間、ご苦労様でした。
7月28日フエに戻り約1ヶ月。毎日忙しく生活している。特に8月15日から9月15日までの1ヶ月間に15のツアー、そして個人の訪問者がある。
これらの人々は皆「子どもの家」への関心を強く持ち、「子どもの家」やストリートチルドレン、障害児への支援を行ったり考えたりしている人々ある。
私たちJASSはこうした支援者や関心のある人々に積極的に私たちの現地での活動を「公開」し、理解を深めてもらっている。
また、これらの訪問者の圧倒的多数は若者である。
閉塞感のある日本で自分の生きる道、生き方を模索している若者でもある。JASSのフエでのボランティアの実際をみてもらい、これらの若者に人生を考えてもらう一助になってもらえればありがたい。
そうした気持ちで訪問ツアーを受け入れている。
この間の日記にある活動は私の活動の軌跡であるが、ベトナム事務所員の皆さん全員がそれぞれの部署で訪問者が安心し「心に残る」訪問ツアーにあるよう努力している。
とは言ってもベトナム事務所員は既に体力の限界に近づきつつある。
福田副代表とバオミン・ベトナム事務所長の協議で当初のツアー案内担当者数を一部減らし、ベトナム事務所員の負担を軽減する措置を取った。
今日はJASSツアーと全教千葉ツアーが来ているが、明日からは上記2ツアーに加え、全国大学生協連ツアー(15名)がフエに来る。25日、26日と2日間は3つのツアーの案内などのお世話をする。大学生協ツアーはその後5日間。大学生協ツアーと入れ替わりに「地球の歩き方ツアー」(10名)が9月4日まで1週間、9月5日から静岡市国際交流協会ツアー(10名)が9月9日まで5日。
その間に個人でボランティア体験をしたいという大学生を中心とした若者も数多くいる。
JASSのフエでの活動は日本社会にも何らかの貢献をしていると自負している。
夏休み真っ最中の「子どもの家」の子どもたちは、訪問者との交流や遊びを楽しんでいる。3ヶ月の夏休み。宿題など一切ない「子どもの家」の子どもたちに取っては、訪問する日本人ツアーとの交流も人間成長の一番面でもある。
投稿者 koyama : 23:59 | コメント (0) | トラックバック
2004年08月22日
京滋YOUの会帰国/JASSツアー・全教千葉ツアー到着/西山優子さん送別会
●午後12時過ぎ、京滋YOUの会ツアーの皆さんがフエ空港からホーチミン市へ。今夜と明日の夜に分かれて帰国。
●JASSツアー(9人)がフエ空港到着
●全教千葉(12人)がフエ到着
●2年8ヶ月「子どもの家」の日本語教師をした西山優子さんが退任。夜9時から送別会
左(京滋YOUの会帰国:フエ空港)
中(京滋YOUの会帰国)
右(JASSツアー昼食ブンボー)
JASSツアーの皆さんも元気に活動
左(JASSツアー夕食会)
中(誕生日の女子高2年生のお祝い)
右(全国教職員組合千葉の学習会講師)
午後9時過ぎから西山優子さんの送別会。8月23日朝、帰国。
左(西山優子さん送別会1)
中(西山優子さん送別会2)
右(文子・ミン・原)
西山優子さん送別会は午後11時まで続く
左(松下・もえ子・太平観光グーさん)
中(優子に記念品贈呈)
右(西山優子さん最後の授業)
投稿者 koyama : 17:21 | コメント (0) | トラックバック
2004年08月21日
神奈川県青少年協会ツアー帰国
●午前11時、神奈川県青少年協会ツアー(20人)が「ハンマーホテル」を出発し帰国した。
●午後7時から京滋YOUの会ツアー(28人)とベトナム事務所員との夕食交流会
左(JASSツアー成田発)
中(神奈川県青少年協会ツアー帰国)
右(フエ空港にて)
京滋YOUの会最終日
左(紫野ローターアオトより寄金)
中(アオザイの皆さんとサン先生)
右(中村会長と参加者)
神奈川県青少年協会ツアーは、5日間のフエ滞在日程を無事終わり帰国した。
5日間で「子どもの家」での昼食つくり、交流、「子どもの家」で駐輪場建築ボランティア、ナムドン山岳少数民族との交流、グエンフエ高校生との交流など様々な取り組みをし、体験をし帰国した。参加した中学生から大学生までの若者の皆さんが、フエ滞在で何かを掴んでもらえれば嬉しい。アジア、ベトナムがただ貧しい国とのワンパターンな理解でなく、実際に自分の目で見、体験した現実のベトナム社会から何を学んだのか? 豊かさとは何か、人間の幸福とは何か、物の豊かさが人間の幸せなのか? など様々な問題を考える契機になれば幸いである。
夕方7時過ぎから京滋YOUの会(26人)の皆さんとベトナム事務所員との夕食交流会がフォンザンホテル3階のホアマイレストランで行われた。京滋YOUの会には中学生から60代の方まで幅広い層の皆さんが参加。特に20歳前後の若い女性が多く参加した。
席上、ローターアクト紫野代表から支援金を頂く。
午後10時近くまで京滋YOUの会の皆さんとベトナム事務所員との交流が続く。ビール70本。交流の深さが良く分かる。
その後、18人の『有志』が外に出て更に交流を続ける。ベトナム事務所側は小山、もえ子、ミン、サンが参加。交流は延々と続き午前12時頃終了。
投稿者 koyama : 19:57 | コメント (0) | トラックバック
2004年08月20日
京滋YOUの会 ナムドン山岳地帯へ
京滋YOUの会(28人)は朝からナムドン郡へ。少数民族(カトゥー族)との交流。
左(ナムドン中心街で昼食)
中(カトゥー族の少女から歓迎の花束)
右(カトゥー族の子どもたちの踊り)
ナムドン郡カトゥー族と交流
左(日本の踊りを一緒に踊る)
中(日本の歌を歌う)
右(多くの村人が集まる)
投稿者 koyama : 23:36 | コメント (0) | トラックバック
2004年08月19日
京滋YOUの会フエ到着(26人)
午前8時、ベトナム事務所員全員会議。
9月14日「JASS活動10周年記念・奨学金贈呈式典」の最終打ち合わせ。日程、諸分担を話し合う。
午後3時、京滋YOUの会ツアー(26人)がフエ空港着。小山、ラーム、三津川で出迎え。フオンザンホテルへ。午後5時半、ツアーの希望者で「フォーサイゴン」へ夕食。
午後8時、4人でフエの「生ビール」を飲みに行く。帰宅午後10時過ぎ。
左(ベトナム事務所員会議)
中(京滋YOUの会ツアーフエ到着)
右(フォーサイゴンで夕食)
投稿者 koyama : 23:56 | コメント (0) | トラックバック
2004年08月18日
グエンフエ高校で交流
午前9時。神奈川県青少年協会ツアーは、グエンフエ高校で高校生との交流を行う。
左(グエンフエ高校副校長歓迎挨拶)
中(神奈川ツアー団長挨拶)
右(グエンフエ高校歓迎の歌)
3つのグループに別れ日越交流
左(神奈川県ツアー答礼の歌)
中(グループ別話し合い)
右(体育館で「達磨さんころんだ」)
神奈川県ツアーは20人。中学生123年生、高校生、大学生など日本の若者とベトナムの高校生との交流は大変意義深いものであった。一人一人の人間としての付き合い・交流が「日越交流」の基礎となる。
ベトナム事務所からは、ラームさん、小山、ハン、サンが付き添う。
グエンフエ高校高校はトゥアティエンフエ省(人口100万人)のトップ校である。これは私が言っているのではなくトゥアティエンフエ省教育委員会が決めているのである。今年のフエの高校入試は、中学校の成績で決めている。つまり、高校入試そのものはなかったのである。トゥアティエンフエ省立高校は中学の成績の平均点で高い順にグエンフエ高校、ハイバーチュン高校、ヤーホイ高校・・・・・・と順番が決まっている。
さて、日越青年交流に戻る。ベトナムの学校は現在夏休みであるが副校長先生をはじめ、20名以上の高校生が登校、交流に参加した。
初めにグエンフエ高校副校長先生の歓迎の言葉。
続いて、神奈川ツアーの団長さんの挨拶。両国代表のみやげ物交換が行われた。
グエンフエ高校側が歓迎の歌を歌う。日本側も歌のお返し。ふるさと、アジアン・ドリームなど。
両国の若者は、日越日越と交互に座り、英語などを活用して自己紹介。その後、若者たちの関心のある問題などを話し合う。
最後に3つのグループに分かれて、交流を深める。
第1のグループは、会議室で学校紹介などの話し合い。第2グループは、別の教室でゲームをして遊ぶ。第3グループは体育館で「達磨さんが転んだ」をして遊ぶ。
3時間ほどの交流を終わり、別れを惜しみつつグエンフエ高校を後にする。
午後12時過ぎ、アンフーレストランで昼食。暑い中、フエ名物の「鍋物」を食べる。
昼食時、席を一緒にした中学生のツアー参加者がこの火炎樹日記を日本で読んでいるとの話を聞き、意を強くする。毎日300通の日記アクセスの中には、こうして私の全く知らない若者が読んでいてくれるのだと思うと、頑張ってかかねばならない。
日記の改善の努力(出来るだけ写真を多く・・・)も必要。
午後1時半過ぎに部屋に戻る。若干の昼寝。その後、メールへの返事。9月14日「JASS活動10周年記念・奨学金贈呈式典」用のプログラムの表紙裏に記載する「JASS活動10年の歩み」の原稿を書く。
いくつかの原稿等のチェック。
夕方、「地球の歩き方」シニアボランティアー体験ツアーHP用の原稿を書く。
夜9時40分、ベトナムテレビで「静岡フエ青年交流会館」付属日本語学校の様子を放映。私のインタビュー、福田副代表の授業の様子、生徒の授業風景などを放映。JASS・「静岡フエ青年交流会館」付属日本語学校が、トゥアティエンフエ省・ベトナム中部の観光産業のレベルアップのために積極貢献していることを紹介。
34通のメール受信。8通のメール返事。
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2004年08月17日
神奈川県青少年協会ツアー/ターオちゃん(4歳)入所
昨夜、遅く「ハンマーホテル」(バオミン・ベトナム事務所長がオーナー)に到着した神奈川県件少年協会ツアー(20人)は今日1日、様々な活動を行った。
昨日、「子どもの家」に4歳の女児(ターオちゃん)が入所してきた。
左(ベトナム事務所員紹介)
中(セン「子どもの家」委員長歓迎挨拶)
右(小山講演)
今日、4歳のターオちゃんが「子どもの家」に入所した。かなり緊張し、寂しそうな様子だった。
左(「子どもの家」駐輪場建設)
中(ターオちゃんと小山)
右(初めて昼食を食べるターオちゃん)
午前8時、「ハンマーホテル」にベトナム事務所員全員が集合。バオミン・ベトナム事務所長の紹介で全員が自己紹介を行う。
午前8時半、ツアー参加者は「子どもの家」へ。
セン「子どもの家」委員長の歓迎の挨拶。
優子・SON君(「子どもの家」卒業生。ベトナム事務所見習い予定)の案内で「子どもの家」の諸施設を参観・視察。
午前9時から午前10時まで私が『「子どもの家」創立10年の活動から得たもの』というテーマで1時間ほど話をする。
午前10時から午前11時半まで身体を使ったボランティア体験。「子どもの家」の裏庭に自転車置き場を作る作業を行う。暑い中、砂を運び、セメントと砂利をこねる仕事を行う。皆さんは相当疲れたようである。
ターオちゃんという4歳の女児が今日入所してきた。両親は行方不明。2歳の妹と祖母(60歳)の家に引き取られていたが、祖母も生活苦で面倒がみられず、「子どもの家」入所を希望していた。ターオちゃんは新しい環境に慣れずにいる。誰も知らない、初めて来た「子どもの家」。今まで一緒にいた祖母、妹とも離れたった一人で入所してきた。
『孤独』と『寂しさ』と必死に闘っているターオちゃんの様子が良く分かる。こうして、寂しさと闘い、じっと我慢し「耐える」ことも、今は可愛そうに思えるが、きっとターオちゃんの将来に何らかの役に立つのではないのかと思う。苦しさや悲しさを体験し、耐えることも人生を知り、人を知ることに繋がるように思えてならない。新しい里親が決まり、今後、ターオちゃんがすくすくと成長してくれることを祈る。
午後11時半に「子どもの家」を出て、昼食。
私、ミン・ラームさんの同行。フエの料理は美味しいと参加者は食事を摂る。
神奈川県青少年協会ツアーは、神奈川県教育委員会の指導で、青少年に海外でのボランティアを体験させるという教育活動の一環として行われている。
20人の参加者は3倍ほどの応募者の中から論文と面接で選考された中学生から高校・大学生、若者を中心としたツアーである。それぞれの若者が「問題意識」を持ってツアーに参加している。
昼食後、1時間ほど休憩し、午後2時過ぎから「子どもの家」で子どもたちと文化交流を行う。
午後3時過ぎ、東京の太平観光会長の北垣さんから電話。9月14日「JASS活動10周年・奨学金贈呈式典」へ9人ほどのツアーを組んで参加するとの連絡があった。今後、更に呼びかけて参加者を増やしたいとのこと。
ホーチミン市に来ているNGO活動家の川崎陽子さんから電話。
午後5時、東京の内田征子さんから電話。東京は夕方雨になったとのこと。
フエのプロバイダーの容量が少ないのか、インターネットが繋がらない。繋がっても写真をアップすることが出来ない。インターネットを使わない夜中の午前2時から午前5時位にやっと火炎樹日記に写真をアップできるのが現状である。
東京では光ファイバーを使っているので火炎樹日記を書き、写真をアップするのも30分ほどで終わる。ベトナムでは日記を書き上げ写真を載せるのにいつも数時間かかる。これもお国柄の違いではある。毎日300通のアクセスがある。こんな日記でも読んで戴く方がいるというのは嬉しいことである。できるだけ「手抜き」をせずに毎日日記を書くつもりでいる。
投稿者 koyama : 19:31 | コメント (0) | トラックバック
2004年08月16日
ベトナム中央テレビ取材
●午前9時、14年前の教え子である手島守君が突然ベトナム事務所にやって来た。
●午前9時半、タイ・バンコク日本人学校の中川さん、田中さん、小林さんがベトナム事務所訪問
●午前10時、フエでベトナム語を勉強している学生さんがベトナム事務所を訪問
●午後2時半、ベトナム中央テレビの取材
●午後3時半、第1回「JASS10周年記念式典」実行委員会
●午後7時45分、フエ空港に「神奈川県青少年協会」ツアーを出迎え。
左(14年前の教え子手島君と)
中(バンコク日本人学校中川さんたち)
右(ベトナム中央テレビ取材)
ベトナム中央テレビの取材があった。
左(福田副代表の授業を取材)
中(小山へのインタビュー)
右(神奈川県青少年協会ツアー20人)
手島君は私が1988年から5年間勤めた板橋区立舟渡小学校で4年生の時に教えた生徒である。今は、コンピュータ会社の社長をしている。1997年頃、大学を卒業する直前にしばらくベトナム事務所に仕事を手伝いに来てくれた。その時、私にパソコンの使い方などを懇切丁寧に教えてくれた教え子でもある。今回は、手島君の会社でアルバイトとしてコンピュータの仕事をしている東工大生(コンピュータの勉強をしている)ベトナム人と一緒にやってきた。
タイ・バンコクの日本語学校の中川先生は、JASS静岡の会代表の山崎先生(静岡大学教育学部教授)の教え子。現在はバンコクの日本人学校の先生をしている。今日は、同僚の先生方と「子どもの家」の参観に来た。
午後2時半。ベトナム中央テレビ(ハノイ)の取材があった。「静岡フエ青年交流会館」付属日本語学校の取材である。今日は、福田副代表が観光コースの日本語ガイドクラスを教えた。授業の様子、学生へのインタビュー、私のインタビューなどがあった。8月18日午後8時からの全国放送で放映される。また、翌日の午前11時からも再放送される。
「静岡フエ青年交流会館」付属日本語学校はベトナム中部で最大の日本語学校である。
午後3時半から「JASS活動10周年・奨学金贈呈式典」の実行委員会を開催した。小山、福田、ミン、ラーム、ハン、サン。
9月14日、王宮内劇場で開催される。350人の参加を見込んでいる。既に60人近くの日本人の参加も見込まれ、フエ省知事、フエ市長、教育長などトゥアティエンフエ省(100万人)の関係者が参加する盛大な式典となる。
●当日の日程の確認
※司会 ベトナム事務所(男性)、外務部(女性)
①主催者挨拶(小山)
②フエ省知事(または、教育長)挨拶
③フエ市長(教育長挨拶)
④フエ大学学長挨拶
⑤奨学金贈呈者(日本人)挨拶
⑥奨学金贈呈式
⑦奨学生謝辞
⑧セン「子どもの家」委員長挨拶
閉会
●9月14日、夜、フエ市人民委員会主催「レセプション」日程確認
●当日の任務分担
●会計問題
午後7時半、神奈川県青少年協会主催のボランティア体験ツアーがフエ空港に着く予定であったが、遅れる。7時45分頃着。途中、「ファーサイゴン」で夕食を摂る(フォーやワンタンメンなど)。午後9時50分頃、ハンマーホテル着。
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2004年08月15日
アジア・太平洋戦争終結59周年
午前9時、フエ中央病院小児科のフオン医長の訪問を受ける。
午後5時、国際ソロプチミスト京都ー西山の会長さんより電話。9月14日の「JASS活動10周年・奨学金贈呈式典」に7人の会員の方が参加されるとのこと。
午後6時、ニエン外務部長宅へ招待される。当面の諸問題を協議する。その後、娘さんのフランス留学壮行会の祝宴をする。
左(フオン・フエ中央病院小児科医長)
中(ニエン氏と懇談・会食)
右(ニエン氏の娘さん仏留学壮行会)
アジア・太平洋戦争終結59周年。
NHK衛星放送で小泉首相の「全国戦没者追悼式典」での挨拶を聞いた。歴代の首相が述べていた「我が国は戦後、平和(主義)を国是としてきた」との表現は、小泉首相の挨拶から削除された。憲法9条改悪が頭の中にあるからなのだろう。
戦後59年たっても日本は今だにこの「アジア・太平洋戦争」のしっかりとした総括をしていない。
全てが「曖昧なまま」59年間が過ぎてしまった。
●戦争の責任者は誰なのか? 極東軍事裁判のA級戦犯だった東条英樹、岸信介、賀屋興宣などだけが、戦争の責任者なのか? 天皇の戦争責任、戦争を積極的に推進した国民の戦争責任はないのか、国民はただ受身の犠牲者だったのか?(この点は「私たちは戦争が好きだった」(本島等、森村誠一、柴野徹夫著:朝日文庫に詳しい)
●今日の「全国戦没者追悼式」も310万人の日本人犠牲者の追悼だけを行っている。「アジア・太平洋戦争」でなくなった1000万人とも2000万人とも言われるアジア・太平洋の人々への追悼の気持ちと式典はしてこなかった。
広島・長崎の被爆者69万人の1割に当たる約7万人が朝鮮民族の人々である。
「唯一の被爆国日本」と言うが、実際には、7万人の朝鮮民族、アメリカ人の捕虜なども含まれていた。広島・長崎で被爆した7万人にも上る朝鮮民族の人々は1990年まで被爆の補償すらなされなかったのである。
●戦争被害者であると同時に加害者でもある日本人についての深い国民的な洞察と論議が曖昧なまま59年が過ぎてしまった。
●石原都知事、亀井善之農水相、中川昭一経済産業相、小野清子国家公安委員長の3閣僚は8月15日午前、東京・九段北の靖国神社を参拝した。
憲法9条があり、自衛隊がある日本。全てが曖昧なまま過ぎてきた。
日本国憲法全文には「 日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起こることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。」と明記されている。戦争は政府がするものである。石原都知事は「私人か公人か聞くなど馬鹿なことだ。人間は色々な面を持っている」と述べている。問答無用の姿勢である。
日本国憲法第二十条【信教の自由、国の宗教活動の禁止】
1 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
2 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
3 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。
憲法第20条を素直に読めば、閣僚が特定の宗教団体(神道)を支援することは許されない。
憲法第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1
日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2
前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
上記憲法第9条を読めば、自衛隊が憲法違反の存在であることは明らか。
憲法20条の国と宗教の関係、戦争放棄、戦力をもたない、交戦権を認めないとした憲法と自衛隊との関係などを「曖昧なまま」にして59年間が過ぎてしまった。もちろん、政治の責任が一番大きいのではあるが、同時にこうした政治と政治家を放置し、曖昧なままで59年間を過ごしてきた国民の責任も大きなものがある。
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2004年08月14日
RO君退所式ーベトナム事務所員ランコー海岸へ
午前8時半、「子どもの家」でRO君(17歳)の退所式を行う。
午前10時、ベトナム事務所員全員でダナン近くのランコービーチに行く。
左(RO君退所式)
中(LOC寮長退所決定書朗読)
右(RO君母親退所決定書署名)
引き続きRO君退所式
左(RO君退所を確認)
中(全員で記念撮影)
右(夏休み中の子どもたちは昼食作り)
いよいよランコービーチでの海産物食べ放題
左(ランコービーチでの会食風景)
中(エビのニンニク入り唐揚げ)
右(取れたてのイカの釜ゆで)
引き続きランコービーチ
左(ハマグリの炭火焼)
中(ベトナム事務所員海産物を楽しむ)
右(ランコービーチで遊ぶ)
LE VAN RO君(17歳)は1995年に「子どもの家」へ入所。母親(現在44歳)は夫が病死。RO君と双子のRI君を抱え生活が出来なくなり、双子を祖父母に預け、ラオス国境で賄い婦として仕事を始める。祖父母もRO君兄弟の面倒がみられず、「子どもの家」へ連れてくる。そんな事情で9年前に「子どもの家」へ入所し、今日に到る。現在、母親は別の男性との間に4歳の男児がいる。
RO君は鉄の窓枠つくりの仕事をしている。「子どもの家」から通いでお店へ行っている。既に給料ももらっているので、退所することを決定。
(SEN委員長)
長い間、日本人の支援で今日まで育つことが出来た。日本人とJASSに感謝の気持ちを持ってもらいたい。RO君は「子どもの家」で中学校を卒業することが出来た。また、窓枠つくりの職業訓練をすることが出来、自立できるようになった。お母さんに言いたい。今後は、家でRO君の教育と自立の面倒を見て欲しい。それが、母親の仕事である。
(母親)
9年間、RO君の面倒をみてもらい、感謝している。RO、RIの父親が亡くなり、私は生活が出来なくなった。仕方なく、ラオス国境で仕事をし、二人の子どもは祖父母に預けた。祖父母からRO君たちが「子どもの家」に入所した話しは聞いたが、この9年間、「子どもの家」に一度も来なかったことを謝りたい。また、JASSと日本人、SEN委員長、スタッフに感謝したい。皆さんのお陰でROは、自立することが来た。これからは自分が家に引き取り、仕事をするようにしっかりと見て行きたい。窓枠の仕事で月給30万ドン(3000円)もらえる。今後、更に努力させたい。
(小山)
RO君は9年間、「子どもの家」で生活した。私がこの「子どもの家」を作った時、最初に入所してきた子どもたちの一人だ。多くのベトナム人スタッフの力、日本の里親の協力で大きくなれたことに感謝の気持ちを持って欲しい。これから、自分のことだけでなく、母親と4歳の異父弟の生活のことも考えて、しっかりと仕事をするようにして欲しい。母親はこの9年間苦労している。RO君は母親の苦労を考え、今後は、母親の生活の面倒もみると言う気持ちを持って欲しい。
こうしてRO君は9年間の「子どもの家」での生活を終え、「自立」して行った。
私たちも9年間の支援を回想し、JASSのストリートチルドレン支援の活動がけして間違ったものではなかった事を改めて確認したのである。
今、私の関心は『支援」ではない。「子どもたちの自立」である。
子どもたちの自立には、手間とヒマと愛情と子どもたちへの強い期待が必要である。可愛そうだからという気持ちからの「甘やかし」はいけない。子どもたちに愛情をもつからこそ、人間としての自立へ向けての厳しい要求も出すのである。
午前10時、ベトナム事務所員全員がトンチンカンホテルへ集合。(小山、もえ子、優子、文子、原、松下、ラーム、ミン、サン、フーン、三津川、水本)
1時間半でトゥアティエンフエ省の最南端のランコービーチに到着。ここは、海岸で取れる新鮮な海産物を食べさせる所で有名である。
7月末から1日も休みがなく過ごしてきた。これは、ベトナム事務所員全員である。明後日(8月16日)からいよいと14のツアーがやってくる。これから約1ヶ月間、休みのない「闘い」に入る。今日は、つかの間の休暇と休養を取った。
早速、一軒のお店に入るり、冷えたビール、清涼飲料水で以下のような新鮮な海産物を食べる。
●エビのニンニク入りから揚げ。
●取れたてのイカの釜茹で(醤油とワサビ付き)
●ハマグリの塩茹で
●ハマグリの炭火焼き
●茹で豚肉のエビ・魚の塩辛付け
●インスタントラーメンの焼きそば
★若干の冷えた地ビール
昼食後、ビーチに行き、海で泳ぐ人、私のようにビーチで昼寝するなど2時間ほど過ごす。
午後5時近くトンチンカンホテルへ戻る。私はほとんどの時間、寝ていた。
午後5時頃、トンチンカンホテルへ帰る。夕食は摂らず。
明日の日曜日も2つの会合がある。
午後9時半から10時45分まで『停電』。75分間の停電中、漆黒の闇の中で一人静かに部屋で停電攻撃を受け入れる。同時にエヤコンも止まる。かなりきつきものあり。午後10時45分、停電解除。不当な停電に厳重抗議し「ビール3本」を飲む。美味しい。
今朝、ベトナムTVでアテネオリンピック開会式を見る。「生命と人間、そして宇宙」がテーマになっているように感じられる開会式であった。芸術性が高く、社会の成熟度を感じる。日本でこうした開会式の演出ができるか考えてしまう。
Aのアルゼンチンの次にベトナムの入場となる。ギリシャのアルファベットはどんな順番なっているのか? ベトナムTVの開会式の中継は実に素晴らしいものだった。ほとんど「解説」がないという意味で。静かな開会式典を堪能。ベトナムではNHK衛星放送でのオリンピック中継を見ることが出来ない。NHKがどんな中継をしたかは分からないが、有働何某という「おちゃらけアナウンサー」がお祭り騒ぎをしたのではないか、雰囲気に合わない「大騒ぎ中継」をしたのではないかと憂慮する。ベトナムTVの抑制された(意識しかどうかは不明だが)中継は素晴らしかった。
柔道は男子60キロ級の野村忠宏(ミキハウス)が、五輪柔道では前人未到の3連覇を成し遂げ金メダル。女子48キロ級でも、谷亮子(トヨタ自動車)が、すべての競技を通じて日本女子としては初の2連覇を飾り金メダル。 素晴らしいことである。異常なプレシャーの中での優勝を祝福したい。
投稿者 koyama : 22:53 | コメント (0) | トラックバック
2004年08月13日
ベトナム事務所員の写真を撮る
午前9時、ボランティア貯金完了報告書用のベトナム事務所員写真を撮る。
午後、機関誌の原稿を書く。
「幸福不感症」(曽野綾子著:小学館文庫)読了。
午後4時半、トンチンカンホテル→ベトナム事務所→ドンバ市場→トンチンカンホテルをウオーキング。(40分)
現在、2つの雑誌に1年間寄稿している。
日本教育公務員弘済会機関誌「きょうこう通信」、
アトピー友の会機関誌「あとぴナビ」。
毎月、「きょうこう通信」(1000字)、「あとぴナビ」(800字)。それぞれ写真数枚。
字数だけ聞けばたいした数字でもないので引き受けた。しかし、原稿を書き初めて見て、直ぐに締め切りがきてしまうことが分かった。
8月から9月中旬まで10以上のツアーが来る。
このまま行けば到底締め切りまでに原稿を書き入れない。
今日は、急いで10月分までの原稿を書く。
私は結構好んで二人のおばさんの本を読んでいる。
佐藤愛子と曽野綾子である。佐藤愛子の「血脈」やセッセー集など面白い。二人とは政治的な立場は異なるが、言っていることの大筋は、筋が通って同感することが多い。
「幸福不感症」は曽野綾子の体験を通して「海外支援」「国際協力」について書いたエッセー集である。
曽野綾子は言う。『日本人の中には人道的な目的のお金は正しく使われる、という子供のような幻想を抱いている人が多い。・・・・貧しい人や病気の人の金を盗み得る人は、その国の権力者である。大統領、首相、閣僚、議員、官吏、軍人、警察官、教会の神父や牧師、教師、ケースワーカー。・・』『黙って頂ければ、政府高官、軍の有力者などが、かならず取ってしまって私腹を肥やす種にするだけだろう。こういう推測は援助の世界の常識で、それを防ぐ厳密な手立てをしない限り、どこの国に援助しても、泥棒に追い銭になる』
私がベトナムで11年間海外支援をして到達した地点が、正に曽野綾子の言っていることなのである。
私の回りでストリートチルドレン、障害児を支援している多くの方々が未だにこうした『海外支援』の現実についての理解が非常に弱いことに歯がゆい思いをすることが多い。
私がこの間、ベトナムで闘ったものは、貧困ではなく、正に曽野綾子の言う『貧しい人や病気の人の金を盗み得る人は、その国の権力者である。大統領、首相、閣僚、議員、官吏、軍人、警察官、教会の神父や牧師、教師、ケースワーカー・・・』
、貧困につけ込み、甘い汁を吸う権力者たちの醜態であった。共産主義者と自称する権力者もその例外ではなかった。曽野綾子を反共主義者とレッテルを貼るのは簡単だが、曽野綾子の主張は正論である。曽野綾子が「海外邦人宣教者活動援助後援会」を組織し、長年の海外支援の具体的な体験・経験を通しての意見であり説得力がある。
球界の紳士を自称していた札束球団オーナー「ナベツネ」(渡辺恒雄)が辞任した。明治大学の一場靖弘選手に大金を渡したという。学生野球憲章に違反したと言う。ナベツネの行為は、およそスポーツとは縁遠い行為であり「お金で全てを解決する手法」の破綻である。
ナベツネは卑怯だ。非公式なインタビューでは言いたいこと(選手会長の古田に身分をわきまえろ・・)を言っているが、いざ、辞任するとなったら人前に出ない。正々堂々と辞任の記者会見をすることすら出来ない。球団代表などにコメントを読ませるようでは「球界の紳士」の実態が何であったかが分かると言うものである。
プロ野球1リーグを強行しようとした金権路線の破綻でもある。この種の人間に野球を左右されるような現行システムこそ問題だったのである。ナベツネの金権体質路線が正に破産したのである。
この際、近鉄は、我が火炎樹日記のプロバイダーでもある「LIVEDOOR」に球団を売却してみたらどうなのだろうか? 案外、面白い球団運営をするのではないだろうか? 既成12球団の「ギルド体質」を打破し、新しい風を吹かせるべきである。
ナベツネ辞任はこうした既成ギルド体制が崩壊したことを意味する。
沖縄国際大学の敷地にアメリカ海兵隊のヘリコプターが墜落したとのこと。数年前に私はこの「沖縄国際大学」で講演会をしたことがる。こうした事故が起こると、日本が独立国家ではないこと、アメリカの属国であることが分かる。
投稿者 koyama : 21:26 | コメント (0) | トラックバック
2004年08月12日
日本事務所全員会議開催(12人)
午前8時半から日本事務所全員会議。8月・9月のツアー受け入れ計画討議
午後1時、中野亜里先生見送りに行くが行き違い。
午後2時半、「子どもの家」セン委員長と諸問題の懇談。
午後7時、「静岡フエ青年交流会館」付属日本語学校参観。原先生、フーン先生の授業。
左(日本事務所全員会議)
中(セン委員長と懇談・小山・ミン)
右(「子どもの家」訪問者子どもたち)
午後7時、「静岡フエ青年交流会館」では原先生・フーン先生の日本語教育が行われていた。
左(新しいキーボードとドゥオック)
中(1階で授業をする原先生)
右(2階で授業をするフーン先生)
午前8時半からベトナム事務所全員会議。日本人7人、ベトナム人5人、合計12人。8月16日から9月15日までに1ヶ月に以下のツアーを受け入れる。
①8月16日~21日 神奈川県少年団(20人)
②8月19日~22日 京滋YOUの会(28名)
③8月22日~27日 JASS子どもツアー(9名)
④8月22日~26日 全教千葉ツアー(12名)
⑤8月25日~29日 全国大学生協連ツアー(16名)
⑥8月16日 静岡大学ツアー(3名)
⑦8月17日 大学生(1名)
⑧8月20日 大学生(3名)
⑨8月21日 早稲田大学(1名)
⑩8月27日 富山YMCAツアー(10名)
⑪8月29日~9月4日地球の歩き方ツアー(10名)
12 9月5日~9月9日静岡市国際交流協会(10名)
⑬9月10日~14日 早稲田大学「JAN」(10名)
●9月14日「JASS活動10周年・奨学金贈呈式典」
5日~6日間のツアーは毎日様々な活動を行う。「子どもの家」での交流会、障害児 リハビリセンター体験、少数民族訪問、フエの学校との交流。
ベトナム事務所員全員がそれぞれのツアーの付き添い・案内人としての担当を決めた。
最大1日に3つのツアーが重なることもある。ベトナム事務所員全員が分担。ツアー参加者の心に何かが残るものにしたい。たくさんのツアーの訪問を受けるが、「子どもの家」の子どもたちやベトナム人スタッフに負担がかからないよう、受け入れ方を工夫している。約2時間の討論・打ち合わせを終わる。
午後1時、バオミン・ベトナム事務所長がオーナーをしている「ハンマーホテル」に中野先生を見送りに行くが行き違いとなる。
午後2時半、「子どもの家」でSEN委員長と懇談。ミン・ベトナム事務所も同行。午後5時まで。
①「子どもの家」卒業生のSON君の今後の進路について意見交換し、合意に達する。9月よりベトナム事務所員として「仮採用」。同時に「子どもの家」でパソコンの指導を行う。(週1回程度)。
SON君は「子どもの家」に9年間在籍し、「フエ高等師範大学」コンピュータ学科を卒業した。
②大学受験の3人の結果について。8月16日に結果がでるが、その結果を受けて、その後どうするのか、その準備をすることにした。
③フォンザンホテルの厨房で仕事をしているTHUYさんのIDを作る件
④児童保護委員会の問題について
⑤T女の問題について(1週間ほど「子どもの家」から姿を消した
⑥R君の退所の件(8月14日A8:30退所式)
⑦T君の退所の件
⑧入所希望者の調査を実施し、早急に入所させる
「子どもの家」には日本から来た大学生が子どもたちと交流していた。
午後6時から夕食。
午後7時、「静岡フエ青年交流会館」付属日本語学校参観。1階では中級1・2クラスを原先生が、2階では日本語ガイドコースをフーン先生が教えていた。
午前中2時間、午後2時間半。合計4時間半の話し合いをして芯から疲れた。
7月25日京都講演会以来今日まで1日も休みがない。
日程表を見ると、9月12日の日曜日まで休みがないことが分かった。連続50日間。うーん・・・?。
昔「ドレイ工場」という映画があったっけ・・。
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2004年08月11日
フエ農林大学と懇談
午前9時、フエ農林大学を訪問。
午前10時半、「子どもの家」卒業生NHIさんと懇談。
午後4時、中野亜里先生とHさん懇談。
午後6時。中野亜里先生とLさん懇談
午後8時半 「子どもの家」卒業生のTHUYさんと懇談
左(フエ農林大学副学長たちと)
中(「子どもの家」卒業生NHIさん)
右(ヒエウ君の母親と芳村さん写真)
フォンザンホテル厨房勤務のTHUYさんが、中野先生とのお別れにやって来た。
(中野先生・THUYさん・小山)
昨夕、フエ市・共産党・警察幹部と「痛飲」。今朝は頭痛。
午前9時、フエ農林大学を訪問。目的は奨学金の贈呈の件。夏休み中ではあるが、副学長のPHAN HOA先生が応対してくれた。フエ農林大学はベトナムで4番目に大きな農業大学。ハノイに第1、第2の二つ農業大があり、ホーチミンに一つ。そして、フエ農林大学は4番目の大学だそうだ。フエ農林大はベトナム中部で唯一つの農業大学。学生は3000人。在職で短期間学ぶ学生が2500人。合計5500人の学生・毎年900人の入学があるそうだ。学部は
農学部、林学部、水産学部、獣医学部、飼育学部など。入学希望者は毎年15%増で増えている。ベトナムの人口の80%は農民。学生の多く農民の子弟である。農民の平均年収は3万円から4万円程度。
フエ農林大学の学生の多くは貧しい家庭の子弟でもある。
今回は25人の学生に毎月10万ドン(1000円)の奨学金を贈呈することとした。
午前10時半、ベトナム事務所で「子どもの家」卒業生のNHIさんと懇談。NHI(ニー)さんは現在23歳。1995年、「子どもの家」ができた時から「子どもの家」に入所。「子どもの家」で初めての大学生であった。フエ科学大学英文科に入学。4年間の修学後、2004年6月に卒業。現在、英語を使っての仕事を探しているが中々見つからないとのこと。
フエで2社ほど応募したが、失敗。現在、ホーチミン市、ホイアンなどの観光会社などに応募しているが、未だに返事がないとのこと。ベトナム事務所としても何とか就職口を見つけるよう努力すると話す。
午後4時、中野先生とHさんとの懇談(ベトナム事務所)。
午後5時、帯広の支援者芳村加奈子さんが支援しているHIEU(ヒエウ)君のお母さんがベトナム事務所へやってくる。ヒエン君1(16歳)は出産2日後に「へその緒」から感染し、手足が麻痺してしまう。諸般の事情があり母子で市立美術館の倉庫で暮らしていたい。7年前に私たちが支援を開始。帯広の芳村加奈子さんが里親となる。当時既に9歳になっていたヒエウ君であるが、家庭の生活が困難なために学校へいけなかった。支援を開始し
午後6時、中野先生とLさんと夕食を摂りながらの懇談。ベトナムの様々な問題を話し合う。
午後9時、自宅着。
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2004年08月10日
2004年6月・7月帰国行動 ベトナム語恩師中野先生懇談ーフエ省・市幹部懇親
午前中、もえ子と今後の様々な問題について話し合う。
午後3時半、我が「正調」ベトナム語の恩師である中野亜里先生とハンマーホテル(ミン・ベトナム長オーナー)で懇談。その後、中野先生が長年応援していたTHUYさんがフォンザンホテルの厨房で仕事をしている様子を視察。
午後4時ベトナム事務所訪問のスエーデンの医科大学生と1時間ほど懇談。
午後6時、フエ省、フエ市の共産党・行政・警察各部との懇親。
左(スエーデン医学生懇談)
中(中野先生とトゥーイさん)
右(フエ市幹部壮行会小山挨拶)
フエ市幹部には、組織部長、共産党幹部には組織部長、規律部長、警察幹部には外国人管理副部長など、日頃あまり表に出ない「裏方幹部」が多く含まれている。実際にはこれらの人たちが行政、共産党、警察内での実権を握っている。これらの付き合いもストリートチルドレンを守るために必要なことである。
(フエ市幹部一同)
2004年6月から7月日本へ帰国した。
以下帰国の行動である。
小山2004年6月~7月帰国日程
6/09 (水)~18(金)家族休暇
19(土)A11:45国際ソロプチミスト東京- 東 例会(30人)
20(日)A10~P4 日本事務所会議
21(月)講演会休
22(火)P6:30森田・加藤さんツアー打ち合わせ
23(水)京都府立鴨沂高校講演会 PM1:00~3:00(160人)
24(木)学習院大学「海外ボランティア入門」講師 PM7:00~8:30(15人)
25(金)A9 テレビ取材門田様(池袋滝沢)
P6:30熊谷氏懇談
26(土)
27(日)P2:10神奈川県青少年協会講演会 白楽駅(20人)
28(月)講演会休
29(火)P7「東急セミナ-BE」講演会(15人)
30(水)
7/ 1 (木) P3横浜市立大道中学家庭学級講演会(30人)
2(金)P2「地球の歩き方ツアー」打ち合わせNSビル
P4 高校支援者懇談
3(土)(体調崩す)
4(日)P2栃木県小山市「ジャムジャム」講演会(35人)
5(月)講演会休
6(火)講演会休 通院
7(水)
8(木)A11「外務大臣表彰」受賞式(六本木外務省飯倉公館)
P1テレビディレクター懇談
9(金)10:30藤田栄 静岡駅新幹線出口
P2静岡の中学校講演会(280人)
P4静岡大学学長懇談
夕方静岡の会(泊)
10(土)静岡→東京 P5高校クラス会
11(日)P12内田さん(4人組)懇談会
12(月)P12国際ソロプチミスト東京ー東有志懇談
13(火)午後 静岡県伊東市立中学校講演会(300人)
14(水)P6 木田・中村先生懇談(十条)
15(木)羽田→札幌
16(金)A9 国際ソロプチミスト帯広みどり(30人)
午後4時、芳村さん懇談
17(土)P1札幌講演会(市民自治を創る会)(60人)
18(日)札幌
19(月)講演会休 札幌
20(火)札幌
21(水)札幌
22(木)P4札幌VO懇談会
23(金)札幌→東京
24(土)
25(日)P1:30京都国際センタ-「東南アジア講座」講演会(120人)
26(月)午前中「神川さん」懇談 午後京都発→東京 P4山武支援要請
27(火)A9榊原クリニック通院 P2「地球の歩き方シニアボランティアツアー」説明会
P5支援者懇談
28(水)A10成田発 P7:30フエ着
講演会 14回
参加者 1095人
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2004年08月09日
「日越交流委員会」開催ー長崎被爆59周年
午前中、「子どもの家」創設時から入所し、8月一杯で「フエ高等師範大学」を卒業するSON君と今後の進路を話し合う。
午後4時、フエ市人民委員会外務部にて「日越交流委員会」を開く。
左(SON君と進路の打ち合わせ)
中(「日越交流委員会」)
右(ニエン・セン・ホアンの各氏)
SON君は1995年から今日まで「子どもの家」で生活し、小中学校の教員養成大学である「フエ高等師範大学」コンピュータ学科をこの8月で卒業する。2004年9月からどのような進路を考えているのか、SON君、ミン・ベトナム事務所長と話し合う。
SON君は父親が突然の交通事故で亡くなり、9年前、「子どもの家」が出来た時、弟と一緒に入所してきた。実家では、母親(50歳)が不定期な食事つくりのアルバイトで弟(15歳)、妹(14歳)と生活している。近所で結婚式や法事があると呼ばれ、食事つくりの手伝いをして何がしかの手当てをもらっている。平均すると月収20万ドン(3000円)位である。家族3人で3000円の収入では、到底生活していけない。最低ぎりぎりの生活をしていることが想像できる。
SON君は「出来たらベトナム事務所に雇ってもらい、ストリートチルドレン支援の手伝いをしたい。大学で勉強したコンピュータを子どもの家に後輩に教えたい」「自分の力で仕事をして、田舎にいつ母親や弟・妹を助けたい」との強い希望を持っていた。
この11年間、ストリートチルドレン支援の活動をして私が一番夢見ていたことは、「子どもの家」の卒業生をベトナム事務所で雇い、「子どもの家」の卒業生が「子どもの家」の後輩を指導するということであった。11年の歳月はけして無駄ではなかった。こうしてSON君が見事に大学を卒業し、ベトナム事務所の手伝い、そして「子どもの家」でコンピュータを教えたいと言って来たことは、私たちの現地での粘り強い活動への最大の子どもたちからのプレゼントである。
早速、JASSの役員会(代表、副代表、日越事務所長:小山・山西・柴田・福田・ミン・寒河江)に提案したい。SON君の希望が実現し、ベトナム事務所や「子どもの家」がベトナム人の力で自立できるような方向で。
午後4時から「日越交流委員会」を開く。これは長年の取り組みの結果、今年になって正式に発足した委員会である。「日越交流委員会」が出来るまでは、「子どもの家」、「静岡フエ青年交流会館」、オートバイ研修センターなどは、JASSとフエ市人民委員会との共同運営となっていた。フエ市人民委員会は中々複雑な組織である。色々な人たちがいる。中には、「子どもの家」などJASSの諸施設を「手にいれ、金儲けに使おう」などと考える不届きな連中もいないわけではない。JASSが支援しているお金は一度フエ市人民委員会財政部に納入されるシステムであった。財政部は一度納入されたお金は、中々支出しない。「子どもの家」で緊急に必要な時もお金をもらうために様々な手続きと書類が必要な硬直した官僚社会主義システムの中にあった。こうした様々な問題を解決するために、フエ市人民委員会の条例を改正し、最終的にはトゥアティエンフエ省知事の承認を受けて、「日越交流委員会」が発足したわけである。「日越交流委員会」発足に反対する勢力も根強く、5年間ほどの粘り強い努力の結果、今年になって正式に「日越交流委員会」が発足した。
「日越交流委員会」は、「子どもの家」、「静岡フエ青年交流会館」、オートバイ研修センターの3組織の人事、財政、方針など全ての事項を「専決」できる組織である。フエ市人民委員会、共産党からも相対的に独立した組織である。
ニエン氏を委員長に私が副委員長、フエ師範大時代恩教え子のホアン、セン「子どもの家」委員長が委員である。上記、3組織のスタッフ採用も「日越交流委員会」で出来るようになった。「日越交流委員会」は事実上、JASSと同じである。今後、現地の自立に向けて活動を進めるにあたり、バオミンさんを中心にベトナム事務所が、3組織を自由に運営することが出来る「橋頭堡」を得たのである。
今日は、JASSから支援金を直接「子どもの家」で使用する件、人事の件、「静岡フエ青年交流会館」と隣のフエ市文化会館との境界の線引きの問題などを話し合った。「日越交流委員会」はフエ市人民委員会と同等の力を持っている。体外的にも独自の意思表明をする力を持ち、独自の財政運営をすることもできる。
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2004年08月08日
PHAN DANG LUU 高校へ
今日は日曜日。
午前8時40分、ラームさん、ミンさんと待ち合わせをし、「PHAN DANG LUU 高校」へ。奨学金の打ち合わせ。
左(ファン・ダン・ルー高門前)
中(校長と2人の副校長)
右(校長と懇談:小山、ミン・ラーム)
大阪の志村隆夫氏(株式会社シムラ 代表取締役)より奨学金贈呈の申し入れがあり、今日、「ファン・ダン・ルー高校」へ行き、打ち合わせを行った。志村社長は「本当に困っている学生・生徒に奨学金を贈呈式呈したい」との希望があり、フエで本当に困った生徒の多い、フエ郊外の高校を選んだ。
「ファン・ダン・ルー高校」はフエ市郊外の純農村の高校。現在、64クラス。1学年20クラス以上となる「超マンモス校」。私たち団塊の世代ですら高校は12クラス位だった。
生徒数3000人。先生だけで134人。その他のスタッフも入れると150人もの教職員を擁している。授業は2部授業。(午前組と午後組に分け、学校を2回使っている)
保護者の職業は90%が農民、10%は漁民。ホーチミン市やハノイ市のような都会型の高校でなく、典型的な地方農村型の高校である。
3000人の生徒のうち約3分の1の1000人は「貧困層」に属すると校長先生は言っていた。
今日は日曜日であるが、MY(ミー)校長先生、LAP(ラップ)副校長先生など3人の管理職が対応してくれた。
この高校では、9月の新学年の始まりに年間授業料を徴収するそうだが、授業料が払えず、年末になって何とか支払う生徒が1000人もいるそうだ。授業料は高校1年生で54000ドン(540円)、高校2年生90000万ドン(900円)、
高校3年生で135000ドン(1350円)である。農民・漁民の生活がいかに困難なものであるかは、年間1000円程度の授業料を支払えない生徒が1000人もいることで分かる。
フエ市内のコックホック高校などは、共産党幹部の子弟、「上流階級の子弟」が多数入学している。
私たちも10人程度の奨学金を贈呈しているが、海外ボランティア団体などフエの実情を知らない人たちは、競ってコックホック高校(ベトナムに3つしかない国立高校であるエリート高校)に奨学金を集中している。「無知」とは怖いものである。
実際には、それほど困っていないコックコック高校に海外から奨学金が集中し、ある意味で「豊かな生徒」に奨学金が渡っているのが実情である。奨学金を贈呈している海外の支援団体は「ベトナムの貧しい高校生に奨学金を贈呈し、支援している」と思っているが、現実と支援者の思いの乖離の大きさにいつも「辟易」している。
私はフエやベトナムの実情を良く知っている。11年間、現地に住むと言うことは、それなりに現地の実情と実態を知るものである。
現在350人ほど奨学金を贈呈しているが、実際に困っている生徒の多い学校へ「特化」して贈呈している。
大阪の志村隆夫社長からの奨学金贈呈の条件は、
①生活が本当に困難な生徒 ②成績優秀な生徒。
共産党の子弟や一部の特権階級の子弟で「家庭の履歴が良い」ということは基準にしないよう校長先生にお願いした。実際にベトナムでは、家庭の「履歴」が良い(親や親戚が解放戦線で闘った家庭)子弟に優先的に奨学金を上げることが多い。
「ファン・ダン・ルー高校」は89%の生徒が卒業している。コックホック高校は100%。
大学進学者は10%。(昨年度は、フエ医科大に2人、フエ師範大に25人入学)。専門学校などを含めると45%の卒業生が進学している。
約1時間程懇談し、学校を後にする。
夕立あり。夕方、少し涼しくなる。
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2004年08月07日
きょうこう通信(10月・11月)原稿を書くー立秋
朝食を作ってくれるPHUONGさんから「今日からTHU:秋ですよ」と言われ、「立秋」を知る。
今日から「残暑お見舞い申し上げます」となるのか? パソコンの「単語・用語登録」に「ざ」を打ち込み「残暑お見舞い申し上げます。」と入れる。月日の流れるのは早いものである。1日猛暑。
今日は1日部屋にいる。日本教育公務員弘済会機関誌「きょうこう通信」の10月、11月号の原稿を書く。1ヶ月分:2000字、合計4000字。
「アトピー友の会」機関誌「あとぴナビ」11月号原稿(1000字)。
朝8時半から「シエスタ」(昼寝)を挟んで1日中原稿書きで終わる。
「マスコミかジャーナリズムか」(本多勝一著:朝日文庫)読了。
現在のマスコミ(商業マスコミ)がいかに堕落し、体制の提灯持ちと化したかを繰り返し検証する。安部公房・本田靖春・筑紫哲也・本多勝一の対談「ノンフィクションの今」は興味深い。
安部公房はノンフィクションは小説の延長であるといい、参加者はも同意している。ルポルタージュとの対比でノンフィクションを考えていることに興味を感じる。本多氏出身の朝日新聞の腐敗堕落を痛烈に批判。一読の書。
午後4時半から40分ウオーキング。高温・多湿だが身体には1日1回は多汗の経験が必要。
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2004年08月06日
59回目の広島被爆の日ーナムドン山岳少数民族訪問交流
フエの周りは2000メートル級の山岳地帯があり、29年前のベトナム戦争中「ホーチミンルート」として活用されていた。
左(自然豊かなナムドン山岳地帯)
中(山奥の滝へ)
右(滝で子どもたちと出会う)
村人の歓迎を受ける
左(村の入口で子どもたちの歓迎)
中(子どもたちの歓迎の踊り)
右(大人の歓迎の踊り)
オランダのNGOが寄贈した新築「集会所」で開所式が行われた。
左(新築の集会所)
中(新物資を贈呈)
右(訪問記念に村特製の蜂蜜をもらう)
集会所でカトゥー族の皆さんと文化交流
左(一緒に踊りを踊る)
中(カトゥー族手製のご馳走を頂く)
右(カトゥー族の子どもたち)
ナムドンツアーで出会った3人の美少女
右(カトゥー族の女の子)
中(山奥の滝で物思いにふける美人)
右(山中で出会った色白な美人)
これらの山岳には、ベト族(キン族とも言う。ベトナムの主流民族。90%)に追われ山岳に逃げ込んだ多くの少数民族が生活している。
今日は、ナムドン郡(1998年から4年間、JICA障害児支援を実施)にある11の村の一つ「THUONG LO村)を地球の歩き方ツアーの皆さんと訪問した。
「THUONG LO 村」は戸数150。人口800人程度の村である。今日は、オランダのNGOがこの村の発展のために民族の集会所を寄贈し、その開所式の日である。地球の歩き方ツアーは、この村に来る初めての外国人であり、開所式も地球の歩き方ツアーに合わせて行われた。ツアーは、地球の歩き方参加7人、私、優子、文子、ラームの11人。
午前11時半頃、ナムドン郡庁近くのレストランに到着。昼食を取る。午後12時半頃から「THUONG LO 村」にある滝を参観。
午後1時半からいよいよ民族集会所開所式に参加。
ほどんど村人全員が参加し、私たちの到着を村の入り口で出迎えてくれる。民族衣装と音楽で。
開所式は、集会所の中で行われた。ナムドン郡共産党委員長、ナムドン郡長、副群長、トゥアティエンフエ省観光副局長、ナムドン病院院長、オランダNGO代表などが参加。
共産党委員長の挨拶、村長挨拶、オランダNGO代表挨拶があり、日本人を代表して私が挨拶。
その後、村人が歓迎のカトゥー族の踊りを披露してくれる。初めに小学生くらいの男女の踊り、続いて幼稚園児位の幼児の踊り、そして大人の男女の踊りと、次々にカトゥー族の伝統の踊りが披露された。
しばらくすると、集会所で歓迎の大宴会が始まる。もち米で作った酒。トリ、豚肉の料理、様々な果物、さとうきびで出来た筒の中にもち米を入れて炊いた料理など・・・・・。
村の長老の方をはじめ、多くの村人の皆さんは、既に宴会で盛り上がっている。私たちの車座では、カトゥー族の女性が歌を歌ってくれたが、その曲が「ほたるの光」だった。カトゥー語で聞いた「ほたるの光」は、初めて出会う人を歓迎する「出会い」の歌として、カトゥー族では歌われていた。お返しに日本語で「ほたるの光」を歌う。
別れを惜しみながら午後4時半に村を出て、午後6時、フエへ戻る。
午後7時から、地球の歩き方ツアーの最後の晩餐会を行う。
今日は1945年8月6日に広島市に落とされた人類への犯罪である原爆投下59周年に当たる。
朝6時(ベトナム時間)からNHK衛星放送で「広島原爆式典」が放映された。
「ことば」とは「ことだま」とも言うらしい。人間の心を表すものでもある。今日の原爆式典での挨拶を聞いていると、心を打たない言葉の羅列を声に出すだけの挨拶があった。
小泉首相の挨拶は、役人が書いた文書をただ声にしただけの、人の心を全く打たないものであった。国会の役人答弁と同じトーンの挨拶であった。
小学校6年生の挨拶も同様であった。これも子どもたちの声ではない。教育委員会の役人かどこかの先生が書いた「大人の言葉」である。子どもたちは、大人の書いた「大人のことば」をただ読まされただけである。この種のことばは、本当に無味乾燥、人の心を打たない。
せっかくの挨拶である。小泉首相も「子ども代表」の子どもたちも、「自分の言葉で自分の思い」を語るべきである。
それに引き替え秋葉広島市長の言葉は例年「格調が高く」自分の頭で考え、自分の言葉で語っている。人の心を打つ挨拶であった。
例年の8月15日の敗戦記念日、広島長崎の原爆記念日の挨拶などを聞くと、平和、平和のことばの羅列が目立つ。敗戦も原爆も過去の出来事として語られるだけである。
「温故知新」。過去を語る意味は、現在を知るためである。何故、広島を語るのか、何故原爆を語るのか? 私たちは敗戦、広島・長崎を思い起こし、学ぶことで「今」を知るべきなのである。
秋葉広島市長の挨拶が格調が高いと言った。秋葉市長は、広島の原爆を語ることを通して、今を語ったからこそ、私たちの心を打ったのである。
秋葉市長は、アメリカの「先制攻撃論」「戦争政策」を厳しく批判し、アメリカのイラク侵略を批判した。立派である。平和、平和と叫んでも、今、私たちの目の前で平和を脅かしている現実に目をつぶっていては、平和を叫ぶ意味がない。秋葉市長は、広島の惨事をイラクで起こしてはならない。アメリカの先制攻撃論がいかに世界の平和の脅威になっているのかを語った。
小泉首相は「平和」という言葉は口にしても、けしてブッシュ大統領のイラク侵略、アメリカの国際法違反、国連無視の「先制攻撃論」には、一切触れることは出来ない。首相の言葉に重みがなく、人の心を打たない所以である。
昨日、NHK衛星放送で「クローズアップ現代」を見た。大江健三郎が広島から「被爆体験を語ること」について語っていた。戦争体験、被爆体験が「風化」しているという。若者は戦争・原爆の体験を受け止めることが出来なくなっているという。
大江健三郎は「祈ること」が体験を伝えることになると言っていた。
「体験を伝える」ことがいかに難しいかは、私も感じているところである。
私がフエに来てたった11年間である。こんな短い期間であるが、既にこの間の私の体験ですら「風化」しつつある。新しくベトナム事務所に来た人にとっては、私やラームさんが、フエの政治風土の中でいかに孤立し、孤独の中で闘い、今日の「子どもの家」や各施設を作ってきたかは、想像外のことである。立派な「子どもの家」が出来ていることが当たり前のことなのかも知れない。
人の体験を伝え、理解してもらうと言うことの大変さが分かる気がする。59年前の「恐ろしい出来事」を人に使えることが、どんなに難しいかは想像できることである。
「体験を伝える」ことは難しい。受ける人が、いかに「想像力」を持っているかにかかっている。想像する「感性」が磨かれている人には「体験」が伝わっていく。自分が体験していなくても、人間は「想像する力」を持っている。今、必要なことは「想像力」「考える力」を磨くことである。
「相手の立場、相手の置かれている状況」を想像するところから、ボランティアも出発する。
貧困、ストリートチルドレン、障害児など、自分自身がそうした立場にあったらどうか、という想像するところから、ボランティアや国際支援、国際援助は出発する。私の出会う国際機関と称する「大手」の公的機関の人々の中には、こうした「想像力」の欠如した人間がいかに多いかを実感する。
ストリートチルドレンや障害児、貧困で苦しんでいる人々に共感の気持ちを持つことすら出来ず、「機械的」「行政的」「官僚的」な処理・応対・対応をする人を見かける。人間の感性の退廃を感ずる。
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2004年08月05日
「2003年度ボランティア貯金完了報告書」作成
終日、「2003年度ボランティア貯金完了報告書」作成に時間を費やす。
夕方、ベトナム事務所経由でドンバ市場へウオーキング。1時間。フエの気温36度。今後、1週間の予報では最高気温は36度とのこと。
2003年度は郵政公社のボランティア貯金から300万円程度の交付金を頂いた。2004年6月31日で期間が終了。8月中に300万円の交付金をどうのように使用し、どのような効果があったのか、現地ではどのような評価を受けているのか、など多岐にわたる項目について報告書を書き提出する。
ボランティア貯金に拠出している国民の皆さんの貴重な浄財から成り立っている「ボランティア貯金交付金」である。2003年7月1日~2004年6月30日までの1年間に「申請書」通りに有効・正確・適切に使用したとの報告書を具体的な事例を挙げて書いた。
1日かかる。
数ヶ月前からフォン川は常時茶色に染まっている。
理由は上流の山岳地帯から多量の土砂が流され、下流のフォン川は茶色に染まってしまった。
上流の山岳地帯は1960年代には「ホーチミンルート」として、北ベトナム~軍事物資、軍隊などが搬入された所。最近になってベトナム軍は「ホーチミンルート」を観光に使おうと、再開発している。
かつての「ホーチミンルート」は木に覆われた狭い山道だった。現在、ベトナム軍は「ホーチミンルート」を拡げ、外国人などの観光が出来るように山の木を切り、土砂を掘っている。「ホーチミンルート」を観光化するために多量の土砂がフォン川の上流から流されている。ベトナムで唯一と言われている清流であるフォン川も今は昔の面影はない。「濁流」と化してしまった。このまま行くとフォン川だけでなくベトナム中部の生態が大きく変わってしまうことは明らかである。漁業や農業などにも大きな影響を与えることになる。
ベトナムの「近代化」路線=「ドイモイ政策」の正体見たりと言った所である。環境保全は政府や特定政党から相対的に独立した大衆組織、ボランティア団体などの監視がなければ、中々難しい。この国では政府や軍隊の政策・方針を批判することは不可能に近い。何とからなないものなのか・・・。
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2004年08月04日
忙しい一日だった。テレビ取材、フエ空港、「子どもの家」、日本語学校
1日中の熱暑。湿度も高い。外にいるだけでふらふらする。
朝9時から「子どもの家」でトゥアティエンフエ省テレビ局の取材を受ける。テレビでJASS「子どもの家」の諸活動を紹介するとのこと。
午後12時半、内田さん、高橋さんが帰国。ミンさん、京都の水本さんとフエ空港へ見送り。
左(トゥアティエンフエ省テレビ局取材)
中(内田・高橋さん帰国。フエ空港へ)
右(地球の歩き方ツアー絵画教室)
地球の歩き方ツアーの皆さんは「子どもの家」で子どもたちと文化活動(絵画、音楽、日本語クラス)を楽しんだ。
午後5時から7時まで「静岡フエ青年交流会館」付属日本語学校では午後5時から7時まで観光コース「レセプション・レストラン」クラス。もえ子先生、サン先生が指導。
左(オルガンを楽しむ)
中(日本語クラスでカルタとり)
右(レストラン・レセプションクラス)
午後7時から午後9時。「静岡フエ青年交流会館」付属日本語学校授業。
(観光コース:日本語ガイドクラス)
昨日はフエテレビ、今日はトゥアティエンフエ省テレビの取材。こうしてJASS活動がベトナムのテレビで報道されることはありがたいことである。
JASSの活動の実態をフエの市民に知ってもらい、日越友好を一層促進したい。
午後12時過ぎ、内田さん・高橋さんが日本へ帰国。フエ空港へお見送り。お二人とも元気にフエを後にした。「タンタン温泉」での水遊び、ベーベキュー大会を寄贈。口で言うのは誰でも出来るが、8年近くも毎年の寄贈は誰でも出来るものではない。改めてお礼申し上げたい。
午後1時過ぎ、トンチンカンホテルへ。午後1時40分、地球の歩き方ツアーを出向かえにトゥオンホアホテルへ。ハンさん、サンさん、松下さんと。
「子どもの家」で「子どもの家」と一緒に文化活動をする。絵画教室、音楽教室、日本語教室。午後5時まで7人のツアー参加者は子どもたちと交流する。
午後6時夕食。午後6時40分。「静岡フエ青年交流会館」付属日本語学校へ。もえ子先生が観光コースの「レセプション・レセプション」の生徒40人近くに日本語を教えていた。京都の水本さんも。
午後7時終了。午後7時から1階では、中級3クラス。文子先生、優子先生が指導。2階では観光コース(日本語ガイドクラス)。フーン先生が指導。
「静岡フエ青年交流会館」付属日本語学校では、総計150人の生徒が6ヶ月コース、2年コースに分かれて学習している。日本語学校参観後、市内をオートバイで散策。夜になって涼しくなったので、多くの市民がオートバイや自転車で市内を走り回っていた。
今日は1日朝早くから夜遅くまで活動が一杯の日程であった。少々、疲れた。
ベトナム事務所の皆さんも体調を崩す人も出てきた。皆さんの健康を祈るのみである。
投稿者 koyama : 22:24 | コメント (0) | トラックバック
2004年08月03日
地球の歩き方ツアー、ハイバーチュン高校生と交流
●フエに帰って今日で丁度1週間。暑い。今日は特に暑かった。午前8時30分から地球の歩き方ボランティア体験ツアーの皆さん(7人)とハイバーチュン高校生(10人)との交流のお世話。午後12時半まで外にいたが、暑さと湿気で体が動かなくなった。
●午前9時半から10時までフエテレビの取材。
内容はフエの治安警察が私を指名して「フエに11年間住んだ外国人として、安全に住めて良かった」という話をして欲しいとのこと。要望通りの話しをする。
左(ハイバーチュン高校生と交流)
中(日越交流)
右(シクロで市内散策)
フエ名物の「バインベオ」「バインロック」を食べる。
左(バインベオを食べる)
中(フエ警察とフエテレビの取材)
右(内田・高橋さん、最後の晩餐会)
地球の歩き方ツアーには7人が参加。愛媛県、大阪、千葉など各地から。大学生が中心であるが、社会人も数人いる。男性も1名。
今日は、フエの名門高校であるハイバーチュン高校の生徒と交流した。午前8時半、「静岡フエ青年交流会館」に到着。ハイバーチュン高校からも「ホーチミン共産青年団」担当の先生と一緒に10人の女子高生がアオザイ姿で登場。アオザイで来るということは、「公式」な訪問を意味する。
話は多少それるが、私が日本へ帰っている間にベトナム事務所関係者のベトナム人の結婚式があった。もちろんベトナム人女性は公式の服装である「アオザイ」を着用して出席したそうだが、日本から来た海外青年協力隊の女性は浴衣で出席したそうだ。アオザイも民族衣装だから、日本を紹介するつもりで「浴衣」出席となったのであろうが、私など、浴衣は基本的には「パジャマ」だと思っている。少なくとも公式な場で着用する服装ではない。ベトナム人がアオザイという日本で言えば「留袖」(とめそで)にあたる盛装で出席しているのに、日本の若者は夏の軽装である浴衣で出席。「無知」とは悲しいものである。海外青年協力隊の若者に聞きたい。あなたは、日本の友人の結婚式に浴衣で出席しますか? 日本で出来ないことをベトナムでしてはいけない。ベトナムの男性は基本的にはスーツにネクタイ、女性はアオザイという盛装で結婚式には出席している。6月にハノイでベトナム政府から「友好勲章」をもらった。副大統領のホアさんはアオザイで出席し、勲章授与を行った。その国にいったらその国の「常識」程度の知識は持ち合わせなければ、海外青年協力隊の仕事など出来ないはずである。因みに我がベトナム事務所の日越スタッフは男性はスーツ、ネクタイ、女性はきちんとして洋装の盛装で出席している。こうした我がスタッフの姿勢こそ、相手の国の皆さんに私たち日本人の「礼儀正しい」姿勢が伝わるというものである。ベトナム人は浴衣がどんな意味の服用かを知らないからどうでもいいというものではない。
私たちは、ベトナム人に対し、常に盛装の心で臨む、誠心誠意を持って臨むという気持ちが必要である。結婚式はベトナム青年に取っては人生でただ一度の最大の儀式である。大事な儀式に出席させてもらうという気持ちが必要である。そうした中から「友好」という言葉と気持ちが出てくるものである。適当に「おちゃらけて」の付き合いは、相手にも直ぐにわかってしまうものである。人間同士の付き合いは、相手に対して「敬意」と「誠意」を持って臨まなければならない。
さて、日越青年交流は、ペアーとなり話が進む。話は英語。名前、住所、学校、専攻、流行っていることなど多岐にわたる話題を話す。
2時間程話し合った後、ペアーで「シクロ」(自転車人力車)に乗り、フエ市内を廻った後、フエ伝統料理店へ。「バインベオ」「バインロック」などキャッサバや米で作ったお菓子を食べながら、また、話し合う。
午後2時から午後5時までボランティア完了報告書原案作成。
午後5時から40分間、ドンバ市場まで散歩。暑い中の散歩ではあるが、夕方、少し涼しい風が吹いていた。
午後6時から夕食。内田さん、高橋さんは今日で最後のフエ滞在となる。ベトナム事務所関係の8人の日本人が一同に会しトンチンカンホテルで夕食。
午後7時半から「モーリンサイゴンホテル」で内田さん、高橋さん、もえ子、優子と懇談。
投稿者 koyama : 19:08 | コメント (0) | トラックバック
2004年08月02日
火焔樹日記開始 2周年
2002年8月2日に「火焔樹日記」を書き始め、今日で丁度2周年を迎える。この2年間、特別な事情を除き、基本的に毎日日記を書いた。何事もそうであるが、「続ける」ということもそれなりに意義のあることだと思っている。火焔樹日記読者の皆様方に心からお礼を申し上げたい。
この2年間の日記へのアクセス数は69600通。
午前9時、地球の歩き方ツアーの皆さんに「ベトナム」についてのレクチャー。
午後2時、「静岡フエ青年交流会館」付属日本語学校の「日本語ガイド養成コース」の開講式。
左(地球の歩き方ツアーへのレクチャー)
中(日本語学校ガイドコース開講式)
右(同上 小山挨拶)
午後3時、地球の歩き方ツアーは「子どもの家」で子どもたちと交流。
左(地球の歩き方「子どもの家」交流)
中(ドゥオック君チンコンソンを歌う)
右(地球の歩き方ツアー歌と踊り)
以前から海外ボランティア活動をしている人が「何にぶつかり」「どんなことに悩み」「毎日どんな生活をして」いるのかを書き留め、『現地報告』のようなものを発信したいと考えていました。
しかし、いざこの種の日記などを書くとなるとなかなか精神的な負担も多く、実際に始める事が出来ないまま、今日までズルズルと来てしまいました。
40日間の日本での講演会等が終わり、今日8月2日にフエ市へ『帰国』したのを機会に念願のベトナム日記を一念発起し始める事にしました。いつまで続くか自分でも見物です。興味のある方はお読みください。(2002年8月2日)
また、何かご意見等ありましたらベトナム事務所 小山道夫 (koyamavn@dng.vnn.vn)までお知らせ頂ければ幸いです。
2002年8月2日に「火炎樹日記」を書き始めた時の巻頭の言葉である。日記を書く主旨であるが、この2年間で「主旨」が達成されてかどうかは甚だ疑問ではあるが、精一杯書いたつもりではある。
この2年間で「日記を書く」ということは、私の日常生活の一部となってしまった。どんなに遅くまで飲んで帰って来てもその日のうちに必ず日記を書かなければならない。飲みすぎて書く気力がなくなるときも多々あった。今、日記を読み返して見ると、ごく短い日記は「痛飲」した時の痕跡を色濃く残している。時に日記に政治的なことを書きすぎるのでは?との声を聞く時がある。私は「政治」は一人一人の人間の生きることそのものだと思っている。「人生色々」ライオン首相や「1億円忘却」ポマード大王、「年金未納・お遍路」元党首、「憲法改正」フランケンシュタイン党首などの専権物でもなければ、雲の上の人々のするものでもない。結局は一人一人の人生を左右するものが政治である。
早い話、年金問題一つ考えても「団塊の世代」にとっては、年金は「国家的詐欺」にあったようなものである。40年近くも高額の年金を掛け、「60歳から平均賃金の60%弱を生涯出す」との約束で「人生設計」を立てていた。それがもろくも崩れたわけである。政治の力である。
政治の力で戦争も始まる。平和を維持するためには、政治に常に関心を持ち、自分の頭で考え意見を持つべきである。私はこの2年間の日記の中で既存の全ての政党を批判してきた。自民党から共産党まで。この日記は若い人も読んでいるという。若い人が政治に関心を持ってくれたらとのかすかな希望も込められているかも知れない。
この2年間、日本で全国講演会を行った。北海道から岡山まで。全国各地に宿泊した。小型のノートパソコンを持って行き、山の中では携帯電話の届く所まで降りて、日記を書いた。カナダ、ニュージランド、オーストラリアでも日記を書いた。海外の「インンターネットカフェ」から日記と写真を送る方法も覚えた。多くの人々に読んで頂く様に写真を多用した。そのために「デジカメ」の使い方を覚えた。はじめは会副代表の山西さんに文書と写真をメールで送り、日記を作ってもらっていた。今では、自分で日記のHPを作ることも出来るようになった。
ベトナム事務所でパソコンを覚えた。ベトナム事務所を訪問された日本人にパソコンの使い方のイロハを教えてもらった。メールの使い方、インンターネットの接続方法も訪問者に教えてもらった。全てが「必要」から周りの人たちに教えてもらい、日記が書けるようになった。改めてベトナム事務所訪問者、パソコンを教えて頂いた方々に感謝したい。
こらからも「ボランティア」「子どもの家」「子どもたち」「政治」「平和」「戦争」のことなどを勝手に「はすっかい」な目で見て行きたいと思っている。時間のある方は今後も日記をお読み頂ければ幸いである。合掌・感謝。
投稿者 koyama : 18:25 | コメント (0) | トラックバック
2004年08月01日
「子どもの家」バーベキュー大会
●午前9時。ニエン外務部長と当面の諸問題について懇談する。ミン・ベトナム事務所長、ラームベトナム事務所員と一緒に。
●午後2時、オランダのNGO代表と少数民族訪問についての懇談
●午後4時から「子どもの家」バーベキュー大会
●午後8時過ぎ、地球の歩き方ボランティア体験ツアー出迎えにフエ空港へ。ホテル着午後9時半。
左(午前中:ニエン外務部長と懇談)
中(午後:オランダNGOと懇談)
右(夕方木炭をおこしバーベキュー)
バーベキュー大会寄贈者を代表して高橋さんの挨拶。セン委員長の挨拶。いよいよバーベキュー大会の始まり。
左(高橋・センさんの挨拶)
中(バーベキュー大会①)
右(バーベキュー大会②)
バーベキューを楽しむ
左(バーベキュー③)
中(バーベキュー④)
右(優子先生も楽しむ)
総勢120人のバーベキュー大会
左(京滋の会:水本さんと子どもたち)
中(京滋の会:三津川さんとSAN先生)
右(支援者:内田さんと里子MENさん)
午後9時近く、フエ空港に地球の歩き方ボランティア体験ツアー8人(添乗員含む)が到着。ラームさんと出迎え。そのままホテルへ。明日から1週間、フエで様々な体験をする。
(フエ空港でツアー参加者と写真)
(1)今日は日曜日。本来なら休日だが、8月は訪問者が多く時間が取れないので、今日フエ市人民委員会外務部長と懇談。午前9時から。社会主義ベトナムでもこうして休日に仕事をする幹部もいるのである。
懇談の内容は
①9月14日「JASS活動10周年・奨学金贈呈式典」の運営について
400人規模の式典とする。主催はJASS.知事、市長、省・市教育長などをはじめ、フエの各大学学長、350人の奨学生、その父母、先生方、「子どもの家」の子どもたち、スタッフ、ベトナム事務所
スタッフなど総勢400人。会場は王宮内の新築劇場。
②新たな奨学金50人の贈呈先について
・フエ農業大学25人 ・PHAN DANG LUU 高校
25人。
③「日越交流委員会」の開催。
「日越交流委員会」は「子どもの家」、「静岡フエ青年交流会館」、「オートバイ研修センター・工場」の3組織を管理する「独立行政法人」。フエ市人民委員会や共産党からも相対的に独立した組織である。フエ市人民委員会の条例、トゥアティエンフエ省知事の認可を得て、昨年設立。委員長はニエン氏、副委員長は小山。委員はセン「子どもの家」委員長、ホアン外務部因私の教え子)。自立した決定権と財政権を持っている。8月9日に公式な「日越交流委員会」を開催することとした。
(2)午後2時、オランダに本拠のある世界組織「SNV」(国際開発組織)のベトナム駐在代表の代表のダグラス氏と懇談。この組織は600人のスタッフが世界28カ国で活動を行っているとのこと。
フエ差額地帯「ナムドン」の開発を支援しているとのこと。今後、私たちとも協力して、ナムドンやアールオイ山岳少数民族の自立支援を行うことを話し合った。
(3)午後4時から午後6時半まで「子どもの家」で恒例の「大ベーベキュー大会」が開かれた。総勢120人。
年1回、豚肉、牛肉、鶏肉をバーベキューにし「食べ放題」。ポリバケツには、冷えたコーラやジュースもあり飲み放題。
牛肉10キロ、豚肉15キロ、ニワトリ30羽。
ジュースなどソフトドリンク240本、木炭60キロを用意した。
日本事務所の内田さん、高橋さん、柳沢さんが例年寄贈してくれている大きなイベントである。子どもたちは夏休み前から「ベーベキュー大会」を楽しみにしていた。
(4)午後8時、地球の歩き方ボランティア体験ツアーを出迎えにフエ空港へ。午後9時過ぎ、フエ市内のホテルへ到着。