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2014年03月23日

鶴竜優勝、おめでとう

早朝小雨。寒い


午前7時起床。

午前中は洗濯と部屋の整理整頓。
洗濯機が故障。乾燥が出来なくなったが、
色々といじっている間に動くようになった。

午前9時半、昨日の昼食「おじや」の残りを
食す。

午後12時半、昼寝。

午後2時 「昭和精神史」(桶谷英昭著:文春文庫)
昭和改元・革命シナと昭和日本

(ワードにシナという漢字がない・・・・)


大相撲。大関「鶴竜」が優勝した。
JASSの会員で支援者でもある名古屋の
時田さん。JASSへの支援を続け、フエの船上生活者
の子弟が多く通う「フールー小学校」に4つの
教室建設の寄付をしてくれた。ご家族の皆さんが
参加してフエで贈呈式典を行った。
時田さんは、元々春日野部屋の力士だった。体が
それほど大きくなかったこともあり、相撲の世界
では出世しなくて、途中で各界を引退。
「相撲振興会会長」として、日本の相撲の発展と
普及に貢献してきた。

10年ほど前、テレビで私たちの活動を知り、JASSの
大きな支援者になてくれている。
私が関西に行く際には、名古屋に寄り時田さんに
お会いしている。

鶴竜は、モンゴルで日本の大相撲を見て「力士」に
なりたいとの意志を固めたがどこに連絡して良いか
分からない。インターネットを検索し、「相撲振興会」
を知り、会長の時田さんに手紙を送り「日本で相撲をしたい」
との連絡をして来た。
心のある名古屋の時田さんは、鶴竜に返事を書き
日本に呼ぶ。


鶴竜の父親はモンゴルの大学教授。知的で
裕福な家庭の子どもであった。


以下、ウキペディアの「鶴竜」

『大学教授一家の裕福な家庭に生まれ、幼少時にはテニス・バスケットボールなど、当時の庶民の子弟には高嶺の花と言えるスポーツに滋しむことができ、レスリングにも励んだ。親の影響で勉学にも励み、いわゆる優等生であったが、その裕福な家庭環境から、自宅でNHKの相撲中継も視聴することができたため、当時興っていたモンゴル国内における「相撲ブーム」に接して、同郷の旭鷲山などの活躍に憧れて力士を志し、花籠部屋の選考会に参加したが、一旦は不合格となった。しかし諦念しきれず、雑誌「グラフNHK」の広告で相撲愛好会(日本相撲振興会)の存在を知り、父が勤務する大学で日本語を教えていた同僚に頼んで自身の決意文を和訳してもらい、それを同振興会の時田一弘会長宛に入門希望の手紙として送った。これを受領した時田会長は、同志の鈴木賢一と相談の上、井筒親方(関脇・逆鉾)に諮って井筒部屋に入門させ、2001年5月に来日、同年11月場所に初土俵を踏むに至った。』

『浦和レッズ』と『清水エスパルス』の試合が
無観客試合で行われた。

先日の試合で「JAPANESE ONLY」と日の丸
を掲げ、浦和レッズもそれを止めずに
試合中放置していたという、無知無能な行動を
行った。その罰則としての「無観客試合」であった。

元浦和レッズの責任者は「表現の自由」があるので
なかなか難しいという、無能な発言をしている。
この程度の人間が責任者になっている日本の
スポーツ界の中心的な人物にあきれ返る。


投稿者 koyama : 2014年03月23日 17:26

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