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2012年08月15日
「子どもの家」入所希望者家庭訪問:自立したフエさん訪問
快晴 夕立あり。
午前5時半起床。
午前7時朝食。肉団子入り「チャオ・バイン・カイン」
午前9時、宿舎の近くにバオミン・春口先生・益子渓君と友人の
車が迎えに来てくれる。
今日は、フエから車で1時間半。市内を出て、フオンディエン郡の
農村へ行く。「子どもの家」入所希望者の家庭訪問である。
家庭訪問をする理由は、
①入所する子どもたちの生活の実態を知ることで子どもを理解する
②時々、貧しくないのに「養育が面倒」という家庭がある。
この種の家庭は、「子どもの家」で子どもたちを大きくする頃に
急にやってきて、子どもを連れて行ってしまい(親権主張し)
働かせ、自分は、楽をしようと言う人がいるからだ。
何度かこの種の親に「騙されて」来た苦い経験の上に
入所希望者の家庭訪問という制度が確立されてきた。
市内から車で30分ほど出るともうベトナムの純農村である。
あたり一面は水田。もう「実りの時期」を迎えている。
フエは「二期作」の農家が多い。
農家は自然のバナナの葉に覆われていた。
至る所に「用水路」「灌漑用水」の沼があった。
自然豊かな田園風景となる。
車で1時間半。やっと入所希望のCHINH(チン)さんのお宅へ。
農民だった夫は、10年前に44歳で「ガン」で死亡。
母親は50歳。1500㎡の農地で「自分の家族で食べるだけの
米を作っている。農作業のない時には、『村の賃労働」(物運び等)
をしている。庭で鶏を飼い、時々売っている。1ヶ月の総収入は
30万ドン(1200円)。
庭で飼っているニワトリ。
となりの家で買っている「水牛」。水牛も暑いのだろう。
横になっていた。
子どもは3人。22歳の長女はフエ市内の縫製工場で仕事を
しているが自分の生活で精一杯。
家には、母親と18歳(高校3年生)の次女。
そして、15歳(中学4年生:日本の中3)の三女。
更に父親の妹(52歳)知的障害者がいる。
「子どもの家」に届けられた入所希望申請書には、
こども4人と書かれていた。事情を聞くと、母親は
文字が書けず、娘にかいてもらったとのこと。
娘は意味が分からず、子ども4人と書いてしまったが、
正確には子ども3人と義理の姉1人ということになる。
母親はベトナム戦争が終わった時は13歳だった。
生まれてから中学に行く学齢期まで、激戦の
フエの農村で生活していたことになる。文字が書けず
読めないことを批判することはできない。ベトナム戦争
の後遺症を直ぐに「枯葉剤」という人たちがいるが、
戦争の影響は、様々なところに残っていることを私たちは
知る必要がある。
●母親の意見
家が貧しいので「CHINHさん」には仕事をさせたいが、
本人は勉強をしたいと言っている。
●CHINHさんの意見
私が学校へ行って、将来は教師になりたい。
そのために「子どもの家」に入り、しっかりと勉強をしたい。
小学校の成績は、最優秀。中学の成績は優秀。
その他、家庭の生活状態、同席している地元人民委員会の
人の意見なども聞く。
ロック寮長、バオミンさんなどと相談し、入所決定する。
母親とCHINH(チン)さんの写真を撮る。
母親はわずかに目に涙を浮かべていた。親としては、つらいことで
ある。長女が家を出て、三女も「子どもの家」に入る。
残るのは、高校3年生の次女だけだ。
推測ではあるが、母親の頭の中には、姉妹で一番頭の良い
次女に教育をつけてやりたいとの強い希望があるように
思われた。
台所などを見させてもらう。
入所を決め、帰る。
左から小山・次女・三女(入所)・母親
益子渓君と友人、春口先生。
日本の若者もこうした家庭を知ることで、自分自身の
生い立ち、家庭、日本社会をもう一度見直してもらえれば
幸いである。
9月から新学年が始まる。CHINHさんは、中学4年生になる。
転校手続きなどをいそがないと、新学年に間に合わない。
CHINHさんが、入る中学校は、「ファン・ソン・ナム中学」。
「子どもの家」の子どもたちが通っている学校である。
CHINHさんは、農村で生まれ生活していた。貧しいが、
家族とともに生活していた。「子どもの家」への入所は人生の
大きな挑戦である。一人になり、「子どもの家」で孤独との
闘いをしなければならない。
どうぞ、頑張って「子どもの家」で生活し、勉強をし志望の
教師になって欲しい、と願わずにはいられなかった。
ーー
この村の近くに「子どもの家」でミシンの研修を卒業した
『フエさん』が、ミシンで洋服を作るお店をやっているとの
話を聞き、立ち寄ってみる。
フエさんは、事情で父親がいなかった。家もなかった。
母親と人の家の軒下に「小さな小屋」を作って生活していた。
「子どもの家」に5年ほどいた。
現在21歳。
村人が布を持ってくる。フエさんが、ブラウスなどに仕上げる。
一枚 45000ドン(170円)位だそうだ。
1日に3枚位のブラウスをつくれすそうだ。1日500円程度の
収入がある。
現在の生活状態を聞く。
親戚の家の前を借りてお店をしている。ミシンでブラウスを
作る仕事をして、母親と二人の生活はできているとのこと。
「子どもの家」を退所する際、日本の里親から退所記念にプレゼント
されたミシンを丁寧に手入れをして使っていた。
店の前には、「MY HUE」(ミー・フエ)と自分の名前入りの
看板がでていた。
こうして様々な事情で親が生活できなきなった子どもたちを
「子どもの家」に受け入れてきた。私たちの願いは、
子どもたちが「自立」し、自分の力で生きて入れるように
なって欲しいという願いである。
フエンさんがミシンを研修し、立派にお店を持ち、切り盛りし
母親の生活の面倒をみられるようになったことは、嬉しい
ことである。フエさんは、近々結婚するような様子だった。
フエさんとお母さんの幸せな人生を祈る。
帰宅。宿舎に着いたのは、午後12時半を過ぎていた。
暑くて食欲がない。春雨麺を半分ほど食べて、横になる。
2時間ほど昼寝。
午後3時過ぎ、ブライセン関連でバオミンさんと電話で
打ち合わせ。
メール受信。送信。
午後5時過ぎ、宿舎を出て、徒歩でベトナム事務所前を
通って、バオミンホテルへ。
大極安子さん親子を案内して、「家庭料理」のお店へ。
本店は、サッカー場の方にあるのだが、最近、
フエ市内のベトナム事務所の近くに「2号店」が
できた。今日は、その味と雰囲気を偵察しながら、
大極さんの今後のフエでの小児針の活動などを
話し合う。
午後8時過ぎ、話し合いを終了。
その後、日本料理店へ。
古賀先生が日本語教育を終わり、夕食を摂っていた。
その後、徒歩で宿舎へ。午後9時過ぎ。
メールの受信。必要なメール送信。
投稿者 koyama : 2012年08月15日 18:08