« バンベー編集・各種業務 | メイン | 終日多量の書類作成 »

2011年11月23日

里親への手紙・スタディーツアーの打ち合わせ

終日曇り

午前8時 28度  湿度90%

午前7時朝食。ブン麺(カニ団子入り)

ポルトガルにいるバオミンさんからメールあり。
ポルトガルの食事が出来ない。毎日「インスタントラーメン」を
食べているとのこと。理解できる。私が始めてヨーロッパに
行った時、全てが脂っこく、食べられなかった。
淡白なものが食べたくなった。

午前9時半、停電。

11月11日からウエイトトレーニングをしている。
短時間だが毎日コツコツと続けることが大事。
腕の筋肉と膝の筋肉の強化。
出来るだけ『ウオーキング』も。フエでは交通事情が
悪いので日中のウオーキングは危険。

徒歩でベトナム事務所へ

「子どもの家」のこどもたち・スタッフから私の誕生祝いの
生花。タム医師がベトナム事務所まで持って来てお祝いの
挨拶。恐縮する。

ハンさんから話を聞く。日本料理店のヒエウさんが、「400万ドン」
(1万円5千円相当)を貸して欲しいと言って来たとのこと。
日本料理店の給料が130万ドン程度なので3倍もの借金を
申し出たのは、訝(いぶ)かしいことである。
ハンさんに頼み、ヒエウさんに電話をして、直ぐにベトナム事務所
へ来るように頼む。ハンさんが電話をする。
30分後にヒエウさんがベトナム事務所に来る。
400万ドン借金の理由を聞く。


ヒエウ『お祖母ちゃんのお墓がクアンチ省(フエの隣り)にある。
地元人民委員会が区画整理をするということでお墓を整地し
宅地にするという。「直ぐに墓を移転するように」との指示を
受けている。今日の午後、母親がクアンチ省に行き、お墓の
移転をする。その費用がない。貸して欲しい』とのこと。

私はヒエウさんが(本人は19歳と言っているが・・・)
4歳くらいで入所してからの付き合いである。
この10数年間での様々な出来事を知っている。
誰かに騙されて「お金を借りるのでは?」との不安があった。
ハンさんと二人で詳しく事情を聞く。
30分ほど借金の詳細を聞く。若干不安は残るが、今日の
午後、母親がクアンチに行くというので400万ドンを貸す。
毎月50万ドンを返済するというが、130万ドンで病気の
母親と二人の生活。50万ドンも返済したら、毎月の
生活ができなくなる。毎月、10万ドンの返済にする。
3年ほどかかるが・・・・・。

1階日本料理店の小部屋では、ブライセン日本語中級教室が
行われていた。先生は古賀先生。


徒歩べ宿舎へ。

午前11時半昼食。マカロニスープと生野菜



午後12時から1時間ほど昼寝。


里親への「退所」「支援継続」等の手紙を書く、ハンさんへ
送信。

バンベー送信がうまくいかなかったが、JASS日本の
バンベー担当のSさんが、必要な原稿・写真を担当の
有ヶ谷さんに送ってくれる。感謝。

夕方、次男と電話。次男の子どもが明日退院できる
とのこと。一安心。

夜、長男の嫁さんと孫と電話で話す。誕生祝いを言ってくれる。
感謝。この世の中で、私の誕生を祝ってくれる人がいるという
ことは、幸せなことである。

=======

立川談志(75歳)が、喉頭がんで亡くなった。談志の死を
悼む。個人的には談志の芸は「臭くて」余り好きではなかった。
臭いとは、「どぎつい」。
20代から30代の初めまで「演芸評論家」を目指していた
私は、100席の生の寄席・演芸を見るようにしていた。
長男が5歳頃だろうか? 渋谷の「ジャンジャン」で
談志の独演会を見た。ジャンジャンは本当に狭い場所だ。
途中で長男がチョロチョロと舞台に上がってしまった。
談志はどう対応するのだろうとちょっと緊張したが、
さすが芸人。うまくかわし「親は誰ですか?」などと
言って、話に入っていった。大らかな時代であった。
談志を評価するのは、落語協会から脱退したことだ。
その根底には、今の落語では落語は衰退する、との
危機感を持っていた。師匠の柳家小さんが「人間国宝」になる
時代である。人間国宝になった時点で既に落語は
歌舞伎・能・狂言と同様、「博物館」に入ってしまうのだ。
つまり一部の嗜好家のものになり、大衆のものではなく
なる。
談志はそうした危機感を持っていたと想像する。
談志の生き方に共感する。
当時、私は「実験落語会」を良く聴きに行った。
三遊亭円丈・夢月亭歌麿などの新作も良く聞いていたい。
彼らも当時の落語界に不満を持っていた「不満分子」である。
立川談志も大きな明治期以降(三遊亭円朝)の現実の
落語のあり方に不満をもった「不満分子」「落語界の反体制派」
だったのである。その点にのみ共感を持つ。
談志の生き方も「問題児」のように見られるが、彼の基本的な
生き方の基調は「体制」「主流」に反抗するというものであった。
落語協会という「主流」から脱退し、同時に「現代落語は是で
いいのか?」
との問題意識を持ち、自分の命と人生をかけて反抗した談志の
生き方には共鳴するところが多い。しかし、談志の落語は
好きではなない。大げさ過ぎる。あっさりと自然に静かに
大人しく演じながら、「演じているのかいないのか?」
分からないようにあっさりとした落語が好きである。
談志の落語は、「自分を出しすぎている」のだ。
自分を出していながら、出していないように「あっさりと」
「なにげない」落語が好きだ。


三遊亭円生一門が「大量真打昇進」「真打試験」に反対し
落語協会を脱退した。談志もその時に脱退。
古今亭志ん朝も同一行動を取ったが、途中で復帰。
談志が東京落語界の現状を憂いて、独自の路線を追求したことは
事実だ。
芸人の世界は大きく変った。現在大阪吉本が席捲している。
私など、「あれは芸ではない」と思っている。テレビに出る
大阪「芸人」の芸はほとんど笑えない。
芸人と称して「テレビで公開お見合い」などをするのは、
芸でもなんでもない。この種の人間たちは、最後にテレビで
素っ裸になっても「芸だ」と思っている連中である。
芸は時間と努力をかけて練り上げていく奥深いものである。
芸を練らずに「表面のお笑い」だけ。今では
そのお笑いもしないで、バラエティーと称してただしゃべるだけ。
いつのまにか居なくなった人も多い。私はこれら一群の
人たちを芸人とは思っていない。テレビタレント。
個人的には存命者では「入船亭船橋師匠」が一番好きだ。
何度か、子ども落語を主催した際、一緒に仕事をしたが、
腰の低い芸人さん。話してみると『知性』のある方だった。
「自分はテレビで売れるような芸人にはならない。テレビで
売れると芸人ではなくなり、使い捨てされる」と1970年代後半
には言っていた。先代:8代目林家正蔵(彦六)の人生が
私の思い浮かべている芸人さんの生き方だと思っている。
「とんがりの正蔵」。権力・不正には徹底して闘う。
私は彦六師の最後の高座を上野鈴本演芸場で見た。
既に歩けず、緞帳が開くと『釈台』の後ろに座っていた。

時代が変り、人間が笑うという行為も『立ち食いソバ』や
「牛丼」のように「短時間」「瞬間」に笑えるような『擬似芸』が
喜ばれる時代になった。

本当に美味しい食べ物は時間をかけて作ったものなのだが、
その味を知らなければ、「立ち食いソバ」「牛丼」が美味しくなる
のだろう。責める訳にはいかない。時代の流れか?・・・・・。

本当に美味しい「話芸」の味も分からなくなってきている現代では
ある。


談志の高座で「上から読んでも下から読んでも」
「だんしがしんだ」の立川談志と言っていた「しゃれ」が
現実になった。冥福を祈る。

投稿者 koyama : 2011年11月23日 16:31

コメント