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2010年08月29日
地球の歩き方4班ー「子どもの家」で食事作り・昼食
快晴
午前5時起床。1時間ほど読書「仮装集団」。
その後1時間程睡眠。引き続き読書。
午前9時半頃、ホーチミン市のマルサ・佐藤社長より電話。
フトンを干す。部屋の掃除。洗濯。
午前10時、「子どもの家」へ。
地球の歩き方4班(17人)がシクロで「子どもの家」へ。
近くのタイロック市場で買い物。昼食作りをし、
その後、「子どもの家」と交流。
ソン君とアンさんが案内担当。日曜日出勤ご苦労様。
「子どもの家」の卒業生の「フン君」が遊びに来ていた。
以前は、靴の修理工場で研修し、就職した。
その後、工場を辞めて、「子どもの家」の門前で
靴の修理、靴磨きをしていた。先日、「子どもの家」に
来ていたので「何をしているのか?」聞くと「オートバイの
修理をしている」とのこと。
今日、「何をしているのか?」聞くとレストランで働いていると
言う。「何ヶ月位?」と聞くと「4日目」との返事。
『逞しい生き方』といえば言えるが、「無計画」「行き当たりばったり
の生き方」といえば、そうも言える。この兄弟(弟はハイ君)は
不思議な行動力と楽観性を持っている。
食堂ではロック寮長とこどもたちが懇談中。昼食の準備中。
「子どもの家」の庭では地球の歩き方スタディーツアーの
皆さんと大縄跳び。
こどもたちは懐かしい「フラフープ」をしていた。
地球の歩き方の大学生はフラフープをしらない。
「子どもの家」の近くの店で「ダーカウ(バドミントン様の羽)を
10個買う。
担当のアンさんが一生懸命に仕事をしていた。
ホテルから「子どもの家」へ20分、シクロでやって来た。
シクロの運転手は「子どもの家」で待機中。
退所した「チュック君」が遊びに来ていた。チュック君と
ハイ君は「子どもの家」で一番古いこどもたちである。
小さなこどもだったのが、こんなに大きくなった姿を
みて17年間のフエ滞在の年月の長さを改めて感じた。
私たちがフエで活動をしていなかったらどうなっていたの
だろうか? 今も40数人のこどもたちが「子どもの家」に
いる。これらのこどもたちには、「子どもの家」が絶対的
に必要である。
午前11時前、こどもたちと地球の歩き方の皆さんと昼食。
今日の食事。ご飯、野菜スープ、アヒルの玉子焼き、野菜炒め。
栄養は十分取れる献立である。こうして毎日3食の食事を
こどもたちのために用意することは何でもないことのように見えるが、
16年間(1万5千回)毎日続けるということは、「言うは易し、行なうは
難し」である。私の16年間の「子どもの家」運営で一番心を悩ませた
のは、「食事代がなくなったらどうしよう」という単純な悩みであるが、
JASS活動の本質的な悩みでもある。そのために様々な試みを
してきた。
ご飯は食べ放題
今日の担当ではないのだが、古竹先生も自主的に
地球の歩き方4班のお世話をしてくれている。
感謝。体に気をつけて活動して欲しい。
私は「子どもの家」で昼食を摂らず帰宅する。
午後12時。朝食を摂る時間がなかった。
フダ缶ビールを3本飲む。
フエに戻ったのは、7月16日だった。それから
40日。部屋で昼間「飲んだ」のは、今日が初めて
だった。
この40日間、多くの来客の対応、様々な問題が惹起し
その解決に精一杯努力したつもりである。
心身ともに疲労困憊状態。今日の日曜日位は
昼間飲んでも「バチは当らないだろう」などと
勝手に考え、「飲酒に走る・・・・」。
関係者にいくつかのメールを送信。
「ブランチ」に昨日の残りの「チャオ・バイン・カイン」を温めて食す。
午後1時半、午睡。外は真夏日。
午後4時に目が覚める。熟睡。この数週間、色々な問題が
あり夜眠れないことが多かった。
午後5時まで読書。「仮装集団」(山崎豊子著)。1967年に
この本を書いたことは、先見の明があり、山崎は素晴らしい感覚の
持ち主である。
60年安保から70年安保へ。戦後政治の最高の高揚期
の一時期である。全国に革新自治体ができ、学生運動、
労働運動が一番盛り上がった時期でもあった。そうした時期の
左翼運動の政党の暗躍。前衛政党と名乗る政党の思いあがり
と自己満足、強引な大衆引き回しを淡々としかし厳しく見つめ
ている。今日ではなく1967年に書いた意義は大きい。
「進歩的文化人」と称する人々の活躍した時期である。
これらの人々にも疑問を投げかけている。
俄かに空が暗くなり、「豪雨と雷」。
夜まで続く。
午後6時、ご飯を1合研ぐ。30分ほど寝かしておく。
炊飯器で炊き上がる。外が豪雨。いつも「ベトナム風ほか弁
100円)を買いに外へ行くが今日は豪雨で外出出来ない。自炊。
また、何となく喉の方から「お呼び」がかかる。「何か寂しいよ」
と。仕方がないのでばっちりと冷えたフダ缶ビールを飲む。
また舌の方で「美味しいおつまみが欲しいよ」とせっつかれる
が、美味しいおつまみはないので、大好きな「鮭とば」で代用。
1910年8月29日、日本は朝鮮を植民地にした。
日韓併合条約。日本人は朝鮮を知らな過ぎる。
「三たびの海峡」帚木 蓬生(ほうきぎ ほうせい) (新潮文庫)
を読んだ。朝鮮人強制連行がどのような形で行われたが
詳細に書かれている。九州の炭鉱財閥の麻生。麻生元首相
の祖父。日韓併合条約でどれだけの朝鮮人が強制的に徴発
され、九州の炭鉱などで牛馬のように酷使され死んでいったか?
九州の麻生財閥は、朝鮮人の汗と血と命の上になりたった
財閥。麻生元首相は「日本が朝鮮を植民地にしたので、朝鮮は
発展した」と発言している。
私は20年程前、我が子と一緒にソウルの「安重根記念博物館」に
行った。安重根は、伊藤博文(初代の韓国統監)を暗殺した。
日本では安重根は「やくざ」か無頼漢と描かれている。
しかし、安重根は、当時朝鮮の第一級の知識人であった。
安重根の書いた書は素晴らしい。また、安の書いた文書、
憂国の書にも共感を持つ。
角田房子の「「閔妃暗殺(ミンピ暗殺)」を読んだ。
李王朝の皇后を日本の軍隊と警察が虐殺しているのである。
日本で言えば、美智子皇后を殺したことになる。
ハン流もいいが、大事な私たち日本人の過去を忘れてならないと
痛感している。父親生誕100年は韓国併合100年でもある。
未来志向で日韓の友好を求めて行きたい。
投稿者 koyama : 2010年08月29日 11:39