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2010年06月14日

静大工学部入試担当の先生方帰国:リー君日本料理店復帰

快晴 


想像した通りだ。午前10時半から午後5時半まで停電。

昨日終わった「フエフェスティバル」。その前の2ヶ月は
フエフェスティバルのために電気を貯めておくとの
当局の説明。更にフェスティバルが終われば、停電はない
などと言う「まことしやかな」噂が流れていた。

フェスティバル中の9日間は停電は1回だけだった。
町中にネオンが輝き、ふんだんに電気を使っていた。
とにかく日中は40度のフエである。全てのメインイベントは
夜である。煌々と照明・ライトつけての催しである。
電気の無駄遣いはまさにフエフエフェスティバルに極まれりで
ある。

午前3時に暑く寝苦しいので目覚める。

快晴

午前3時に目が覚める。
「ある晴れた日に」(加藤周一著:岩波書店)読了。

1942年12月8日の「日米開戦」の日も1945年8月15日
のどちらも「よく晴れた日」だったそうだ。

典型的な敗戦前の日本人が出てくる。戦前教育を受けた
軍国人間、一部反戦意識のある知識人、体制の流れに
便乗し威張る憲兵隊、長野の山奥の農村での出来事。
敗戦前の「銃後の日本」の窒息しそうな「一億玉砕」
と叫びながら空襲を受けて「半信半疑」の国民、


午前7時、朝食。ブンボー。美味しい。野菜をたくさん「ぶち込む」

午前8時、ベトナム事務所へ。

バオミンさんといくつかの問題で話し合う。

午前9時、静岡大学工学部入試担当の先生方が
ベトナム事務所に帰国の挨拶に来る。

午前11時、ホテル戻る。
停電。

バオミンさんが緊急問題でホテルの部屋に来る。
いくつかの重要な話をする。

昼食。食欲なし。本格的な風邪を引いたのか?
だるく、喉が痛い、仕事をする意欲なし。

昼寝。停電。室温50度以上の部屋で汗をかきながら
横になるが寝られない。
流石(さすが)に「孤独感」を感じる。ベトナムに来て
こんな暑い部屋で一人で汗をかき横になり、体調の悪い中で
昼寝をする自らの「境遇」を考える。

とにかく暑い。

読書「1945年春 ローズベルト アメリカ大統領の死んだ日」
(仲 晃著:岩波書店)

日本ではルーズベルト大統領と表記されている「ニューディール
政策」の大統領。

アメリカでは「ローズヴェルト」と発音されてきたそうだ。
ルーズベルト一族は17世紀の中頃、オランダから
「ニュー・アムステルダム」(現在のニューヨーク)に
渡った移民。家名は「ローゼンヴェルト」。
ローズは「バラ」を意味する。

教科書の「ヤルタ会談」などに出てくるルーズベルト大統領は
車椅子に座っている。何故かは知らなかったが、
30代後半に泳いでいて「ポリオ」にかかり、歩行できなくなった。

加藤周一が1045年の春から8月15日前後の知識人と
その周りにいる庶民の息苦しい生活と戦争の終結を
期待する時代を小説にした。(1950年)

ローズベルトは、まさにその日本の敗戦を先導したアメリカの
大統領であるが、日本の敗戦や原爆投下を知らずに
1945年4月12日に脳溢血で死亡している。


ローズベルトの夫婦生活は事実上破綻していた。
政治家になり秘書が必要になり23歳の秘書を雇う。
ローズベルトは23歳の秘書と恋仲になる。

1945年に別荘で死んだ際もローズベルトを看取ったのは
その元秘書だった。

午後2時半。日本料理店へ。今日からリー君が日本料理店
復帰する。勝手に辞めて、ズルズルと仕事を始めるのは
良くない。日本料理店会議を開き、経過を説明。
リー君に自己批判をさせた上で復帰する「儀式」が
必要。

バオミンさんに通訳で私は経過を話す。
大塚さんもいくつかの意見を言う。
リー君が「皆さんに迷惑をかけました」と挨拶。
24歳の挨拶にしては、やはり「稚拙」ではる。
言葉で表現するのが下手。

立っているのが辛い。ホテルに戻る。
部屋は停電。猛暑の部屋で横になる。
体中が汗まみれになる。
とうてい寝られない。それでも「横になっている」ことが
大事。

バオミンさんと電話でいくつかの問題を話し合う。
午後5時半。停電解除。

体調が悪く食欲なし。夕食を摂らず、部屋で寝ている。

投稿者 koyama : 2010年06月14日 20:32

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