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2008年08月14日

日本・ベトナム学生会議の皆さん「子どもの家」訪問

晴天  真夏・猛暑


午前5時起床。昨日の日記を書く。


午前7時朝食。午前7時には真夏の太陽が顔を出し、
コンクリートを照らしている。

朝食 キャッサバ芋の「チャオバンカン」。カニのだしが
効いて美味しい。


オアシスの会の大塚さんをはじめ、ベトナム事務所スタッフ、
ハイ君、リー君とも暑さに負けず元気に仕事をしている。
私がだけは暑さに多少負けている。毎晩、フエ生ビールを
飲んで元気をつけているのだが。飲み方が足りないのかも
知れない。

「ハイリーホテル」でボランティア貯金完了報告書を作成。
「ハイリーホテル」のデスクトップパソコンが故障。
たくさんの写真や資料が入っているのだが、開けず
困る。

午前9時過ぎ、電動バイクで「子どもの家」へ。
途中、王宮のお堀のピンクの蓮の花が咲いていた。


9時半、「子どもの家」に到着。「ハイリーホテル」から電動バイクで
15分程度。

既に「日本・ベトナム学生会議」の皆さん17人が「子どもの家」を
訪問中。税田さんとソン君が二手に分かれ「子どもの家」を案内。



「子どもの家」には先日の大学・高校入試で見事合格した
子どもたちが何人かいた。THUYさんは親戚に合格を
報告に行っていた。

●コックホック高校合格 NHIさん
 ・「子どもの家」では15年間で初めてコックホック高校の
  合格者がでた。


●フエ芸術大学絵画科合格 PHUC君
 ・「子どもの家」ではじめての合格者


●フエ師範大学小学校課程合格 NHIさん


午前10時、「子どもの家」2階会議室にて「日本・ベトナム青年会議」
の皆さんにベトナム・子どもたち・ストリートチルドレン・ドイモイ・
ボランティア・人間の幸せとは・・・などについて90分間話す。




午前11時半過ぎに講演会は終了し、学生会議皆さんは
「子どもの家」を後にした。

「子どもの家」食堂では、THINH(ティン)君12歳の
誕生を祝う会が行われた。ティン君の日本の里親である
Uさんからの寄贈で「子どもの家」の子どもたち全員に
誕生ケーキ(大型3つ)が送られた。

HAPPY  BIRTHDAY
 CU THINH

14 08 2008


里親のUさんから贈られた12歳の誕生祝の『帽子』と『Tシャツ』
を喜んでいるティン君。


誕生ケーキに点灯



12本のロウソクの火が点される


●3つのケーキと誕生プレゼントを前に12歳の誕生を祝うティン君

  ティン君も含めて多くの子どもたちが家庭で誕生祝いをして
  もらった経験がないか、少ない。
   こうして時々日本の里親から『一度でも良いから 
  里子の誕生を「子どもの家」の子どもたち全員とお祝いさせたい』
  との希望が寄せられる。
   ベトナム事務所でもこの問題をかなり熟慮してきた。
  一部では「誕生祝をしてもらえる子ともらえない子が出たら
  不平等でかわいそう」との意見もあるのは事実である。
   この意見に従えば、常に「子どもの家」の子どもたちは
  全て何事も「同じ」にしなければならい。
   しかし、現実の社会は『不平等』だらけである。「子どもの家」
  だけを特別な「聖域」とし、全て平等の理想社会を作ると言う
  意見もあるだろう。しかし、私たちは、ベトナムという現実の
  社会で強く生きていく子どもたちを育てたい。
   自分の里親は誕生会をしてくれなくても、「友達が誕生会を
  してもらえて良かった」と思える子どもたちを育てたいものである。
   いつか、自分にも何か他のことで良いことがあるかもしれない、
  友達の「喜びを一緒に分かち合おう」という気持ちになってくれれ
  ば良いと思っている。全て平等という考えは、日本の運動会で
  1等・2等などと優劣を付けるのは差別だとして、ゴールで
  全員が一緒にテープを切るという漫画のような結末を迎え
  てしまう。里親が「子どもの家」を訪問することもある。
   里親が手紙をくれることもある。世の中は様々である。
  実際、ベトナムの学校へ行けば、共産党の幹部の子どもや
  お金持ちの子どもたちは、きれいな洋服を着て、高い持ち物
  で身を固めている。こうした現実社会の中で子どもたちは生きて
  いるである。「子どもの家」だけを特別な理想社会にすること
  はできない。
   私たちに、こうした不平等の現実を隠すことは出来ない。
  子どもたちに不平等な現実をしっかりと認識してもらい、
   そうした不平等な社会を直していく子どもたちになって欲しい
  と念願している。
   日本のいくつかのNGOでは、里親が現地の「子どもの家」などを
  訪問すること、手紙を出すこと、直接子どもたちと会うことなどを
  一切禁止しているところもある。機械的平等主義の思想がその
  背景にはある。こうしたところでは、結局『何もしないこと』が
  一番の平等になってしまうのである。
  

昼食を子どもたちと一緒に摂る。
昼食後、テイン君の誕生ケーキを子どもたち全員で食べる。
里親のUさんに感謝。






午後12時半過ぎ、「ハイリーホテル」へ戻る。

1時間ほど昼寝。気温40度近い「子どもの家」2階の
音楽室で90分間話をするのは、相当疲れる。

午後2時読書「父への手紙」(窪島誠一郎著:筑摩書房)読了

「両親の体格と自分の体格」の大きな相違に疑問をもった
著者。その後、手術をした際、両親のA型・B型と自分の
O型との血液型の相違を知り、医者に「家庭に何か
問題があったようですね」との話を聞かされる。高校時代。
その後、自分探しの人生の旅を続ける。35歳になった頃、
「両親」が明大前で靴の修理屋をしており、2階3室を
下宿にしていたことを思い出す。明大に行き卒業生名簿から
当時の下宿学生の名前を調べ、静岡県磐田市・大分県
中津市出身の学生にたどり着き、そこから、最終的に
作家「水上勉」が実父であることを知る。
1942年頃の水上勉は東中野の貧しい家族の住む
「コトブキ・ハウス」というアパートに女性と住んでいた。
売れない小説を書いていたが、収入もなく結核にかかり
血を吐くという状況だったようだ。そんな時、子どもが
出来て、育てられず、伝を頼って明大で靴直し職人を
していた窪島夫妻に3歳になった子どもを引き取って
もらう。それは、窪島誠一郎氏あり、
水上勉の子ども「水上りょう」だったのである。
1977年にそうした事実を突き止め、窪島誠一郎氏は
水上勉氏に宛て紙を書く。本書の最後にその手紙の
全文が掲載されている。水上勉氏から返事がきたのか
こなかったのか?は本書では明らかにされていない。
水上勉氏は、1976年に我が子『水上りょう』との別離を
書いた小説を発表している。

午後3時、ベトナム事務所へ。
バオミンさんといくつかの打ち合わせ。
ボランティア貯金完了報告書作成。

午後5時半、日本料理店の子どもたちと夕食。

豚肉と海老の甘辛煮、冬瓜と落花生の和え物

すっかり店長が板に付いた感のあるリー店長


これで「何杯目・・・・」と言ってフダ生ビールを持ってきてくれる
接客主任のグエットさん


午後6時半から日本料理店開店。

途中、3度ほど電気が消える。電流が時々強烈に
強く流れることがある。ストッパーが作動し電気が消えて
しまう。今夜は異常に強い電流が流れたり、弱くなったりを
繰り返している。その度にストッパーが作動し、電気が
消えてしまう。

日本人2人、ベトナム人2人来店。

午後9時15分閉店。

「ハイリーホテル」に帰る。

読書「あ・うん」(向田邦子著:文春文庫)

投稿者 koyama : 2008年08月14日 18:12

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