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2008年05月15日
フエに戻る
午前8時半、日暮里発のスカイライナーで成田空港へ。
午前10時半成田発。満席。午後2時半(ベトナム時間)
ホーチミン空港着。午後4時半 ホーチミン空港から
フエ空港へ。フエは25度。曇り。
「ハイリーホテル」着午後6時。荷物を部屋に置き
日本料理店へ。大塚さん、税田さん、千草さん、いぶきさん
などが子どもたちと一緒に働いていた。最近は来客も多いとの
こと。
午後8時過ぎ、宇都宮縫製工業組合佐藤さんが来店。
午後9時半、13人の来客が帰る。子どもたちと一緒に
「ハイリーホテル」へ。
朝のスカイライナー、成田→ ホーチミン市、
ホーチミン市→フエの機中で読書。
「江戸っ子だってねえー浪曲師 廣澤虎造一代」(吉川潮著)
江戸時代後期から始まった浪曲が明治・大正・昭和と
大人気を得る歴史を知る。それは、私の父親の誕生と
浪曲の大人気の経過と重なっている。
浪曲を聞くと心が落ち着く。癒しでもある。
「青い月のバラード」(加藤登紀子著:小学館)
新左翼系「全学連」委員長の藤本敏夫氏との恋愛。
獄中結婚。など加藤登紀子の人生観を克明に
記している。単なるアイドルではない加藤登紀子の
人生が分かる。加藤登紀子も中国からの引揚者。
引き上げを通して「人生の何か?」を知る。
夫藤本氏との何度もの「離婚」騒動を経て、藤本氏の
ガンでの死亡へ。
1960年代の「70年安保」を闘った人々のそれぞれの
思いを知る。浅間山荘事件などで死亡した若者の
多くが加藤・藤本氏の仲間だったとのこと。
加藤登紀子もそれなりに新左翼運動に入り込んで
いたことが分かる。
加藤登紀子も藤本氏も結局は当時のエリートである
「裕福な家庭のお坊ちゃん・お嬢さん」であったことは
事実である。
御茶ノ水を「カルチェラタン」にするなど称して、
暴力を繰り返す彼らの運動に私は終始批判的だった。
同時に1960年代後半に青春を迎えた若者の多くが
参加した70年安保闘争への立場を超えた共感も
感ずる。
投稿者 koyama : 2008年05月15日 22:50