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2007年10月30日
お墓参り
お知らせ
●東北大学での講演会【小山道夫氏 講演会】
講演テーマ:ベトナムのストリートチルドレンと共に過ごした14年
―本当の国際支援、海外ボランティアとは?―
・日時:11月14日 17時半~19時
・場所:東北大学 川内北キャンパス C棟2階 C200
・入場料:無料
★ベトナム事務所を訪問してきた東北大の福本君と言う
若者がたった一人でこの講演会を発案し、計画、実施。
行動力と発想豊かな素晴らしい若者である。
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晴天
毎年1回程度はお墓参りに行っている。11月26日には
フエに帰る。その前にお墓参りに行こうと思った。
午前8時半自宅を出て、東部東上線東武練馬駅まで
歩く。1時間。東武練馬駅から東部東上線に乗ったが、
どこかで事故があったようでダイヤが乱れていた。
東武練馬から成増まで。成増乗換えで森林公園駅。
東武練馬から1時間半ほど。武蔵野丘陵にある森林公園
の隣りにお墓はある。10数年前に作った。
森林公園の木々は少し色づいていた。まだ紅葉には早い。
森林公園駅からタクシーで10分。お寺に着く。
家から持っていったビール、大福、チョコレート。
はじめにお墓の掃除。既にお寺の方で大体きれいに掃除して
くれている。秋のお彼岸に立てた卒塔婆が残っていた。
父親の好きだった「キリンビール」、兄用のチョコレート、
弟の好きだった「大福」を供える。
54歳で亡くなった父親は毎日朝からビールを1ダースは
飲んでいた。そして夜も毎晩家で宴会をしていた。
お酒が好きだったのか、「飲まずにはいられなかった
のか?」。今では真相は不明だが、とにかく、キリンの瓶ビール
しか飲まなかった。
17歳で亡くなった弟は甘いものが好きだった。私とは正反対
であった。
1945年(昭和20年)12月中国で亡くなった兄を私は
知らない。1945年(昭和20年)8月15日、敗戦。
中国から引き上げてくる途中、たった二才で肺炎をこじらせ
亡くなった兄のことを思うと切なくなる。
多分、食べ物もなく、栄養失調になり、簡単な風邪を引いた
だけだったのだが、体力がなく亡くなった。
二才で亡くなる前、おなかがすき、甘いものが食べたかったので
はないかと思いチョコレートを供えた。
ベトナムへ渡航する何年か前に私が作ったお墓である。
62年前にたった二才で中国で亡くなった兄のことを知っている
人間は既にこの世にほどんどいない。せめて、顔は知らないが、
私が思い出してやる意味もあるかと思う。
お墓に「平和」と書いたのは、こうした兄と我が家の
履歴からである。中国での生活、引き上げ、兄の死、
日本への帰国後の貧乏生活と、戦争と平和の問題は
私の理念問題ではなく「生活問題」だった。
戦争を絶対にしないこと、平和なことは私の生まれの
原点であり、平和のために生涯をかけて闘って行きたい。
これは亡くなった3人の家族のためでもあり、私に課せられた
使命でもある。
二才で中国で亡くなった兄、17歳で白血病で亡くなった弟、
54歳で突然脳溢血で亡くなった父。
我が家の3人の男たちは、「無念」の気持ちを持って
あの世へ旅立った。私に課せられた責務を自分なりに
考え、ベトナムへいくことを決意した。
昼過ぎ、お寺を出て、池袋へ。
この際「精進落し」が必要。父親を偲んで池袋で
キリンビールを飲む。今、自分がここで飲んでいる
ことの意味を考える。自分がどんな生き方を
したら良いのかを改めて考えた。
ビールが苦く感じられた。
読書「新源氏物語(上)」(田辺聖子著)読了。
須磨の巻、明石の人の巻、澪標(みおつくし)の巻。
田辺源氏は「上」「中」「下」の3巻だった。中がない。
古本屋で買わなければならない。
与謝野晶子「源氏物語(上)」を読み始める。
与謝野源氏は、54帖の順に書いている。
これも上中下の3冊。古本屋で上巻しかかっていない。
瀬戸内源氏、俵万智の本を読んでいたので、
与謝野源氏の内容をある程度理解できる。
投稿者 koyama : 2007年10月30日 20:32