« 前JASS代表平野先生と懇談 | メイン | 灰谷健次郎氏の急逝を悼むーー無頼船(ブライセン)藤木社長結婚披露宴 »

2006年11月22日

巣鴨のお地蔵さんへ

晴れのち曇り

昨夜痛飲。調子に乗ってビールのあとに「ひれ酒」3杯。
朝から頭がボーとしている。

テレビを見る。夕張市が赤字再建団体になった、国の管理下
に入ったとのこと。極端な合理化・経費削減計画が市民に提案
された。テレビでは、市民が市長の極端な合理化計画説明に
対して「私たちの生活をどうするの?」「全く無責任は市長だ」
と詰め寄り、説明会の途中で百数十人の夕張市民が退席した
場面を放映。スタジオでは、5人ほどのコメンテーター
が「これでは市民が可愛そうだ」と発言している。
確かに市民はかわいそうである。老人施設が廃止され、
小中学校が各1校ずつに削減、市民税のアップ、保育料の
アップ・・・・。
市民が市長に「私たちをどうしてくれるの?」と詰め寄っている
場面を見て、日本人、日本社会を象徴する場面だなと思った。
確かに長年の放漫経営市長である。この出鱈目な市長を
監視する市議会もチェック機能を果たしてしていなかった。
放漫経営市長を選んだのは市民である。行政への監視能力
のない市議会を選んだのも市民である。
夕張市の赤字団体への転落を長年放置していたのは、
結局は市長や市議会を選んだ市民・自分たち自身である
との自覚ががない。
主権在民というのはこうした時に「馬鹿な市長や市議を選んだ
自分たちが馬鹿だったのだ。真っ当な市長や市議を選ばな
かった自分ための目利き力が足りなかった」との反省の
気持ちが必要なのではないかと思った。
主権者とは、最終的な政治の責任者自身でもあるとう
民主政治の原理・原則への理解が必要なような気がする。
普段は政治に無関心でいて、問題が起こると人を攻める
ような市民の姿勢も反省が必要なのではないだろうか?
未成熟な日本の市民社会の縮図を見るような気がした。

朝から多くのテレビ局で「犬の救助」を生中継していた。
バカバカしい日本のマスコミである。
野良犬1匹を40Mほどのがけから救助する場面を
どうしてこれほど時間をかけて放映するのだろうか?
放映する意味は何なのだろう。全く理解できない。
あるコメンテーターは「こうして犬を助けることは、日本人の
素晴らしいところだ」と発言していた。
1匹の野良犬を助けることを美談にしたて上げたかったの
だろうが、よくよく考えてみると毎日何百匹か何千匹は知らないが
多くの犬や猫が捨てられ、最終的には処分されている。
こうした殺されている犬や猫には、テレビは同情をしめさない
のだろうか? あまりにも薄っぺらな美談(?)放映に辟易
している。こんなテレビを毎日見ていると人間は本当に
「馬鹿」になる、というのか正確には、テレビ・マスコミに作られた
情報にいつも操られる「操り人形」になってしまうのではない
だろうか。路上に寝ている多くのお年寄りの存在には目をつぶり、
犬一匹の救出を見て涙を流す。何とも安直な「感動」ではある。


巣鴨の地蔵尊通りに美味しい緑茶を買いに行く。
今日は「4の日」ではないのだが、多くのお年寄りが
きていた。テレビ局の取材も2局あった。
地蔵尊商店街を通り抜け、庚申塚商店街まで歩く。
お茶と海苔の専門店にはいる。渋みの強い
緑茶をと注文。「お茶の渋みと甘さ・香りとお湯の
温度とどんな関係がありますか?」と聞いてみる。
69歳になる店のご主人が『渋みと甘さ・香り』
の関係を詳しく説明してくれる。
庚申塚商店街にお店をだして70年になるという。
父親の代からのお店だそうだ。「お茶や海苔
という専門店はそのうちなくなる運命だ」と言っていた。
色々と話をする。このごろは、本当のお茶や海苔の
味を知っている人がいなくなったので、私たちのような
70年も専門にやっている「プロの出番がない」とのこと。
コンビニで売っている海苔は『海苔のランク』で言えば
最低の質だそうだ。以下、ご主人の薀蓄(うんちく)。
本来おにぎりは握って、荒熱が取れる頃海苔を巻き、
食べると海苔の風味がして美味しい。
コンビニの海苔は最低ランクの海苔なので、美味しくない。
海苔とおにぎりを分離しているのがあるが、あれを
作った人は頭がいい。私の海苔は8段階ランクの中の
1と2を売っている。この海苔の風味を知ってしまうと
コンビニのおにぎりなど食べられない。海苔とおにぎりを
分離したものは、海苔がびちゃとならないうちに食べさせる
というアイディアだ。
昔はこの商店街にも専門店がたくさんあった。
乾物屋でも海の物の乾物屋と野菜系統の乾物屋があった。
油屋もあった。色々な種類の油があり、各家庭では、食用
油を調合してもらって使っていた。
昔は運動会などがある前日は海苔がたくさん売れた。
しかし、今は海苔はあまり売れない。海苔巻きも
おにぎりもコンビニや弁当屋で買って、自分で作る家庭が
なくなってきた。「皆さん、忙しくなったのでしょうね」。
これだけ物が豊かになったのに、皆さん、まずいものを
食べている、というのか、美味しい味そものを知らない
人が増えている。
こんな話を1時間ほどした。この店のご主人の言うとおり
である。

「江戸語・東京語・標準語」(水原明人著:講談社現代新書)
読了。

いわゆる標準語はどのような過程を経て出来たのか?
東京弁と標準語は同じものなのか?

東京語の歴史は家康が江戸に入府した頃から始まる。
家康と一緒に江戸に入った「三河」「駿河」など東海地方
の影響。関東一円の「東国方言」も混じり、更に吉原など
に影響を与えた京・大阪など上方表現も混じり、江戸の
ことがが形成された。参勤交代で全国の武士の共通語
としての江戸語は、武家のことばと江戸商人に丁寧な
言葉が更に混じり発展してゆく。

明治維新で江戸の人口は半減した。130万人いた人口が
26万人に減少。その後、士族が山の手、平民は下町と
色分けされる。
明治政府によって作られた標準語は、「東京山の手の
中流知識人の話ことば」をモデルに人工的に作られた
歴史はある。山の手は明治政府の官僚・役人などが
住んでいた。初めは薩摩、西南の役で薩摩が破れた
後は、長州(山口県)などの人たちが山の手に住んで
いたそうだ。山の手は明治維新の勝ち組、下町は
明治維新で負けた江戸町人が住んでいた。
下町の人々の薩長嫌いもかなり続いたようだ。
江戸の残りは山の手にもあったが、より強く
徳川ひいきの気風が強い、下町言葉を標準語にせず、
薩長など勝ち組が多く住んだ山の手のことばを
標準語にしたという歴史があるようだ。
標準語を浸透させるのにラジオ放送と国定教科書の役割は
大きかったようだ。NHKのアナウンサーの第1回募集では、
山の手に3代に渡って住んでいるということが応募の条件
だったそうだ。ところが実際にはそうした条件に合う応募者が
いなかったようで、最終的には関東一円にまで条件を
広げて採用したとのこと。

特に教育の現場では、全国的に「標準語を話す運動」が
組織されている。昭和15年。沖縄を視察した柳宗悦は
教室に「一家揃って標準語」という張り紙を見ている。
全国的に方言を排し、標準語を使うよう強制。
学校で方言を使うと「方言札」を首にかかられるという
学校も多かったようだ。
山の手と下町も明治以後、大きく変化している。
関東大震災で多くの山の手の人たちが郊外
や地方に越してゆく。太平洋戦争の東京大空襲、疎開で
多くの東京の山の手の人たちが東京を出てゆく。
昭和40年(1965年)。作家の子母沢寛は、江戸以来
東京に住んでいる生粋の東京人は10万人程度と言っている。
1100万人いる東京。本書の結論は、現在、正確な
標準語はない、また、話せる人はいない。東京も
ほとんどの人が他県からの流入組である。
関西語と東京語の二つを「共通語」とした方が良いと
提言している。
本書を読むと明治以来今日まで延々と「正しい標準語とは
何か」との模索を関係者はしてきている。NHKをはじめ
関係団体など。しかし、結局、明治以後、150年かけても
標準語そのものが確定しないで今日に至っているいう
ことである。


投稿者 koyama : 2006年11月22日 15:18

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://koyamamichio.com/mt-tb.cgi/1012

コメント