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2006年11月23日

灰谷健次郎氏の急逝を悼むーー無頼船(ブライセン)藤木社長結婚披露宴

晴天。寒い。夕方小雨。

灰谷健次郎氏の急逝を悼む

結婚披露宴から帰宅したら「灰谷健次郎死去」との報道を
聞いた。以前から具合が悪いという噂は聞いていた。

私は1998年に灰谷健次郎・ベトナム従軍カメラマンの石川文洋
氏とフエのフオンザンホテルで一晩飲んだ。
結果的には新潮社から出版される最後の本となった
「灰谷健次郎まるごと一冊」の取材のためである。
3人で飲みながら色々な話をした。それぞれの生い立ち。
私と灰谷健次郎の生い立ちは似ていた。灰谷健次郎は
大阪学芸大を出て小学校の教員になる。兄の自殺というショッキング
な出来事、そして当時の学校現場をめぐる様々な政治的な出来事
などがあり17年間の小学校教師を退職。淡路島で
障害児の施設を開設。その後、沖縄を 放浪する。
私も教員になり弟の白血病死、父親の死などを経験し、
23年間勤めた教員をやめてベトナムへ行き、ストリートチルドレン
支援を行う。灰谷氏は「小山君と同じ人生だな」と言っていた。
その後、何度か、私的に「子どもの家」を訪問してきている。
江国香織さんなどを連れて。

1999年、私が小学館から「火炎樹の花:ストリートチルドレン物語」
という本を出版した。本の帯びに推薦文が必要ということになり、
沖縄渡嘉敷島にいる灰谷氏に電話をして、
「推薦文を書いて欲しい」とお願いする。
「推薦文だけでなく、朝日新聞に「いのちまんだら」という
コラムを書いているからそこに紹介する」と言って朝日新聞
に私の本を紹介してくれた。

私が灰谷健次郎を知ったのは、「兎の眼」という本を読んでから
である。私はこの本を読んで本当に強い衝撃を受けた。
それまで結構児童文学を読んでいたが、この本は今までの
児童文学と趣がかなり違っていた。主人公が「鉄三」という
小学校のクラスでは「落ちこぼれ」の子どもだった。友達とも
話さない。家に帰ると「ハエ」を飼って「うじ虫」から成虫に
育てることを楽しみにしている子どもだった。
灰谷健次郎はこの鉄三を主人公にし、「ハエ博士」として
クラスや子どもたちの中で一目置かれる子どもとして
描いている。ハエをうじ虫から研究する過程を主人公に
する児童文学を書いたことに私は強い衝撃を受けた。
灰谷健次郎とはどんな人なのか?
1998年に一緒に飲んで、「ああ、こういう人だったのか」
と理解した。肩書きも何も気にしない、ざっくばらんな人
だった。物事の実質を大事にする人、本物の人間を
求めている人のように思えた。
インターネットで灰谷健次郎を検索するとたくさんの
項目が出てくる。灰谷健次郎が各地で講演会を
している。その速記が載っているが、結構私のことを
紹介してくれている。「アメリカ嫌い」という単行本が出た。
其の中でも私を紹介してくれていた。私は知らなかった。
ベトナム事務所の税田さんに本をもらいはじめて知った。

今、日本の教育は大きな問題を抱えている。
いじめ、自殺、有名校への進学を競う・・・・・。
結局、学校が子どもたちを「人間」としてみない
そんな学校になっている。中学は進学高校に
何人入学させるかが「良い中学校」と評価され、
高校は何人東大・京大・国公立・早慶に入れるのか
で評価される時代である。こどもたちの人間性は
ほとんど鑑みられない時代である。
そんな時だからこそ、灰谷健次郎の文学は光り
輝くのである。有名進学校には到底入れない「ハエ博士」の
鉄三を暖かい眼で見守る灰谷健次郎の眼はそのまま
今の教育・学校・教師に求められているまなざしでもある。

哀悼

朝からメール受信・送信。
午前8時半、自宅発。午前10時、池袋で太平観光北垣会長
と懇談。午後12時半まで。
北垣会長とは1994年2月に初めてお会いした。私がフエに
入って6ヶ月後である。それから12年。全く変わらない支援と
お付き合いをしてくれている。年金を全額寄付してくれての
奨学金贈呈(年間200万円)。フエ医科大学にはこの10年間
毎年100人以上の生活困難な医学生に奨学金を贈呈している。
既に多くの卒業生が山間僻地の診療所に赴任し、地域の
医療に貢献している。

午後1時、水天宮で帯広の芳村さん、JASS里親担当の
渡辺さんと懇談。午後4時まで。
芳村さんは1997年のテレビ東京の「ドキュメンタリー人間劇場」
をご覧になって支援者となってくれた。それ以来9年間の
お付き合いである。現在障害児の里子のH君と更に5人の
障害児を大学卒業まで支援する「暖炉基金」を創設。
障害児の支援を行っている。今年、暖炉基金の障害児奨学生
が看護師学科、フエ農具大学に入学している。
渡辺さんは、1995年に私が勤めていたフエ師範大学の
日本語教師に赴任。それ以来、10年間以上、里親担当として
里親ー里子の結びつきのお世話などを続けている。
とかくこうしたボランティア支援は、浮き沈みがある。
それは仕方のないことであるが、10年間もの間、一貫して
支援活動を継続することは、並大抵のことではない。
お二人に感謝する。

急いで「汐留」へ。IT企業無頼船(ブライセン)の
藤木社長の結婚披露宴に参加。
披露宴は汐留「コンラッド東京」で盛大に行われた。
午後5時半から。藤木社長は私の活動を支援するということで
フエの若者を日本へ招待し、日本語学校・コンピュータ学校、
そしてブライセンの会社での研修と一人7年間もの長期に
わたる研修を無料で行ってくれている。現在、2名のベトナム
からの研修生が藤木社長のお世話になっている。
来春に更に「子どもの家」卒業生など2名が訪日しお世話になる
予定である。

午後5時半からの結婚披露宴は、100人の友人・知人が
参列。

新郎新婦入場

新郎新婦の晴れ姿


新郎・新婦ケーキ入刀

新郎・新婦と小山

結婚披露宴にはベトナム事務所のラームさんの弟の
ホアン君も参加。隣の席で2時間ほど話す。
元気に仕事をしているとのこと、弟のトアン君も元気に
やっているとのこと、安心する。

フランス料理のフルコースをご馳走になり午後9時半にお開き。

自宅着午後10時半。

さすがに今日は懇談があり疲れた一日だった。

今日は私の誕生日。ベトナム事務所の皆さんから
誕生祝いのメールあり。感謝。
福島の孫から電話あり。「誕生日おめでとう」の
言葉が何よりの疲労回復剤。

新郎・新婦は私の何回りか下の「猪」年。来年は
「猪突猛進」。

投稿者 koyama : 2006年11月23日 21:31

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