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2006年11月20日

自宅で仕事

雨のち曇り

やはり寒い。

16通のメール受信。17通のメール送信。

VIC久野社長より連絡。Sドレスの社長・部長無事帰国
されたとのこと。

太平観光の北垣会長より電話。一度会いたいとのこと。

元JASS代表の平野先生と電話で話す。
明日、夜会うことになった。

京都青年会議所(京都JC)の方から電話。
12月始めに ホーチミン市に行く。IT関連の仕事を
ホーチミン市でしているので「子どもの家」の子どもたち
の就職など相談したい。其の時期、 ホーチミン市で会いたい
とのこと。有難いことである。

一日、読書。

「軍旗はためく下に」(結城昌治著:中公文庫)読了

結城昌治氏は1970年本書を書き上げ、第63回直木賞を
受賞している。
本書は事実を基にしたフィクションである。
戦争というものが、いかに理不尽なものなのか。
人間を人間としてみない最大の犯罪であるということを
結城氏は訴えているように思えた。
昭和16年に東条英機陸軍大臣・首相が作った「戦陣訓」
に基づいて、処刑された下級軍人の話である。
本書は5つの章に分かれている。

第1章は「敵前逃亡・奔敵」。
『生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪禍の汚名を残すこと
勿れ』(戦陣訓より)--「戦場で捕虜になってはならない。」
(陸軍刑法76条)
党予シテ故ナク職役ヲ離レ又ハ職役ニ就カサル者ハ先ノ区別
ニ従テ処断ス。
1 敵前ナルトキハ首魁ハ死刑又ハ無期懲役若ハ禁固ニ処シ
其ノ他ノ者ハ死刑、無期懲役若ハ7年ノ懲役又ハ禁固ニ処す。
(趣旨:理由なく持ち場を離れたり、任務に就かなかったものは、
処断する。敵前の場合には、首謀者は死刑、無期懲役、禁固。
その他の者は死刑、無期懲役、または懲役7年、禁固刑。)

中国の占領地。実際には共産軍(八路軍)が支配権を持っている。
伍長が占領地の村に好きな女性が出来る。そこに通っているうち
に、帰りに共産軍と遭遇。負傷し、自決を図るが果たせない。
女性の家で気絶しているところを共産軍の捕虜となる。そこから
脱走し、日本軍憲兵隊に自首する。伍長は、共産軍に捕虜に
なったもののそこを脱走して日本軍に戻ったので何も問題ない
と思っていたが、軍法会議にかけられ「敵前逃亡・奔敵」罪で
死刑。死刑に前夜に首吊り自殺。
東条陸相の名で戦場に下達された「戦陣訓」以降、捕虜になること
は許されず、戦闘中捕虜になったら「自爆」するように強要された。
アジア・太平洋戦争では兵士は手榴弾をもたされ、捕虜になる時
には自爆を強要され、多くの日本軍兵士が自爆していった。

しかし、戦陣訓を出した張本人の東条英機自身は「連合軍」の
捕虜となり、A級戦犯として処刑されている。(自殺も失敗)

第2章(従軍免脱)
敵前逃亡罪。従軍を逃れるため、疾病を作為したり、
身体を毀傷したりした場合、敵前なら死刑又は
無期懲役、もしくは5年以上の懲役。

中国の占領地。兵士が大隊長の当番兵として勤務。
大隊長は自分専用に中国人女性を囲い、酒色に
おぼれている。前線では食料も弾薬もないのに
後方の大隊長や将校連中の腐敗堕落に怒った
兵士。薬指を切って血書を書き、大隊長や将校などの
腐敗堕落を師団長に訴える。しかし、薬指を切ったのは
自傷行為、すなわち「従軍免脱」となり、軍法会議、即日
死刑が執行された。

第3章(司令官逃避)
「陣地は死すとも敵に委することなかれ」(戦陣訓)
陸軍刑法42条
司令官敵前ニ於テ其ノ尽スヘキ所ヲ尽くサスシテ
隊兵を卒キ逃避シタルトキハ死刑ニ処ス

フィリピンのバギオ島。戦争末期。連合軍が島の
近くまで接近。ある中隊が海岸付近の守備を命じられる。
補給もなくなり死傷者続出。飲料水のある所へ一時避難
するよう中隊長は命令をだす。そこへ連隊副官がやってきて
「守備を勝手に放棄した」として中隊長を部下の面前で
滅多打ちにする。「何故、死ぬまで戦わなかった、ここで
腹を切るか軍法会議だ」。
中隊長は命令なのでもとの守備陣地に戻るが、中隊は全滅。
他の中隊は他の副官などの命令で後退し無事。
一人の副官の独断的・恣意的な命令で多くの軍人が
死んでいった。この副官は戦後、復員してアメリカ軍の
出入り商人になり大もうけ。「鬼畜米英」と叫んでいた
連隊副官が一夜あけたら米軍に取り入っている。
こうした馬鹿なことがまかり通るのは天皇が下した
軍人勅諭に「上官の命を承ることは実は直に朕が命を
承る義なりと心得よ」とあるところからきている。

第4章(敵前党与逃亡)
第5章(上官殺害)

今、憲法9条を改悪しょうと言う動きが出ている。
もう日本には戦場で戦った人は極少数となった。
戦争の実態を知らない世代ばかりである。
80歳の方でも敗戦時20歳である。
本当に戦争の体験をしている人たちは、既に
90歳を超えている。明治末に生まれた方は
ろ溝橋事件の時(27歳)、日米開戦・真珠湾攻撃の
時(31歳)、敗戦(35歳)である。これは私の父親の
略暦であるが、この世代が典型的に示すように
日中戦争が始まったのは27歳、太平洋戦争開戦が
31歳、敗戦が35歳。正に青春そのものが戦争と
共に過ごした世代であるが、既に96歳になっている。

戦争を知らない人々が「戦力保持」などと勇ましく
叫んでいるが、私たちはもう少し、落ち着き、戦争の
実相、戦争とはどんなものなのかを知る必要が
あると思っている。幸い、戦後、多くの「戦争文学」が出ている。
「軍旗はためく下に」も2006年7月に改版発行している。
最近、中央公論(中公)では、「文学と戦争シリーズ」として、
10冊近くの復刻版を出している。

アフガンでもイラクでも戦争の実像はあまり変わって
いない。結局は「人間が人間を殺す」という犯罪行為である。
戦争という現場に生きると人間は人間でなくなるということを
多くの文学が教えている。
私は高校の頃、五味川純平の「人間の条件」を読んで
戦争の本質を知ったような気がする。人間から全ての
人間性を奪い去るものが戦争である。勝っても負けても
戦争は人間を抹殺するものである。
どの時代のどの戦争も「お偉いさん」は決して前線には
いかないのだ。一般庶民がいつも割を食うのも戦争である。
私たちはいやいやながら戦争に行かされた、戦争の被害者だ
と言うことは出来ない。なぜならば、今日の日本では
戦争に反対する権利と自由はまだあるのだ。戦争に
つながるあらゆるものに反対する行動をとらずに
後で「戦争は反対だった」「自分は戦争の犠牲者だ」という」のは、
卑怯な態度である。孤立しても何でも戦争に反対することが
必要である。

投稿者 koyama : 2006年11月20日 14:38

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