« 槌谷「憲一さんの告別式に参列 | メイン | 「京滋YOUの会」子どもたちとの交流会:日本料理店会議等 »

2012年08月05日

亡母「小山まつ」一周忌:「京滋YOUの会」との交流会

フエは、快晴。 A10 気温38度  湿度52%(日陰)

午前7時起床。昨夕買った「ベトナムほか弁」の残り半分を食す。

午前中、メールの受信・送信。

新しくパソコンに入れた「ウインドウズ7」にSKYPEをインストールする。

午前中は、洗濯と部屋の掃除。荷物の整理。

8月、9月、10月のスタディーツアーの確認・調整を行う。


昼食の食欲がなく、摂らず。

午後も第2回目の洗濯。


読書「マルティン・ルターー言葉に生きた改革者」
(徳善義和著:岩波新書)を読了。

キリスト教のプロテスタントがどのような歴史と基本原理で成立した
のかを知りたくてこの新書を読む。
ルターが、当時、最高の学者だったことが分かる。

「プロテスタント」という言葉自体は、カトリック系学者が
「何でも反対する奴等」といい、否定的な意味合いで使われ
始め、後にルター派自身も使うようになったとかかれていた。

ルター自体は、裕福な家庭としてドイツのザクセン地方で
育ち、当時の最高学府で宗教博士となる。

唯一絶対の権力と「理論解釈権」を持っていた教皇に
対して「95箇条の提起」を行い、異議申し立てを行う。

宗教論理と時の政治。特にキリスト教支配・ローマカトリック
支配地域の国王や領主とローマ教皇との戦いもその裏には
あった。一読の書ではある。

午後3時半、ホーチミン市に「京滋YOUの会」ツアーを出迎えに
行っているソン君から電話あり。

今日午後8時半ごろ、「京滋YOUの会」の皆さんはフエに着くが、
その後、レストランで食事をするので一緒に食事をして欲しいとのこと。

しばらくメール等の整理を行う。

ーーー
午後9時20分「今、フエ空港からレストランへ行く」との
電話がソンくんからあった。宿舎を出て、市内の「レストラン」へ行く。

「京滋YOUの会」の皆さんとフエ市内のレストランで
合流、夕食・飲み会。



今本さんたち「京滋YOUの会」のみなさん



中条さんご夫妻

茨城から参加。何年間も日本料理店に箸の包み紙を
寄贈してくれている大沢さん。


前回も参加した京都「T旅行」の娘さん



東京から参加した秋山さん。
「京滋YOUの会」のMさん、Uさん



左 「京滋YOUの会」事務局長の藤井さん



ホーチミン市からフエまで案内したソン君。

「京滋YOUの会」の皆さんと飲みながら「母親」の一周忌を
一人、心の中で行う。


午後11時過ぎ、「京滋YOUの会」との夕食会は終了。
宿舎着、午後11時半。

その後、火炎樹日記を書く。
==========================

1912年8月5日生まれの亡母は、昨年8月5日に99歳で
死去した。今日は、亡母の一周忌。
私の仕事の関係で、7月・8月・9月は多くのスタディーツアーの
皆さんが「子どもの家」などへ来訪される。その案内等で忙しい。

亡母の一周忌法要は、既に6月に行っている。少し早めでは
あったが。

亡母が生きていたら今日で丁度、100歳である。長生きと
いえる。亡母の父親(私の祖父)は、1854年、日米和親条約が
結ばれた江戸時代末期に生まれている。明治維新(1868年)
のときは、14歳であった。母親は江戸時代の空気と人間の
生き方をしっかりと身につけていたと思える。
その後、明治の精神、大正デモクラシーの精神も庶民と
して自然に影響を受けている。
第2次世界大戦・アジア太平洋戦争にも関係し中国で生活。
長男を引き上げの途中で亡くすという大きな時代の流れに
飲み込まれてきた。
戦後の復興と工場の倒産、隣の家の失火で家が全焼する
という経験もしている。兄の後、1964年7月東京オリンピックの
3ヶ月ほど前に夫(私の父)を52歳でなくす。1966年11月には、
高校1年の3男(私の弟)を急性白血病でなくす。

といった「時代」の影響を受け、時には、翻弄され、戦後の
高度成長期の恩恵も多少は受け、孫を育てるという経験もし
人生を終わっている。

私は亡母の人生から第1に「戦争には絶対反対」という精神を
学んだ。戦争をして死んでいくのは、庶民である。偉そうに
お説教をたれている高位高官の面々は、土壇場でみんな
逃げていった。

陸軍大臣だった東条英機は「戦陣訓」をつくり
「死して虜囚の辱めを受けず」と軍人や若者を教育した。
多くの国民は、「白旗を揚げて降伏」をせずに、自刃・自死している。

戦後、東条英機は、極東軍事裁判に訴追されたと知るや
ピストル自殺を「敢行」したが、致命傷にならなかった。

東条英機の作った「戦陣訓」でどれだけ多くの兵士、一般市民が
自死したり「自死を強要」されたかを考えると、戦争は何があっても
絶対反対である。

亡母から学んだ第2の教訓は、どんな困難な環境であっても
あきらめずに「コツコツ」と努力しよう、すべきだとの考えである。

第3番目は、「貧しい人」「困っている人」に寄り添い生きていくと
いう庶民の人生観である。

今日、ベトナムに住んでこのような活動をしているのも
損得ではなく、亡母の無言の「遺訓」を実践しているだけ、と私は
思っている。
そして、近いうちに亡母のいる「彼岸」「西方浄土」とやらへ、私も
行くことになるのである。現在は、西方浄土に行く準備中といっても
過言ではないと思う。

亡母は、夫を亡くし、かわいい長男・三男を亡くしている。
残った男子は、私だけである。亡母が、橋下大阪市長に
禁止されている
「刺青」を腕にするのなら「道夫命」と彫るのだろうな、などと思っている。
私の人生と成長に大きな期待を持っていたと今では推測できる。

私が母や父の期待した人生を歩んでいるのかどうかは分からない。
勝手な人生を生きているというのが正解かもしれないが、
それでも多少は父母の思いの一部ではあるが、その期待する
生き方をしたいるのかも知れないというかすかな気持ちを
持っている。

などと書きながら、更に宿舎での飲酒が続く。既に午前0時半。

ラオディーの「ラム酒ブラウン」を『適量』(自分の判断だが)飲んでいる。
おいしい。この味を経験できない読者の皆さんには申し訳ない。

最後の仕上げは、静岡県袋井市の「国香」。
これを飲まないと1日が終わらないのであるが、それは贅沢という
もの。毎日飲めるほど、ベトナムには、「国香」はない。
「韓国のり」が何ともいえない味を出している。

明日は、午前8時からベトナム事務所で「京滋YOUの会」の
皆さんとベトナム事務所員との顔合わせがある。


亡母の無言の「遺訓」をわが子どもや孫たちがどれだけ受け止めて
いるのか? 時代は変わっても人間の本質と生き方の根本は
変わっていないと信じたい。

「亡母一周忌に思う」心の一端であり、盛大な行事をしなくても
心の中で追悼の気持ちを持っている証しとしたい。


就寝午前2時。


投稿者 koyama : 2012年08月05日 12:04

コメント