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2011年02月08日

自宅

雪が降るような寒さ。

バオミンさんとメール連絡。岡山大スタディーツアーの件。

明日お会いするある起業家の方に渡すJASS関連の資料を準備。

新しく買ったデジカメの使用書を詳しく読む。
2月10日からバオミンさんやフエ市人民員会一行が来日する。
それまでに新デジカメの使い方を覚えておく必要あり。

バオミンさんやフエ市人民員会一行の宿泊するホテルの
リコンファーム。

衆議院予算委員会の質疑応答を見る。

財政と福祉がテーマ。

読書「戦後落語史」(吉川潮著:新潮社)


どうしてもの外出の際は駅近くの本屋に必ず寄る。
現在、ベトナムで読む本18冊を何度かに分けて買う。


2月10日現地報告会参加希望の方より参加したいとの電話。

江平さんの奥さんから電話。旦那さんが90歳でお亡くなりに
なったとのこと。お悔やみを申し上げる。
江平さんは、昭和20年(1935年)クアンビン省に陸軍兵士と
していた。当時、ベトナムは日本の占領下にあった。
江平さんはクアンビン省にある『駅』の警備を命じられ
駅の守備をしていた。突然、アメリカの飛行機が飛来し、
機銃掃射。江平さんの腿(もも)を貫通。
地元ベトナムの赤十字病院に運ばれ、片足を切断。
そのお陰で一命を取り留めた。
その後、日本へ帰国。杉並区の傷痍軍人会の会長・
杉並区の障害者の会の会長を務め、障害者の
生活と権利を守る運動を進めていた。

10年数年前、何としても1945年米軍の機銃掃射で片足を
切断してくれたベトナム赤十字の医師にお礼を言いたいとの
強い思いを持っていたが、ベトナムへ行く方途がなかった。

丁度その時、内田さんがテレビで私の活動を知り、
ベトナム行きを決意。内田さんのベトナム行きは、
内田さんの生まれたサイゴンの生まれた場所を知りたい
との思いで、鷺の宮駅前の本屋へベトナムのガイドブックを
買いに行った。

江平さんは、その本屋のご主人であった。
ベトナムのガイドブックを買いに来た内田さんに
「どうしてベトナムのガイドブックをかうのですか?」との
質問から、ベトナムに私が住み、ストリートチルドレン支援
活動を知り、私を通して、1945年当時の」クアンビン省の
赤十字の医師を探して欲しいとの依頼を受けた。
私がフエ師範大学で日本語を教えた生徒の父親が
クアンビン省の共産党の幹部だった。急いでその卒業生に
連絡し、1945年当時、赤十字病院で江平さんの片足を
切断し、命を守った医師を探してもらう。
医師は亡くなっていたが、奥さんとその時の看護師が生存
していることが分かり、江平さんは、戦友会の方と
松葉つえをつきながらベトナムのクアンビン省へ行き
手術をした医師の奥さんと看護師さんに数十年前の
お礼を述べた。江平さんは、私を通して、足の手術を
すれば歩けるようになる障害児の手術費用として
数十万円の寄付を預けて帰国。
フエ中央病院・フエ医科大学と相談し、足の悪い
障害児を紹介してもらい手術を行う。手術は成功し
3人は歩けるようになる。
その後もクアンビン省を訪問し、お礼を言う旅を
行っている。
先日、90歳でお亡くなりになられた江平慶司さんの
ご冥福をお祈りする。

読書「戦後落語史」(吉川潮著:新潮社)読了。

戦後東京の落語史。落語協会と落語芸術協会の対立。
三遊亭円生一門の分裂脱脱退。談志一門の脱退。
何人かの人とは付き合っていた。
著者は私と同い年。かなりはっきりと物事を書いている。

三平の長男こぶ平が正蔵を、次男が三平を継いだが、
噺が「下手」とはっきりと書いている。私が子どもの頃から
現在までの落語家・色ものの芸人さんがでている。
全ての人をリアルタイムで知っている芸人さんなので
懐かしい。ラジオやテレビでバカバカしいことを言っている
裏で、芸人さんも人間。ドロドロとた人間の欲望と確執
があったのだ。

投稿者 koyama : 2011年02月08日 15:45

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