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2009年01月23日

北垣さんと懇談  高校クラス会

曇り  寒い

午前11時。池袋で太平観光会長の北垣さんとお会いする。
東口の喫茶店で1時間半ほど話し合う。
その後、東口西武の8階へ行き、軽くビールを飲みながら
話す。北垣会長は、私がフエ行って「最初」の支援者である。
1993年9月にフエへ行き、10月11月と2ヵ月間毎日雨が降り
大変な所へ来たなと孤独な中で将来への大きな不安をもちながら
生活し、1994年1月末頃、5ヵ月ぶりで日本へ帰国した。
その時、北垣会長(当時社長)から「ベトナムのことを知りたい」
とのことで私の友人の紹介で池袋西口の東方会館でおあいしたの
が始まりだった。私がベトナムへ行って最初に帰国した時、最初に
お会いし、当時、日本にほとんど情報のなかったベトナム情報を
話したのが出会いだった。それから16年。フエでの活動には
紆余曲折があった。3回にわたる「国外追放」攻撃。
その他諸々の問題があったが、北垣さんは全ての事情を知り、
私が直面した様々な問題を知っている。そして、一貫して
「子どもの家」や私のベトナムでの活動を支援してしてくれている。
この10数年間、毎年200万円もの大金をフエの学生に
奨学金として支援してくれている。
船上生活者の子弟の多い「フールー小学校」「ハイバーチュン高校」
「コックホック高校」「フエ医科大学」(100人)などへの奨学金支給を
続けてくれている。既に多くの学生が医者になり山間僻地などで
医療活動を行っている。
結局、グラス3杯のビールを飲む。午後3時半まで話し合う。
北垣会長のフエの貧しいこどもたちへの支援の原点はその
生い立ちにあった。
大阪堺の「北垣製薬」という「田辺製薬」と同じ位大きな製薬会社
のお坊ちゃんだった北垣さんである。諸般の事情で会社が
傾き、倒産。中学からは、親戚の4畳半の家で母親・妹などと暮らして
いたとのこと。戦争が終わり、敗戦という困難がさらに北垣さんの
身の上を襲った。貧しさを乗り越えて京都大学に入り、アルバイトを
しながら勉学に励み、今日にいたっている。貧困に苦しんでいる
こどもたちへの共感はこうした北垣会長の生い立ちと人生そのもの
にあった。私の生い立ちと人生とも共通しているところがある。
午後3時半に解散。

午後6時30分、高校のクラス会。秋葉原の古い料理屋へ。

高校のクラス会は1年間に3回位は行っている。
幹事のような役をやってくれているG君がこまめに
準備・連絡・会場取りなどをしてくれるので、こうして
毎年3回~4回ほどの会合を開くことができる。
G君に感謝。
毎回参加しているY君やS君はラオスでラム酒の
工場を造り、現地の人々の支援を始めている。
今日は、ラオスにいるとのこと。
今夜はキューバに住んでいるMさんが和服で参加。
我がクラスは高校3年間クラス替えがなかった。
18歳からの付き合いである。43年間もの付き合いとなる。
ラオスに3人、ベトナムに私、キューバに1人と5人もの
クラスメートが海外で暮らしている。
昔話やらこれからの人生などを4時間ほど話し合う。
ビール、日本酒などを飲む。午後10時半解散。



自宅着、午後11時半。かなり飲みすぎ。しかし、43年間の
空白を感じさせない楽し4時間であった。それぞれの人たちが
これからの人生を有意義に行きようとしていることもうれしい
こである。とかく「団塊の世代」と十把ひとからげで呼ばれて
いるが、
私個人としては「団塊の世代」とひとまとめにされることには
違和感を感じている。
70年代安保闘争を経験した人たちである。今夜の参加者
の多くは何らかの形で学生運動も経験している。
当時、過激に石などを投げ棍棒を振り回した人たちほど、
卒業後の「方向転換」も早かった。今では自民党の町村派
会長など、多くの「過激に運動した人」たちは、その後の
人生も「立身出世」の道をひた走りに走っている。
今夜集まった8人のクラスメートは、それぞれ地道に
この48年を生きてきた。誰一人いわゆる世間でいう
立身出世をした人はいないが、みんな、貧しい人の
立場にたち、世の中を変えたい、みんなが幸せになる
世界を作りたいとの気持ちをもって生きてきている。
我が高校の校風、特に我がクラスの「風土」の影響
が強い。参加者8人全員の健康を祈りたい。
2月にラオスに行く仲間がいる。6月頃、みんなで
ベトナムへ行こうとの話も出ている。

投稿者 koyama : 2009年01月23日 11:05

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