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2006年11月13日

終日自宅

晴天

午前10時まで読書。

午前11時半、散歩も兼ねて高島平団地内商店街へ。
ほうれん草三把100円、ブロッコリー2つ100円、
大振りサトイモ7個120円を買う。7月の日本滞在中は
野菜が異常に高かったが、今日はとても安い。
とにかく安い野菜を買う。マグロぶつ。

野菜を茹でる。キヌカツギを作る。
ブランチ。

家から徒歩5分の中古本屋「BOOK OFF」へ。何冊かの
興味ある古本を買う。新品同様の本が定価の半額。

午後、「戦中派の 虫けら日記」(山田風太郎著:ちくま文庫)読了。
600ページ。
山田風太郎は「くの一忍法」「甲賀忍法帳」などの作家だという
程度の認識しかなかった。
この本は昭和17年から19年(1942年から1944年)までの
山田風太郎の日記。風太郎の父は兵庫県但馬の医師。
風太郎が5歳の時父親死去。母親も風太郎が14歳の時死去。
中学2年で天涯孤独の身となる。その後、親類の
家を転々とする。
1942年(昭和17年)20歳から44年22歳までの日記。
親類の家を家出して東京に出てきての2年間、敗戦前年までの
東京での生活が日記に記されている。
1年間、東京で浪人生活をするが、親戚からの支援もあまりなく
苦労。勤労動員で沖電気で軍需品を生産する。
1年後に現在の東京医科大学に入学する。
その時点では学徒出陣、勤労動員、文科系・理系も徴兵猶予を
解除され戦場に行っている。医学生のみ徴兵を猶予されている
という状況だった。
20歳の風太郎は医学校受験を目指しながら、全く勉強をせず
文学を読みふける。毎日何冊もの本を読んでいる。
1944年9月17日の日記には「「1箱のマッチ大にして、米英
艦隊を一挙に粉砕飛散せしめるウラニュームの原子爆弾、
あるいは成層圏を飛ぶ航空機すでに日本に完成せりとの
噂あり」とこの時点で原爆製造計画を知っていた。
1944年10月2日日記「今夜中秋名月。魚住食堂には
徳利にすすきをさし、籠に柿、さらに野球のボール大の団子を
盛りて、往来の人々の唾液腺刺激することおびただし。
入れば今日はのおかずは卯の花のみ」。
日本の敗戦半年ちょっと前の東京でも中秋の名月の
飾りをしていたのも意外だった。

1944年10月14日「マッチなきため、このごろタバコは
レンズを以って点火す」とあり、物資の極端な不足状況が
分かる。

風太郎青年は対米英戦争への必勝、皇国の必勝を
信じている。これは人間は時代の制約から逃れられない
ことを示しているのかもしれないが、同時に戦争そのものに
懐疑的でもある当時の青年インテリの実態をも書き残している。

11月30日に日本橋・神田あたりが米軍の空襲を受ける。
1944年11月1日の日記である。
「神田・日本橋あたり、三千軒以上焼けたる由。真かデマか。
話は段々大きくなる。別に見に行く気もせず。行ったとて
何百軒焼けたかは測量し得るものにあらず、されど
大本営の『我方の損害軽微なり』の文句と事実との関係
ほぼぼのみこめたり。『軽微』は相当のものなり。」
として、大本営発表のウソをはっきりと見抜いている。

この頃都民の中での厭戦気分もかなりあったようだ。
1944年4月11日の日記。
食料が異常に不足、都民は食べ物がなくなっている。
「昼、雑炊食堂に並ぶ。裏長屋のおかみさんや人夫たちの
、延々たり路地の間の行列。そして巷の政談。
軍人政治はイヤだ。大衆に一つも同情がない。東条さんも
1日2合3勺で1週間くらいやってみるがいいという。
もう戦争よりも食う方が心配で、1日に3時間も毎日
行列しなければならない。ぜいたくは言わないが、
せめて家で食うだけで何とか我慢できるくらいにして
欲しい。」。
「靖国神社に行ってみる。・・・青銅の大鳥居は
姿を消して木の小さな鳥居に変わっている。
英霊への敬意もさることながら、皇位高官のむきから
贈られる饅頭・菓子・紅白の餅・ビール・正宗などの
お供物の山にも敬意を表せざるをえない。
浅ましい心情である。」と政府・軍部高官の
贅沢を非難している。

当時の東京医科専門学校の教授の冷徹な態度も
記されている。
1944年6月3日の日記。
大学講義での教授の発言を書いている。戦争への批判的態度
乃至は厭戦的な空気が窺える。
「解剖学の佐野教授。教練や勤労奉仕で学生の学力が低下すると
気をもんだのは昔の話だ、今はもう学力低下は当たり前のことで、
そのうち、工場の機械の中で諸君に脈管系統でも教えることに
なりましょう」(これは政府・軍部への嫌味)
「内臓学井上教授。このごろはもう唾液腺もすっかり厄介もの
になってしまいました」(食べ物がなく、直ぐに唾液がでてしまう)
「化学の小山教授。ムチャでも何でもこれが文部省の命令なんだから
、文部省はすっかり右翼になっちゃてるんだから・・・」
「医化学三坂教授。何しろ1年生から臨床をやらせろってんですから
文部省の考えることは私など見当もつかんです」
「数学の青野講師。実数は公定です。しかし、こればかりでは
とうていやっていけない。どうしても闇が必要です。それが
すなわち、虚数です。」(闇物資が横行していることへの皮肉)
「生理の久保教授。今年から体力測定の方法が変わることに
なったんですが、文部大臣はメートル法ではなく、尺貫法を
使えと言って承知しないのだ。」

1944年12月17日の日記には、「ドイツは遠からず刀折れ、
矢尽きん。ソ連の勝つも負くるもぶきみに沈黙しあるは、
恐ろしきものなり。実に将来は米ソ暗闘の世界とならん。」
戦後の米ソ対立を予想しているところなどは慧眼。

敗戦1年前の東京の大学で、このような政府・軍部・戦争への
批判的言辞を弄していることは驚きに値する。

1942年から44年までの庶民の生活の様子が手に取るように
分かる。馬鹿な戦争をしたものだが、国民全部が戦争に躍起に
なっていたわけでもなく、風太郎青年のように天皇のために
死ぬべきだといいつつ、戦争にはかなり距離をおき、批判的
冷徹な面持ちで見ている人がいたことを知る。


投稿者 koyama : 2006年11月13日 20:40

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