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2006年11月03日

神戸港入港 出航式

晴天。少し暖かくなってきた。

午前7時半ピースボート船室で起床。昨夜は熟睡。
午前8時半朝食。パンとヨーグルト・ハム。

船内で読書。
「会津藩VS長州藩―なぜ怨念が消えないのか」
(星亮一著:ベスト新書)を読む。

会津藩は2代将軍徳川秀忠の子ども保科正之が初代藩主となり
葵(会津葵)の紋どころ。徳川将軍の東北地方のお目付け役という徳川家康の孫、徳川家直系の家柄。
幕末会津藩主松平容保(かたもり)は京都守護職に就き、勤皇攘夷派を厳しく取り締まる。新撰組も会津藩の傭兵として長州藩士の徹底的な弾圧に乗り出す。
長州藩は関が原の戦いでは、西方の総大将。徳川方に敗北し、大幅な領地削減となり、徳川時代は「臥薪嘗胆」の時代。徳川家に怨念を持っていた。
鳥羽伏見の戦い、そしして奥羽越列藩同盟軍と新政府軍との戦い(白虎隊の戦いも含む)があり、会津藩はいわば「特攻隊」的な敗北で明治維新を迎えた。その後、140年近く経った今も「長州(山口)と会津(福島)」は和解の気持ちに至っていない。著者はその歴史的背景を分析し、両者の和解を模索している。
1996年会津若松の劇団が市民劇『早秋賦』を創作。山口県の萩市長を会津若松に招待するという「和解工作」があったが、「両市長はお互い最後まで握手することもなく、結局歴史的和解ははたせなかった」(1996年12月12日号週刊新潮)
1998年、「戊辰戦争130年 IN 角館」というイベントがあり、
福島県・会津若松市長、山口県・萩市長が壇上に上がったが、
会津若松市長は「延々と会津に攻め入った薩長軍の残虐行為を非難。
 会津では薩長軍を官軍とは呼ばない、西軍と呼ぶ。白虎隊が戦った戦争では、会津の人口6万人が1万8千人に減少。薩長軍の大変な虐殺があった」と発言。

2003年、福島市の雑誌社「財界21」主催の「会津藩と長州藩の和解をめざすシンポジューム」が会津若松市で行われた。
パネラーの早乙女貢が「近藤勇ら新撰組が京都を火の海としようとした長州の浪士を切ったのは当然」「吉田松陰には本気で国の将来を憂える考えはなかった。その門下生が明治の元勲となり、酒池肉林の破天荒な生活を送った」と発言。
山口県萩市長が「明治の元勲は命がけで戦った。・・・・・萩から千何百キロもかけてやってきた。」と対立感情がぶつかり、両者とも本格的な和解に至っていない。
故郷も帰る「ふるさと」も持たないない私のような人間にとって、140年間もの間、会津と長州が対立感情を持ち続けていることが理解できない。


午後12時、ピースボートは神戸港に入港。300人程の人々が神戸港から乗船。

12時半、昼食。カレーライス。


午後2時40分。「第55回ピースボート神戸出航式」。
多くの見送りの人たち。船上860人が一つとなり出航式。

どういう訳か私が出航式の乾杯の音頭をとるはめになってしまった。



今回の乗船者の最高齢は95歳。素晴らしい。

午後3時過ぎ沖縄那覇へ向かって神戸港を出港。

投稿者 koyama : 2006年11月03日 15:31

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