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2014年02月09日

ホアさん・ヒエウさん結婚式

午前6時起床

昨日の夜、日本料理店の子どもたちが作ってくれた
お弁当(昨夜半分食す)の残りを食べる。

午前8時前、宿舎を出て、近くの道路で待っている。
午前8時過ぎバオミンさんが車で迎えに来てくれる。

今日は、大安吉日。結婚式が集中している。
「子どもの家」卒業生で、現在も「子どもの家」付属
刺繡みやげ物店で仕事をしている「HOA(ホア)さん」
と「子どもの家」卒業生で日本料理店店員の
「HIEU(ヒエウ)さん」の結婚式がある。

午前8時過ぎ、バオミンさんと一緒に「子どもの家」へ。
「子どもの家」で寮母さんの「キム・アインさん」
「ロックさん」「ニエムさん」を乗せて、ホアさんの
自宅へ行く。

ホアさんは、12歳で「子どもの家」に入所。
現在24歳。「子どもの家」でミシンと刺繡の研修を
行い、現在も「子どもの家」付属刺繡みやげ物店で
仕事をしている。

今から16年ほど前、事務所がまだフォンザンホテル
前の時代。私は健康維持のため、午前6時から7時まで
事務所からフエ駅まで往復1時間のウオーキングを
していた。レロイ通りにあるフエ市役所隣の公園で
ホアさんとお母さんは生活していた。
私が公園前を通る時刻(午前6時15分頃)になると
ホアさんは、公園前の歩道で、ペットボトルの水で
顔を洗っていた。私は何度も「子どもの家」への入所を
誘った。しかし、母子ともに拒否していた。
1年間ほど、繰り返し「子どもの家」への入所を
勧誘した。やっと、本人と母親も同意し、入所することに
なった。「子どもの家」では小中学校に通いながら
「子どもの家」付属のミシン研修センターでミシンを
学び、その後、刺繡研修センターで刺繡を学んだ。
今日でも「子どもの家」付属の刺繡研修センターで
刺繡の作品を作り、フェリシモや訪問者の皆さんが
買ってくれる刺繡を作っている。

ホアさんは、家庭の事情とベトナム戦争後の
複雑な社会変動で父親が不明で、家もなく
公園に寝て、母親と宝くじなどを売って、その日の
生活を何とか送っていた。
ホアさんは、真面目な性格の子どもで「子どもの家」
で「手に職を付ける」ことを真剣に考え、ミシン・刺繡の
技術を完全に取得し、今日に至っている。


今日の結婚式はベトナムの伝統に則ったもの。
新郎一族が「貢物・お土産」を持って、ホアさんの
家まで訪問し、ホアさん一族の先祖に対して、
ホアさんをお嫁さんにもらう、旨の報告をする
という形式。

新郎が迎えに来る前。ホアさんと弟のルム君。
ルム君も「子どもの家」で生活していた。



「子どもの家」寮母さんのニエムさん(中)
とキムアインさん(左)、刺繡みやげ物店のロアン先生。

最近見つかった「ホアさん」のお兄さん。
ホーチミン市の方にある「ニャチャン」で農民を
しているとのこと。

ホアさんは、種々家庭の事情で「親戚」がいない。
今日の結婚式前の「新郎の新婦家庭訪問」の際に
出迎える親族は、母親と兄と弟。姉も居るのだが
所在不明。

そんな事情もあり、私とバオミンさん、「子どもの家」
スタッフ5人(上記女性3人とロック寮長、警備員さん)が
ホアさんの親族となり、新郎を迎えるという図式となった。

新郎一族を迎えるホアさんの家


ホアさんの家は、ホーチミンーハノイ間の電車の
線路の真下にある。

午前9時前、新郎一族が「祝い物」を持って来訪。


ホアンさん一族の先祖を祭る祭壇に新郎側の「供物」
を贈呈。


先祖に結婚を報告する新郎新婦



新婦側一族。私は新婦の父親役。
真ん中がホアさん。両側が私と母親。

新郎側も父親が亡くなり、叔父さんが父親役。

新郎の母親から新婦に「金のイヤリング」「金の
首飾り」「指輪」を贈呈。


JASSを代表して新郎・新婦へ当面の生活費の
足しにと些少のお金を贈呈。


小学校入学前に「子どもの家」へ入所した
ルム君。

新婦の祖先への結婚報告を終わり、今度は、新郎の
家へ行き、新郎の祖先へ報告へ。両家の親族が
参列。



新郎の家へ。新郎の母親から「お金贈呈」

新婦側の親族(役)。全員「子どもの家」のスタッフ



結婚の儀式を終わり、新郎の家の付近の
レストランの隣の「道路を使った即席レストラン」で
結婚披露宴。

披露宴の式場前に置かれた新郎新婦の写真

新郎とその母親。「子どもの家」スタッフと
バオミンさん

結婚披披露宴。入場する新郎新婦。


「子どもの家」で長年生活し、ミシン・刺繡の
研修を行い、結婚し、刺繡みやげ物店を
退職した「ハンさん」(JASS会員のTさんと
ハンさんの妹のタンさんは結婚している)
は4歳と1歳のお子さんの母親になっていた。
(ハンさん:小山の隣り)

ハンさんは、「子どもの家」を作った最初から
「子どもの家」に入所した子どもである。
2児の母親になっている現実は、20年の
JASSの長い歴史を表しているともいえる。

新郎・新婦とその母親

ワインを使ってのお祝い儀式

午前12時前。ホアさんの結婚披露宴の途中ではあるが、
日本料理店の「HIEU:ヒエウ)さんの結婚式もあるので
中座する。

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午後12時半。急いでバオミンさん・キム・アインさん
ニエムさんと車で「ヒエウさん」の結婚式に向かう。

HIEUさんのご両親と新郎新婦。


「子どもの家」の卒業生が多数参加していた。

ヒエウさんの両親と新郎新婦


ベトナム事務所スタッフと新郎新婦と両親


ヒエウさんは、4歳で「子どもの家」の入所した。
その複雑な事情は割愛する。

4歳で「子どもの家」に入所し、17年間。
「子どもの家」→日本料理店に勤めて今日を迎える。
17年前、4歳のヒエウさんが「ドンバ市場」の近くの
「チャンティエン橋」の下で寝ているのを見つけ、
「子どもの家」に入所させた。それから17年間。
こうして、立派に成人(21歳)し、結婚式を
迎えるようになったことに心からお祝いを言いたい。

「子どもの家」医師タムさん(右端)と財政担当ハンさん。

「子どもの家」でヒエウさんと一緒に生活した
子どもたちが集合。既に自立し「子どもの家」を
退所した子ども・未だ「子どもの家」に居る子ども
もいる。

新郎新婦・両家の両親と。左側がヒエウさんの両親。

新郎新婦・ロウソクに点火。


ワインの儀式


ヒエウさんのご両親と新郎新婦。

座っている右端は「THUYさん」(フエ師範大化学科卒)
真ん中は「NHI(ニー)さん」。


久し振りにNHIさんに会った。随分成長し、大人になった
のには驚いた。現在、ホーチミンで商売をしているとのこと。
茨城県土浦市に住んでいるF夫妻が長年里親をしてくれていた。
こうして成長し、自立して自分の人生を生きているNHIさんの
今を是非、茨城県土浦市のF田さんに見てもらいたかった。

大学時代の同級生D極さんが里親をしてくれていた
チュック君。顔が黒くなり、大人になった。


1992年9月過ぎに「チーラン通り」に最初の
「子どもの家」を作った。その時の子どもも
きていた。現在35歳になる。当時15歳だった。
お子さんを連れて。小さな取り組みではあったが
こうして子どもたちが成長し、普通の市民になっている
様子をみると、意味のある取り組みだったと思える。

「子どもの家」の卒業生


日本料理店長のTUOI(トゥオイ;右)さんと
接客主任のNGUYET(グエット;左)さん
(真ん中二人)


ベトナム事務所・「子どもの家」スタッフと
新郎新婦とご両親

結婚披露宴は、既に後半に入っていた。
ホアンさんの結婚式・披露宴に出たので私と
バオミンさんは遅れてヒエウさんの披露宴に参加。

既に儀式・挨拶部分は終わっていたのだが、
遅れてきた私の一言挨拶をとの要望があった。

「子どもの家」を作って1年後に入所した
ヒエウさん。既に17年の付き合いである。中学を
卒業し、日本料理店のスタッフとして入店。
日本語を勉強し、現在は「在庫管理」「注文結果記録」
調理の仕事をしている。

私からの言葉は、「コツコツと地道な生活と
人生を送って欲しい」と。

新郎新婦と乾杯


「子どもの家」の卒業生
「子どもの家」の門前で自転車修理業をしているフン君。

結婚披露宴終了

ベトナム事務所スタッフ・「子どもの家」スタッフ、
「子どもの家」卒業生


新郎新婦と小山・バオミン・税田・寮母キムアイン
ニエム

新婦ヒエウさんと母親・寮母キムアイン・ニエムさん


午後2時前に終了。

ヒエウさんの幸せな人生を願う。

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ベトナムの結婚披露宴は、頭が痛くなるほど
の高音量のカラオケが延々と続く。

2時間もそんな環境に居たら頭だけではなく
気分が悪くなる。

バオミンさん・寮母のキムアインさん・ニエムさんと
車で帰宅。

帰宅後直ぐに横になり、休む。
非常に疲れる。

今日は改めて20年間の「子どもの家」での
活動を振り返る。ホアさんの結婚式。
17年前に私が何度も誘ってやっと「子どもの家」に
入所。余り勉強は好きではなかったホアさんだが、
ミシンと刺繡には素晴らしい能力を発揮した。
結婚し自立したホアンさん。

4歳の時に橋の下で出会い、「子どもの家」に
入所。諸般の家庭の事情があった。
それでも中学を卒業し、多少の紆余曲折は
あったが、日本料理店で研修積み上げ、
今は一人前のスタッフになっている。

こうして二人の「子どもの家」の卒業生の
結婚式に参加し、JASSの20年間の
役割りはあったと実感した次第である。

JASSの役割りは子どもたちの能力と
適正にあわせて子どもたちを自立させる
ということ。万万が一にもJASSがフエに
存在しなかったらこの二人はどうなったのかは?
分からないが・・・・・。
それでもJASSがフエにあったことで二人は
ベトナム社会主義共和国で真っ当に生活する
ことが出来るようになったことは、嬉しいこと
である。


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東京都知事選挙の結果がでた。

想像通りだった。

私は『宇都宮」「細川」連合を作るべきだとの
主張をした。

現在の「国共合作」をすべきだと。

安部首相が異常な方向へ進んでいる。
日本の右傾化・軍国主義化が一気に進んでいる。
これを阻止する大きな政治的な展望をもち
「小異を捨てて大同につこう」と主張していた。

しかし、宇都宮・細川陣営は、「小異にこだわり
大同に」つかなかった。敗北した。
革新勢力の戦略の敗北である。

アジア・太平洋戦争に突入する時期「社民主義主敵論」
に立ち、社会民主主義を主敵にする主張があった。

中国では蒋介石の国民党と毛沢東の共産党が
「反日」で統一戦線を組んだ。意見が一致する部分は
「反日」だけかもしれないが・・・・。

今回、反原発で一致し、候補者調整が出来れば、
舛添当選には至らず、安部暴走路線に打撃を
与えることが出来たかもしれないのだが・・・・。
日本で「革新」を名乗る勢力の『心の狭さ』を
痛切に感じた。理屈で自らの正当性をどんなに
主張しても、結局、安部暴走路線を許してしまった
政治的な責任からは免れない。


投稿者 koyama : 2014年02月09日 20:02

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