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2010年12月14日
兄「小山一義(こやま・かずよし)」命日65回忌
1945年12月14日は、私の兄一義が中国から引き上げの途中
栄養失調と薬のない中で風邪 →急性肺炎で病死した命日である。
既に兄を知っている人間は、ほとんどこの世にいなくなった。
父親が死に母親はアルツハマー。姉は当時1歳。
今生きていれば、68歳位になる。
65年前に小山一義という3歳の子どもが中国で飢えと
疲労と薬のない逃避行の中で死んで行ったことを
せめてこの火炎樹日記だけででも明らかにし、冥福を祈りたい。
戦争というおろかな大人の犠牲者はこどもたちである。
アジア太平洋戦争・朝鮮戦争・ベトナム戦争・イラク・アフガン戦争。
この世に正しい戦争はない。私は全ての戦争に反対する。
日本国憲法9条が、いまほど光り輝く時はない。
憲法9条ができた動機の何億分の一には、私の兄の命も含まれ
ていると私は思っている。
今私の兄のために出きることは、戦争反対を声高に言い続ける
こと。戦争が起こらないような国際社会を作り上げることだと
思っている。ベトナムにいるのでお墓参りにもいけない。
この火炎樹日記を通して何百人かの人に、[昔、小山一義がいた」
ということを知ってもらえるだけでもせめてもの供養だと思ってる。
死んだ人間は何も言えない。
生きている私たちが言い続けなければならない。
私がベトナムで17年半の活動を続けている動機の一端は、
兄の死である。300万人の日本人、2000万人のアジア人が
死んだアジア太平洋戦争である。戦後65年、それぞれの家族が
戦争で死んだ人を今でも思い出し、私と同じ思いを抱いているの
ではないかと思う。
(兄 小山一義 )
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終日曇り
午前6時起床。気温変化が大きく、ベトナム事務所でも
体調を崩す人が多い。
午前7時、朝食。フォー。
午前、ピースインツアーとSKYPEで打ち合わせ。
2011年2月のバオミンさんたち3人の東京での現地報告会
参加のためのホテル予約をインターネットで行う。
なかなか、適当なホテルがない。今まで使っていた
日暮里のホテルが、宿泊希望日(3日間)使用出来ない。
2時間ほど探し、上野駅付近のホテルを予約。
バオミンさんといくつかの件で打ち合わせ
午前11時半、昼食。
野菜たっぷりの雑炊。
2時間ほど昼寝。熟睡。
午後2時半、日本から電話あり。
読書「ベトナム戦争ー誤算と誤解の戦場」(松岡完著:中公新書)
ベトナム戦争がどんな国際情勢の中で行われたのかを著者は
明らかにしている。
米ソの緊張緩和政策。そして、ソ連・中国のイデオロギー上の対立。
こうした複雑な国際関係の中でベトナムは、ある意味で、米ソとも
闘い、中国とも闘いながら、ソ連・中国の支援をもらうという高等戦術
で1950年代のジュネーブ協定・その後のベトナム戦争を
戦っていく。
午後4時半、フエ中央病院小児科元医長より電話あり。
明日、事務所で話し合うことにする。
2011年2月12日「現地報告会」用の総括・方針原案骨子を
考える。今後、バオミンさんやベトナム事務所関係者との
話し合いのたたき台とする。
読書「ベトナム戦争ー誤算と誤解の戦場」(松岡完著:中公新書)
午後5時過ぎ、徒歩、日本料理店へ。
午後5時半、こどもたち・大塚さんと夕食。
日本語教師は日本語学校へ。
在庫管理主任のチャンさんと厨房主任のトゥオイさん、
大塚さんでホーチミン市の日本食材店に注文する食材を
を決めている。今日注文すれば、明日フエ空港に届く。
午後9時閉店。6人の来客あり。
午後10時から15分停電。
町を見た。町中が真っ暗だった。弓張月の月が真っ暗な
町に煌々と輝いていた。停電も「粋なもの」だと思った。
これは、涼しい秋だからだ。真夏だったら、部屋にいられない。
憤りだけが残るのだが・・・・。秋の弓張月は、趣がある。
投稿者 koyama : 2010年12月14日 12:15