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2009年12月31日
ベトナム事務所望年会
晴れ時々曇り
午前11時半の気温27度 湿度60%
昨夜、日本料理店で下痢止めの抗生物質を飲む。
午後10時半から就寝。午前1時半目が覚める。
その後、精神が昂ぶって眠れない。
そのまま明け方まで読書「暗夜行路(後編)」を読む。
午前7時朝食
昨夕飲んだ抗生物質が効いたようで下痢は止まる。
食欲なし。体がとにかくだるい。
マカロニスープ。マカロニだけを何とか食べる。肉類は無理。
食後、ベッドで横になる。体がだるくて起きていられない。
読書「暗夜行路(後編)」
午前9時半過ぎ、「ハイリーホテル」を出てベトナム事務所へ。
ブライセンベトナム支社にチュン君が入社する。
チュン君は27歳。1995年に「子どもの家」へ入所。
中学を卒業し、電気専門学校へ入学。
現在ベトナム事務所員をしているソン君の次の「子どもの家」
生徒会長。2006年に京都の日新電機のご支援でハノイの
工場に入社。パソコン管理などを担当していた。
今回、親類のいるフエにどうしても戻って生活したい、
ハノイの風土に合わないとの申し出があり、
ブライセンベトナム支社で受け入れることにした。
正式入社は2010年1月1日(実際の出社は1月4日)。
ブライセンベトナム支社のシステム・仕事内容、労働条件
などを説明する。
これでブライセンベトナム支社は5人の従業員となったが、
「子どもの家」のこどもたちが3人入っている。更には
一人は「子どもの家」関係者。ブライセンベトナム支社も
「子どもの家」のこどもたちの自立のための組織である。
ベトナム事務所3階のブライセンベトナム支社へ。
4人の仲間にチュン君を紹介する。
チュン君のブライセンベトナム支社入社の件が終わると同時に
ザーホイ高校の校長先生と奨学金担当の先生が
年末の挨拶にやってくる。
しばらく学校の話などをする。
現在在校生は1800人。40クラス。昨年度の
大学入学者は同学年の30%程度とのこと。
私からは、「子どもの家」のこどもたちが何人かお世話になっている
ので、特に「子どもの家」のこどもたちの面倒を宜しくと
お願いする。
20分ほどザーホイ高校の校長先生懇談していると
9月末に静岡大学工学部にニフィープログラムで入学した
3人の学生の親が年末の挨拶に来る。
日本語を教えたクアンさんも交えて、静大入学生の
現状などを話し合う。留学生はほとんど毎日、SKYPEで
両親家族と話し合いをしているとのこと。
親としては、毎日の静大での生活の様子も分かり
安心している。却ってフエの家族のほうが、こどもたち
が訪日し「寂しく」なっていると話していた。
小山さんとJASSに感謝しているとのこと。
しばらく懇談し、問題があったら「静岡大学フエ連絡事務所」として
直ぐに対応するので遠慮なく言って欲しいと付け加える。
バオミンさんも昨夕から下痢状態とのこと。
明らかに胃腸に来るインフルエンザウイルスの影響と思われる。
午前11時半昼食。食後、第2日目の抗生物質を飲む。
3日間飲み続ける必要あり。
昨夜ホーチミン市についた中村友香先生から電話。
12時過ぎホーチミン市発の飛行機に乗るため
午前9時半からホーチミン空港にいるが、1時間半
出発の時間が遅れるとのこと。
食後直ぐに横になる。今日は体が自分の体ではないようだ。
雲の上を歩いているような「フワフワ」した感覚。
自分であって自分でないという「自分の体」である。
1時間ほど熟睡。
その後読書。
午後4時半、お米と卓上コンロのガスボンベを買いに行く。
午後5時半、ベトナム事務所の「望年会」へ。
途中、橋の手前で大きな交通事故。昨日は、橋向こうで
同様の死亡事故。土砂を積んだ大型ダンプカーが
我が物顔で橋を「暴走」している。今日の事故も
オートバイとダンプ。オートバイの前部がぺしゃんこ。
例のように「物見高い」は世界の通例。事故見渋滞。
警察が出ての実況検分。年間の交通事故死者3万人以上
午後5時40分。原田先生の司会でベトナム事務所「望年会」
スタート。参加者はベトナム事務所とその家族、日本人スタッフ、
日本料理店のこどもたち。総勢22人。
日本料理店のこどもたちが料理を作る。
お祝い用に作ったベトナムのもち米ご飯
お寿司
フエ特産イカフライ
今日の特別ゲスト中村友香先生が日本から持って来てくれた
茨城産イチゴ、かまぼこ、伊達巻、金柑(きんかん、昆布など
料理が全て並ぶ。日本料理店のこどもたちも全員一緒に
食事をする。
はじめに私の挨拶
2009年は大きな成果を残した。これは、ベトナム事務所・
日本料理店スタッフの皆さんのお陰。そして、そのスタッフ
を支えてくれた家族の皆さんの力。ここに参集された
全ての皆さんにお礼を申し上げたい。
続いて家族紹介
・会計部長ハンさんの家族
・日本語部長フーン先生の家族
・JASSベトナム運営委員長バオミンさんの家族
・静岡フエ交流会館付属日本語学校の先生をしていた
中村友香先生の挨拶
●2009年の健闘を確認し、2010年が健康で幸せな
1年であることを祈り乾杯
●会食交流
●年末に婚約し、新年7月に結婚するソン君・メンさん
(ソン君の家族としてメンさんも参加)
●フオン先生とアン・ベトナム事務所員
●日本語部長フーン夫妻
(旦那さんはフエの有名なサッカー選手)
●アルファー(バオミンさんの長女:小学校2年生)
●日本料理店副店長兼調理主任のトウオイさんと
接客主任のグエットさん
●今日は(も)トーンが高い「ベトナム事務所の寅さん」ことリー君。
今日はグラス10杯以上の生ビールを飲んだ。
閉会後、某日本人男性教師と更に飲みに行った模様。
詳細不明。
●食料在庫管理主任のチャンさんと調理のヒエウさん
●ハン会計部長と二人のお子さん(中2年生と小学2年生)
●バオミン運営委員長から「来年も頑張るよう」激励されている
ナムドン山岳地帯案内専門家リー君。年間20回程度は
ナムドン山岳地帯にスタディーツアーを案内している
望年会もいよいよ佳境に入る。
●リー君が一曲披露 大うけにウケる。
多少、「変な長調」気味。こうした宴会には欠かせない
キャラクターの持ち主。憎めない性格である。
リー君なりに会を盛り立てようと頑張っているが多少脱線気味
クアン・ベトナム事務所員の司会でベトナム事務所恒例の
ビンゴーゲーム。今回は中村友香先生が日本から
持って来てくれる。どうしてビンゴゲームがこんなに
人間を興奮させるのか不明なれど、望年会は
大いに盛り上がる。
参加者全員がビンゴの数字の玉を回す。
ビンゴがあたったメンさん。婚約・来年の結婚の魁(さきがけ)
として縁起の良い「大晦日」である。
ビンゴゲームで来年の運勢を占った二人(幸せを祈るというよりも
幸せそのもの)
かなり出来上がったリー君。ビンゴにあたり景品(タバコの
お菓子)をもらう
ビンゴに当たったフーン先生夫妻(仲睦ましい二人である)
日本料理店を代表してヒエウさんが、「涙そうそう」を歌うと
言って「翼をください」を歌う。この辺はご愛嬌。
しっかりした声と音程、正確な日本語で歌った。素晴らしい。
小1・小2の3人娘はベトナムの歌を歌う
「子どもの家」セン委員長やザーホイ高校などから贈呈された
お祝いのベトナム風花輪
●今日の望年会参加者で一番正装(盛装)していたのは
バオミン委員長の長男「ベーター君」。きちんと
ネクタイをしていたのは彼一人。
●バオミンさんの長女(アルファー)、長男(ベーター)。
次の子は「シグマか? はたまたオメガか?
計画はありやなしや? 質問への回答は拒否されてしまった。
●中村友香先生から日本料理店へ日本料理の調味料
や「暖簾(のれん)の差し入れ
トウオイ副店長(諸般の事情で店長は空席。元店長は
楽しそうに生ビールを飲んでいる)に贈呈
●坂本文子先生から差し入れられた「日本語教育資料」
日本語部長のフーン先生に贈呈
楽しく交流し、2010年の健闘を誓い合った望年会も終了。
日本料理店前で全員写真(撮影者 ソン君)
22人の参集したベトナム事務所望年会に参加し、
JASSは既に日本人だけの会ではなく、こうして
多くのベトナム人スタッフをJASS活動に引き入れている
実態があり、ベトナム人スタッフとその家族の人生と生活にも責任
があることを改めて痛感した。
会終了後、バオミンさん一家と記念撮影
今日も体の調子が悪く、ビールを飲む気力ない。お茶を飲んでの
望年会となった。
2009年の最後の日に大好きな生ビールが飲めなかったのは、
天上唯一絶対の神(世間では女帝様という)からの
「飲みすぎと体に気をつけろ」との思し召しかもしれない。
2009年の締めは、お茶で過ごす。
終了後、一人で「ハイリーホテル」へ戻り、午後10時00分
(日本時間午前0時ジャスト)
日本の支援者の皆さんにベトナム事務所からの
「新年のメールメッセージ」を送る。
お酒を飲まないと本が読めるということが分かる。
読書「暗夜行路(後編)」(志賀直哉著)読了。
主人公が結婚。しかし、奥さんの従兄弟と密通。
主人公はそのことをどう考え、どう行動するのか
悩む。
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2009年の読書録
(目標は100冊。結果は78冊。2008年は77冊)
読書録(2009年) 目標100冊
(1月)
1 「上海にて 堀田善衛著:集英社文庫)
2 「霧の果て」(藤沢周平著(文春文庫)
3 「阿Q正伝・狂人日記・他12篇」(魯迅著:岩波書店)
4 「大杉榮語録」(鎌田慧著:岩波書店)
5 「流れる星は生きている」(藤原てい著:中央公論新社)
6 「誰も書けなかった石原慎太郎」(佐野眞一著:講談社)
(2月)
7 「日本共産党の研究(1)」(立花隆著:講談社)
8 「日本共産党の研究(2)」(立花隆著:講談社)
9 「日本共産党の研究(3)」(立花隆著:講談社)
10 「東条英機と天皇の時代」(保阪正康著:筑摩書房)
(3月)
11 「私は河原乞食・考」(小沢昭一著:岩波出版)
12 「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」
(マックス・ヴェーバー著:大塚久雄訳:岩波書店)
13 「1789年 フランス革命 序論」(ルフェーヴェル著:岩波書店)
(4月)
14 「日本資本主義分析」(山田盛太郎著:岩波書店)
15 「日本資本主義発達史」(野呂栄太郎著:岩波書店)
16 「正社員が没落するー貧困スパイラルを止めろ」
(堤未果・湯浅誠著:角川書店)
17 「LD(学習障害とADHD(注意欠陥多動性障害)
(上野一彦著:講談社)
18 「アダム・スミスー道徳感情論と国富論の世界」
(堂目卓生著:中公新書)
19 「ハイエクー知識社会の自由主義」(池田信夫著:PHP新書)
20 「ルポ 労働と戦争―この国のいまと未来」
(島本慈子著:岩波新書)
21 「負い方一つで重荷も軽い」(清水修二著)
22 「地域・自治体そしてNPO」(清水修二著:ふくしまNPOネットワークセンター)
23 「昭和を点検する」(保阪正康+半藤一利著:講談社)
(5月)
24 「結婚難民」(佐藤留美著:小学館)
25 「西郷と大久保」(海音寺潮五郎著:新潮社)
26 「幕末・維新」(井上勝生著:岩波新書)
27 「明治精神史(上)」(色川大吉著:岩波現代文庫)
28 「明治精神史(下)」(色川大吉著:岩波現代文庫)
29 「週刊新潮が報じたスキャンダル 戦後史」(新潮文庫)
30 「東京 あの時ここで(昭和戦後史の現場)(共同通信社)
31 「団塊老人」(三田誠広著:新潮新書)
32 「農協の大罪」(山下一仁著:宝島社新書)
33 「映画をつくる」(山田洋次著:大月書店国民文庫)
34 「落語の国をのぞいてみれば」(堀井憲一郎著:講談社)
35 「豊臣秀長 ある補佐役の生涯(上)」(堺屋太一著:文春文庫)
36 「豊臣秀長 ある補佐役の生涯(下)」(堺屋太一著:文春文庫)
37 「周恩来秘録(上)―党機密文書は語る」(高文謙著:文芸春秋)
38 「周恩来秘録(下)―党機密文書は語る」(高文謙著:文芸春秋)
39 「創価学会」(島田裕巳著:新潮新書)
40 「古代史の謎はどこまで解けたのか?」(山岸良二著:PHP新書)
41 「猛毒大国 中国を行く「(鈴木譲仁著:新潮新書)
42 「闇の子供たち」(粱石日ヤン・ソギル著:幻冬社文庫)
43 「睡魔」(粱石日著:幻冬社)
(6月)
44 「島原の乱-キリシタン信仰と武装蜂起」(神田千里著:中公新書)
45 「足利義満―消された日本国王」(小島毅著:光文社新書)
46 「関が原―誰が大合戦を仕掛けたか」(武光誠著:PHP新書)
47 「ユーゴスラヴィア現代史」(柴宣弘著:岩波新書)
(7月)
48 「劇場政治の誤算」(加藤紘一著:角川書店)
49 「蘇る怪物 私のマルクス ロシア編」(佐藤優著:文芸春秋)
50 「差別と日本人」(野中広努・辛淑玉著:角川書店)
51 「物語 数学の歴史」(加藤文元著:中公新書)
52 「江戸時代の性の不祥事」(永井義男著:学研新書)
53 「米原真里を語る」(かもがわ出版)
(8月)
54 「ベトナムの人権 多元的民主化の可能性」(中野亜里著:福村出版)
55 「1Q84 BOOK 1」(村上春樹著:新潮社)
56 「1Q84 BOOK 2」(村上春樹著:新潮社)
(9月)
57 「三四郎」(夏目漱石著:新潮社)
58 「官僚たちの夏」(城山三郎著:新潮社)
59 「こころ」(夏目漱石著:新潮社)
(10月)
60 「帰還せず」(青沼陽一郎著:新潮社)
61 「言葉と戦車を見すえて」(加藤周一著:筑摩書房)
62 「黒い手帖」(矢野絢也著:講談社)
63 「裏切られたベトナム革命・チュン・ニュー・タンの証言」
(友田 錫 著:中公文庫)
64 「大正テレビ寄席の芸人たち」(山下武著:東京堂出版)
65 「志ん生の食卓」(美濃部美津子著:アスペスト
(11月)
66 「大日本帝国崩壊」(加藤聖文著:中公新社)
67 「貧困の光景」(曽野綾子著:新潮社)
68 「報道できなかった 自衛隊イラク従軍記」(金子貴一著:学研)
69 「始まっている未来 新しい経済学は可能か」
(宇沢弘文・高橋克人著:岩波書店)
70 「ドイモイの誕生-ベトナムにおける改革路線の
形成過程」(古田元夫著:青木書店)
71 「社会主義と個人」(笠原清志著:集英社新書)
(12月)
72 「僕らの頭脳の鍛え方―必読の教養書400冊」
(立花隆・佐藤優著:文春新書)
73 「政党崩壊ー2010年体制を生き延びる条件」
(筆坂秀世著:講談社)
74 「輝ける闇」(開高健著:新潮社)
75 「ベトナム亡国史他」(ファン・ボイ・チャウ著:東洋文庫)
76 「ベトナムから来たもう一人のラストエンペラー」(森達也著:角川書店)
77 「暗夜行路(前編)」(志賀直哉著:岩波書店)
78 「暗夜行路(後編)」(同上)
2009年12月30日
ベトナム事務所へ(徒歩)・年賀状書き・風邪
曇り・後晴れ 「休肝日」
数日振りに太陽が出た。
午前7時朝食
精進ブン麺
朝食後読書「暗夜行路(前編)」
1921年(大正10年)に書かれた本である。
90年ほど前の本とは思えない新鮮な内容。
また、文章が簡潔で分かりやすい。情景描写も
簡潔であるが、状況を彷彿させる写実性あり。
冒頭は、浅草吉原への遊びの場面が出てくる。
「仲」「大門」など落語でおなじみの符丁が出てくる。
そのうち、主人公の生い立ちが明らかになってくる。
祖父と母親の間にできた子どもということが分かり
主人公は煩悶する。
午前10時過ぎ、晴天なので徒歩でベトナム事務所へ。
ベトナム事務所でバオミンさんといくつかの問題について
協議。明日、フエに来る元日本語教師のNさんの
受け入れの最終準備状況を確認。
徒歩で「ハイリーホテル」へ。
午前11時半、昼食。
何となく体がだるい。
午後12時過ぎ、昼寝体勢に入ったが、吐き気と下痢。
結局、2時間ほどの間に10数回の超下痢状態。
原因不明。
朝食か昼食に当たったのかとも思ったが、一緒に食事をした
原田先生は「元気溌剌」状態。
そのうちのどが痛くなり「風邪症状」。
明日は、ベトナム事務所の「納め会」。何としても出席しなければ
ならない。初期のうちに風邪を治したい。
内田さんから頂いた「下痢止めの抗生物質」を思い出し、
冷蔵庫から取り出す。1日3錠、食後30分以内とある。
夕食後に飲むこととする。
結局は昼寝ができなかったが、ベッドに横になり
「暗夜行路」の続きを読む。
「縫製研修センター」三浦さんより電話。
午後5時、日本料理店へ。今日も早めにお客さんが
来店する可能性があるので、早めに行く。
午後5時半、こどもたちと夕食を摂るはずだったが、
下痢状態のため、飲酒は止めて、ご飯をお茶碗に半分と
スープの豆腐を若干食べる。
リー君が散髪に言ったとのこと。写真に撮って欲しいとのこと。
15000ドン(75円)だったそうだ。
午後6時半頃からフランス人、カナダ人・・・・・
午後9時前までに10人の来客あり。
ほとんどの人が「ロンリープラネット」を読んでくる。
MR JASS MANに会いたいと言われ、
カナダとフランスのグループと話し合う。
今日は立っているのも辛い夜だった。
時々、横になりながら日本料理店の様子、お客さんへの
こどもたちの対応などをチェックした。終止からだがだるい。
午後9時前にお客さんが途絶えたので閉店とする。
こどもたちを帰宅させ、原田先生と「ハイリーホテル」へ
帰る。
リー君が自転車を日本料理店の中に入れて歩いて
帰るという。多分、悪い仲間とどこかで一杯飲む気なのだろう。
それもまた人生である。
夕食時に内田さんから頂いた抗生物質を3錠飲む。
これで下痢が止まり、風邪症状がなくなるとありがたいのだが。
明朝の体調で決まると思うが、早めに手を打ったので効果が
出ることを祈るのみ。
日本料理店の調理主任に「小麦粉の手打ちうどん」「生卵3個」
「長ネギ」を明日買ってくるようお金を渡す。
2010年1月1日から3日まで日本料理店は祝日で休む。
「ハイリーホテル」での食事も2日の朝昼のみであとは食事なし。
2010年の3が日は明らかに「寝正月」となることは必死。
「ハイリーホテル」で籠城する。そのための食料の備蓄。
「暗夜行路(前編」(志賀直哉著:岩波書店)読了。
村上春樹「1Q86」よりもよほど読みやすい。
90年前に書かれた本なのだが、現代の私には現在作家よりも
読みやすく、内容も深いものと読み取れる。
志賀直哉が書いたただ一つの「長編小説」だそうだ。
中学の国語で「志賀直哉の暗夜行路」とあったが、
中学生の読む本ではない、というのか中学生では
この本の内容を本当に理解するのは難しいかも知れない。
主人公が祖父と母の間にできた子どもであり、現在、
祖父の2号さんと同居し、且つ主人公が祖父の二号さんと
結婚したいと申し込むという、かなり複雑な家庭をバックにし
ている。そうした中での親子・兄弟・親戚・友人との
これまたかなり複雑な人間模様を分かり易く書き表している。
(後編)を読み始める。
志賀直哉は「暗夜行路(前編)(後編)を書くのに17年間の
歳月をかけている。父と息子、男女問題など全ての人間が
関わるテーマを自分自身(主人公の時任謙作・ときとうけんさく)
を通して表現してる。主人公がどんな家庭の子供かははっきりと
書いていないが、友人に子爵の子どもがいたりし、主人公も
作家(修行中の青年)なのだが、父親からかなりのお金をもらって
放蕩生活をし、尾道に家を貸りて住んだり、京都・奈良の寺めぐり
をするなど上流階級の家庭の子弟であることが分かる。
人間の日常の機微の気持ちの変化を的確に表現している。
2009年12月29日
「ハイリーホテル」整理・散髪・日本料理店大入り
曇り時々晴れ
朝目が覚めず7時前まで熟睡した。
午前7時朝食。
午前8時、ソン君が「ハイリーホテル」へ。「ハイリーホテル」の
部屋の温水シャワーの電気の故障を修理。部屋の整理を
行う。石鹸がなかったので私の石鹸をおく。
自転車の整備。パンク・ブレーキ故障の自転車の完全整備を
行う。
原田先生も手伝ってくれる。
午前9時、散髪へ。お正月が近いので16年間通っている
散髪屋へ行く。通常は2ヶ月に一度の頻度で行っているのだが、
直ぐに新年になるのでせめて髪くらいは切っておきたい。
子どもの頃、良く母親に「お正月だから床屋へ行きなさい」
といわれたものである。
ベトナム在住16年。日本の年末年始はほとんどベトナムで
過ごしている。既に日本の正月の雰囲気などは忘れかけている。
髪を切るだけなので15分程度で終わる。20000万ドン(100円)
ベトナム事務所へ。
「ハイリーホテル」へ。
読書「暗夜行路(前編)」(志賀直哉著:岩波書店)
実に読みやすい本である。1割程度しか読んでいないが、
人間の微妙な心理状態を的確に描いている。
午前11時半、昼食
午後12時20分昼寝。
午後3時まで寝てしまう。
午後3時 読書「暗夜行路」。
税田さんや関係者からのメール受信。返信。
日本友人知人・支援者などへ年賀状を書く。
午後5時日本料理店へ。
こどもたちと夕食を摂るはずだったが、既に来客あり。
今日は午後5時から午後9時半までに27人の来店。
午後9時過ぎに更に3人の来客があったが、お帰りいただいた。
午後5時、沖縄で英語を教えているアメリカ人来店。
私と話をしたいとのこと。20分ほど話をする。
既にこの時点で日本料理店での夕食は不可能となった。
その後、続いて10人ほど来店。それぞれ違う料理を
注文するので、接客係りのリー君も注文を間違えたり、
厨房ではあまりに大量且つ種類の違う料理を作るので
てんてこ舞いの状況。
寿司B(少量の寿司)
人手が足りなく、日本教師の原田先生もサーバーから
ビールを注ぎ、お客さんへ運ぶ仕事をする。
更に配膳の仕事もする。
日本料理店全員の総力戦を2時間ほど続ける。午後7時過ぎ。
今までの経験からするとこのあたりで来客の流れが切れる
のだが、更に「続々」と来店。
接客のリー君は15人位のお客さんのあたりで「頭の回路」
が麻痺状態。何がなんだか分からなくなる。眉間(みけん)に
しわができ、パニック招待。これは調理場のこどもたちも
同様。
常時、日本料理店の全てのテーブルが満席になったまま
何時間も経過。
20人位の来客時点では、リー君は「ヘロヘロ」状態。
多少、朦朧(もうろう)としている。
調理主任のトゥーイさんは、冷静に注文の料理を作るよう
他のこどもたちに指示。
自分でも先頭にたってテキパキと注文表を見ながら
料理を作っていく。
午後9時を過ぎた時点で27人の来店。
更にお客さんが入ってくる。リー君が、来店者に「今日は
27人もお客が来たのでもうお店は閉めます」と英語で
説明している。
結局、27人のお客さんを受け入れ、午後9時半過ぎに
閉店とした。
閉店後、接客係りのグエットさんが会計を締めるが、
何度計算しても会計が会わない。通常の何倍もの
入金がある。
また、ほとんどのお客さんが英語観光ブック「ロンリープラネット」
を読んでの来店なの「MR JASS MAN」と話したいとリー君に
言い、何人ものお客さんと話す。ベルギー、アメリカ、ドイツなど。
寄金をくれる人も多い。
最後にやっと会計も帳尻があい今日1日の仕事が終わる。
午後9時半過ぎ。
その後、接客で頑張ったリー君に生ビール2杯を飲ませ
「ハイリーホテル」へ帰る。
午後10時、「ハイリーホテル」着。さすがに疲れる。そのまま
眠ってしまう。
北京市第一中級人民法院(地裁)は二十五日、文芸評論家で詩人の劉暁波氏(53)に懲役十一年の実刑を言い渡した。昨年十二月、共産党の一党独裁を厳しく批判した文書「〇八憲章」をインターネットに発表したことなどが国家政権転覆扇動罪に問われた。(東京新聞より)
12月15日から今日までの日本の主要新聞の社説を調べたが、
社説でこの中国の人権侵害を告発しているのは、産経新聞だけ
である。東京新聞12月28日の「論説室から」で中国の人権侵害
の警告を発している。
朝日、読売、毎日、赤旗、社民党WEBなどは社説・主張等で
この問題を取り上げていない。
欧米政府は中国の人権侵害の撤回を要求している。
しかし、その声のトーンは小さい。
わが鳩山内閣は、中国に抗議すらしていない。
人権感覚なしと言われても仕方がない。
一党独裁を批判したことが、どんな犯罪になるというのか?
思想・信条の自由、表現の自由は、基本的人権。
人間が生まれながらに持っている権利。
社会制度がどうであれ、人間が生まれたときから、
言いたいことを言い、自由にものを考え発表する自由は
ある。
社会主義とな名乗りながら、封建時代と同じように中国共産党
が皇帝のように勝手に振舞っている「野蛮な国」と言われても
仕方がない。
中国のような一党独裁国家は、いくら経済力が上がっても
その下で多くの「物言えない人々」の犠牲の上に成り立って
いる「偽装国家」である。
日本政府がそうした独裁国家中国に対して、何ら抗議すらしていない
現状である。また、日本のほとんどのマスメディアも反応していない。
産経新聞のみが社説(オピニョン)で批判し、東京新聞が
論説室からで批判しているのみ。
日本で一番政府を厳しく批判している日本共産党も「この件」に
なると黙して語らず、一切の批判をしていない。
中国の「劉暁波氏懲役11年」問題は、政党・マスコミ・個人の
民主主義に対する「試金石」である。いくら普段立派なことを言っても
この問題に目をつぶったり、特殊な問題と言って、論評を避けたり
する人々は、本当の民主主義者ではないことを「自己暴露」している。
スペインの「フランコ総統」、チリの「ピノチェト」などの独裁国家の
反民主主義的行為を厳しく批判した人々が、中国の人権侵害に
鈍感なのは何故なのだろうか?
一部の人々は、中国の国内法で禁止されているからという。
戦前の「治安維持法」で国体変革は最高刑が死刑
だった時に、戦争に反対し、野蛮な軍事的天皇制を批判し、
築地警察で虐殺された小林多喜二も、治安維持法違反だから
しかたがないとでもいうのだろうか?
基本的人権を蹂躙するどんな国際法であれ、国内法であれ
効力はない。
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「08憲章」全文
08憲章=中華連邦共和国憲法要綱
[ 中国異論派選訳 ] / 2008-12-12 01:19:56
08憲章
一、まえがき
今年は中国立憲百年、「世界人権宣言」公布60周年、「民主の壁」誕生30周年であり、また中国政府が「市民的及び政治的権利に関する国際規約」に署名して10周年である。長い間の人権災害と困難かつ曲折に満ちた闘いの歴史の後に、目覚めた中国国民は、自由・平等・人権が人類共同の普遍的価値であり、民主・共和・憲政が現代政治の基本的制度枠組みであることを日増しにはっきりと認識しつつある。こうした普遍的価値と基本的政治制度枠組みを取り除いた「現代化」は、人の権利をはく奪し、人間性を腐らせ、人の尊厳を踏みにじる災難である。21世紀の中国がどこに向かうのか。この種の権威主義的統治下の「現代化」か? それとも普遍的価値を認め、主流文明に溶け込み、民主政体を樹立するのか? それは避けることのできない選択である。
19世紀中葉の歴史の激変は、中国の伝統的専制制度の腐敗を暴露し、中華大地の「数千年間なかった大変動」の序幕を開いた。洋務運動はうつわ面での改良を追求し、甲午戦争(日清戦争1894年)の敗戦は再び体制の時代遅れを暴露した。戊戌変法(1898年)は制度面での革新に触れたために、守旧派の残酷な鎮圧にあって失敗した。辛亥革命(1911年)は表面的には2000年余り続いた皇帝制度を埋葬し、アジアで最初の共和国を建国した。しかし、当時の内憂外患の歴史的条件に阻害され、共和政体はごく短命に終わり、専制主義が捲土重来した。うつわの模倣と制度更新の失敗は、先人に文化的病根に対する反省を促し、ついに「科学と民主」を旗印とする「五四」新文化運動がおこったが、内戦の頻発と外敵の侵入により、中国政治の民主化過程は中断された。抗日戦争勝利後の中国は再び憲政をスタートさせたが、国共内戦の結果は中国を現代版全体主義の深淵に陥れた。1949年に建国した「新中国」は、名義上は「人民共和国」だが、実際は「党の天下」であった。政権党はすべての政治・経済・社会資源を独占し、反右派闘争、大躍進、文革、六四、民間宗教および人権擁護活動弾圧など一連の人権災害を引き起こし、数千万人の命を奪い、国民と国家は甚だしい代価を支払わされた。
20世紀後期の「改革開放」で、中国は毛沢東時代の普遍的貧困と絶対的全体主義から抜け出し、民間の富と民衆の生活水準は大幅に向上し、個人の経済的自由と社会的権利は部分的に回復し、市民社会が育ち始め、民間の人権と政治的自由への要求は日増しに高まっている。統治者も市場化と私有化の経済改革を進めると同時に、人権の拒絶から徐々に人権を認める方向に変わっている。中国政府は、1997年、1998年にそれぞれ二つの重要な国際人権規約に署名し、全国人民代表大会は2004年の憲法改正で「人権の尊重と保障」を憲法に書き込んだ。今年はまた「国家人権行動計画」を制定し、実行することを約束した。しかし、こうした政治的進歩はいままでのところほとんど紙の上にとどまっている。法律があっても法治がなく、憲法があっても憲政がなく、依然として誰もが知っている政治的現実がある。統治集団は引き続き権威主義統治を維持し、政治改革を拒絶している。そのため官僚は腐敗し、法治は実現せず、人権は色あせ、道徳は滅び、社会は二極分化し、経済は奇形的発展をし、自然環境と人文環境は二重に破壊され、国民の自由・財産・幸福追求の権利は制度的保障を得られず、各種の社会矛盾が蓄積し続け、不満は高まり続けている。とりわけ官民対立の激化と、騒乱事件の激増はまさに破滅的な制御不能に向かっており、現行体制の時代遅れは直ちに改めざるをえない状態に立ち至っている。
二、我々の基本理念
中国の将来の運命を決めるこの歴史の岐路に立って、百年来の近代化の歴史を顧みたとき、下記の基本理念を再び述べる必要がある。
自由:自由は普遍的価値の核心である。言論・出版・信仰・集会・結社・移動・ストライキ・デモ行進などの権利は自由の具体的表現である。自由が盛んでなければ、現代文明とはいえない。
人権:人権は国家が賜与するものではなく、すべての人が生まれながらに有する権利である。人権保障は、政府の主な目標であり、公権力の合法性の基礎であり、また「人をもって本とす」(最近の中共のスローガン「以人為本」)の内在的要求である。中国のこれまでの毎回の政治災害はいずれも統治当局が人権を無視したことと密接に関係する。人は国家の主体であり、国家は人民に奉仕し、政府は人民のために存在するのである。
平等:ひとりひとりの人は、社会的地位・職業・性別・経済状況・人種・肌の色・宗教・政治的信条にかかわらず、その人格・尊厳・自由はみな平等である。法の下でのすべての人の平等の原則は必ず実現されなければならず、国民の社会的・経済的・文化的・政治的権利の平等の原則が実現されなければならない。
共和:共和とはすなわち「皆がともに治め、平和的に共存する」ことである。それは権力分立によるチェック・アンド・バランスと利益均衡であり、多くの利益要素・さまざまな社会集団・多元的な文化と信条を追求する集団が、平等な参加・公平な競争・共同の政治対話の基礎の上に、平和的方法で公共の事務を処理することである。
民主:もっとも基本的な意味は主権在民と民選政府である。民主には以下の基本的特徴がある。(1)政府の合法性は人民に由来し、政治権力の源は人民である。(2)政治的統治は人民の選択を経てなされる。(3)国民は真正の選挙権を享有し、各級政府の主要政務官吏は必ず定期的な選挙によって選ばれなければならない。(4)多数者の決定を尊重し、同時に少数者の基本的人権を尊重する。一言でいえば、民主は政府を「民有、民治、民享」の現代の公器である。
憲政:憲政は法律と法に基づく統治により憲法が定めた国民の基本的自由と権利を保障する原則である。それは、政府の権力と行為の限界を線引きし、あわせて対応する制度的措置を提供する。
中国では、帝国皇帝の権力の時代はすでに過去のものとなった。世界的にも、権威主義体制はすでに黄昏が近い。国民は本当の国家の主人になるべきである。「明君」、「清官」に依存する臣民意識を払いのけ、権利を基本とし参加を責任とする市民意識を広め、自由を実践し、民主を自ら行い、法の支配を順守することこそが中国の根本的な活路である。
三、我々の基本的主張
そのために、我々は責任をもって、また建設的な市民的精神によって国家政治制度と市民的権利および社会発展の諸問題について以下の具体的な主張をする。
1、憲法改正:前述の価値理念に基づいて憲法を改正し、現行憲法の中の主権在民原則にそぐわない条文を削除し、憲法を本当に人権の保証書および公権力への許可証にし、いかなる個人・団体・党派も違反してはならない実施可能な最高法規とし、中国の民主化の法的な基礎を固める。
2、権力分立:権力分立の現代的政府を作り、立法・司法・行政三権分立を保証する。法に基づく行政と責任政府の原則を確立し、行政権力の過剰な拡張を防止する。政府は納税者に対して責任を持たなければならない。中央と地方の間に権力分立とチェック・アンド・バランスの制度を確立し、中央権力は必ず憲法で授権の範囲を定められなければならず、地方は充分に自治を実施する。
3、立法民主:各級立法機関は直接選挙により選出され、立法は公平正義の原則を堅持し、立法民主を行う。
4、司法の独立:司法は党派を超越し、いかなる干渉も受けず、司法の独立を行い、司法の公正を保障する。憲法裁判所を設立し、違憲審査制度をつくり、憲法の権威を守る。可及的速やかに国の法治を深刻に脅かす共産党の各級政法委員会を解散させ、公器の私用を防ぐ。
5、公器公用:軍隊の国家化を実現する。軍人は憲法に忠誠を誓い、国家に忠誠を誓わなければならない。政党組織は軍隊から退出しなければならない。軍隊の職業化レベルを高める。警察を含むすべての公務員は政治的中立を守らなければならない。公務員任用における党派差別を撤廃し、党派にかかわらず平等に任用する。
6、人権保障:人権を確実に保障し、人間の尊厳を守る。最高民意機関(国会に当たる機関)に対し責任を負う人権委員会を設立し、政府が公権力を乱用して人権を侵害することを防ぐ。とりわけ国民の人身の自由は保障されねばならず、何人も不法な逮捕・拘禁・召喚・尋問・処罰を受けない。労働教養制度(行政罰としての懲役)を廃止する。
7、公職選挙:全面的に民主選挙制度を実施し、一人一票の平等選挙を実現する。各級行政首長の直接選挙は制度化され段階的に実施されなければならない。定期的な自由競争選挙と法定の公職への国民の選挙参加は奪うことのできない基本的人権である。
8、都市と農村の平等:現行の都市と農村二元戸籍制度を廃止し、国民一律平等の憲法上の権利を実現し、国民の移動の自由の権利を保障する。
9、結社の自由:国民の結社の自由権を保障し、現行の社団登記許可制を届出制に改める。結党の禁止を撤廃し、憲法と法律により政党の行為を定め、一党独占の統治特権を廃止し、政党活動の自由と公平競争の原則を確立し、政党政治の正常化と法制化を実現する。
10、集会の自由:平和的集会・デモ・示威行動など表現の自由は、憲法の定める国民の基本的自由であり、政権党と政府は不法な干渉や違憲の制限を加えてはならない。
11、言論の自由:言論の自由・出版の自由・学術研究の自由を実現し、国民の知る権利と監督権を保障する。「新聞法」と「出版法」を制定し、報道の規制を撤廃し、現行「刑法」中の「国家政権転覆扇動罪」条項を廃止し、言論の処罰を根絶する。
12、宗教の自由:宗教の自由と信仰の自由を保障する。政教分離を実施し、宗教活動が政府の干渉を受けないようにする。国民の宗教的自由を制限する行政法規・行政規則・地方法規を審査し撤廃する。行政が立法により宗教活動を管理することを禁止する。宗教団体(宗教活動場所を含む)は登記されて初めて合法的地位を獲得するという事前許可制を撤廃し、これに代えていかなる審査も必要としない届出制とする。
13、国民教育:一党統治への奉仕や濃厚なイデオロギー的色彩の政治教育と政治試験を廃止し、普遍的価値と市民的権利を基本とする国民教育を推進し、国民意識を確立し、社会に奉仕する国民の美徳を提唱する。
14、財産の保護:私有財産権を確立し保護する。自由で開かれた市場経済制度を行い、創業の自由を保障し、行政による独占を排除する。最高民意機関に対し責任を負う国有資産管理委員会を設立し、合法的に秩序立って財産権改革を進め、財産権の帰属と責任者を明確にする。新土地運動を展開し、土地の私有化を推進し、国民とりわけ農民の土地所有権を確実に保障する。
15、財税改革:財政民主主義を確立し納税者の権利を保障する。権限と責任の明確な公共財政制度の枠組みと運営メカニズムを構築し、各級政府の合理的な財政分権体系を構築する。税制の大改革を行い、税率を低減し、税制を簡素化し、税負担を公平化する。公共選択(住民投票)や民意機関(議会)の決議を経ずに、行政部門は増税・新規課税を行ってはならない。財産権改革を通じて、多元的市場主体と競争メカニズムを導入し、金融参入の敷居を下げ、民間金融の発展に条件を提供し、金融システムの活力を充分に発揮させる。
16、社会保障:全国民をカバーする社会保障制度を構築し、国民の教育・医療・養老・就職などの面でだれもが最も基本的な保障を得られるようにする。
17、環境保護:生態環境を保護し、持続可能な開発を提唱し、子孫と全人類に責任を果たす。国家と各級官吏は必ずそのために相応の責任を負わなければならないことを明確にする。民間組織の環境保護における参加と監督作用を発揮させる。
18、連邦共和:平等・公正の態度で地区の平和と発展を維持し、責任ある大国のイメージを作る。香港・マカオの自由制度を維持する。自由民主の前提のもとに、平等な協議と相互協力により海峡両岸の和解案を追求する。大きな知恵で各民族の共同の繁栄が可能な道と制度設計を探求し、立憲民主制の枠組みの下で中華連邦共和国を樹立する。
19、正義の転換:これまでの度重なる政治運動で政治的迫害を受けた人々とその家族の名誉を回復し、国家賠償を行う。すべての政治犯と良心の囚人を釈放する。すべての信仰により罪に問われた人々を釈放する。真相調査委員会を設立し歴史的事件の真相を解明し、責任を明らかにし、正義を鼓舞する。それを基礎として社会の和解を追求する。
四、結語
中国は世界の大国として、国連安全保障理事会の5つの常任理事国の一つとして、また人権理事会のメンバーとして、人類の平和事業と人権の進歩のために貢献すべきである。しかし遺憾なことに、今日の世界のすべての大国の中で、ただ中国だけがいまだに権威主義の政治の中にいる。またそのために絶え間なく人権災害と社会危機が発生しており、中華民族の発展を縛り、人類文明の進歩を制約している。このような局面は絶対に改めねばならない! 政治の民主改革はもう後には延ばせない。
そこで、我々は実行の勇気という市民的精神に基づき、「08憲章」を発表する。我々はすべての危機感・責任感・使命感を共有する中国国民が、朝野の別なく、身分にかかわらず、小異を残して大同につき、積極的に市民運動に参加し、共に中国社会の偉大な変革を推進し、できるだけ早く自由・民主・憲政の国家を作り上げ、先人が百年以上の間根気よく追求し続けてきた夢を共に実現することを希望する。
括弧内は訳注。
原文:http://blog.goo.ne.jp/sinpenzakki/e/8f95023140c18356340ca1d707aa70fe
2009年12月28日
豪雨・強風
終日雨。寒い。一気に気温が下がる
午前3時半起床。外は豪雨。強風。5階の部屋には
強風と豪雨で騒音となる。
読書「ベトナム来たもう一人のラストエンペラー」(森達也著)
を読む。
今日1日かけて1冊読了。
テレビのデレクターや台本などを書いている著者の本では
「放送禁止歌」を読んだことがある。非常に興味のある内容だった。
テレビ局では放送禁止の歌とレッテルを貼って放送していない
歌があるが、本当に放送禁止の歌なのかを調査したもの。
結論は誰が決めたものでもなく、結局はマスコミ自身が
「自主規制的」に放送を自粛していると言う実態を暴いた本で
あった。
同一著者の本なので期待を持って本だが、ほとんど内容の
ないものだった。その最大の理由は、ベトナムという国を
もっと知るべきだったと言う一言に尽きる。
ベトナム関係の本を読み、ホーチミン市とフエ市での取材
したが、ほとんど成果がないなまで本を書いたところに
無理があった。
1951年日本で死んだベトナムのグエン王朝の王子である
クオンデの生涯を書こうとした本であるが、冒頭から
グエン王朝第1代皇帝「ザーロン帝の「第11代目」に
あたると書いたところから「眉唾物(まゆつばもの)」と思った。
ザーロンがグエン王朝を開いたのが、1802年である。
その長男の系列の子孫である。
今生きていたら100歳強位だろうか。初代皇帝ザーロンから
11代目にあたるわけがない。
JASSベトナム運営委員長であるバオミンさんは、ザーロン帝
の次男である「ミンマン皇帝」の5代目である。
我が家で言えば、わが祖父は江戸末期の生まれ、父は明治43年
私が昭和22年(1947年)、長男が1974年、孫が2001年。
1860年代の祖父から140年位しかたたっていない。
その間に祖父から私の孫までで「5代」である。
初代皇帝ザーロン帝から11代の「クオンデ王子」と書いた時点で
怪しいと思った。
もちろんベトナムに関係したことのないテレビ関係の人が
一所懸命勉強し、ベトナムを調べ、ホーチミン市・フエ市に
取材に来て書いた努力を諒とするが、結局著者の
言いたいことは、日本を頼ってきたクオンデ王子を
日本は見捨てた、「クオンデ王子は日本に捨てられた」
ということが本書の主張と読み取った。1940年代には
既にホーチミン(「阮愛国)が共産主義・愛国主義の立場から
フランとの抵抗闘争に入っている時、日本の軍部とつながり、
傀儡政権「満州国」の清朝最後の皇帝である溥儀と同様に
日本軍部の力でベトナムの皇帝になろうとした「その生き方」
そのものに問題があったのである。クオンデの訪日を誘った
師匠の「ファンボイチャ」は、とっくに日本への幻想を
断ち切り、日本から帰国している。国際情勢・政治情勢への
洞察力のなさが、結局は死ぬまで祖国に帰れないまま
日本で過ごす結果となった。クオンデ自身が選んだ道である。
ちなみにベトナムの国定教科書の6年・7年・8年・9年の
歴史教科書(日本の中学にあたる)を全て調べてみたが、
クオンデという名前は出ていなかった。師匠すじに当たる
ファンボイチョウについては、ある程度のページを割いて
記述されていた。
午前7時、外は雨
朝食
午前中、メールの受信・返信。
日本の年末年始の計画と準備。バオミンさんと相談する。
読書「ベトナム来たもう一人のラストエンペラー」
午前11時半、昼食。
昼寝。気温が下がり疲労感あり。2時間ほど寝る。
読書「暗夜行路(前編)」(志賀直哉著:岩波書店)
バオミンさんと当面の諸問題で話し合い。
午後5時、日本料理店へ。税田さんと大塚さんが
日本へ帰国しているので日本人は私だけ。
ベトナム事務所スタッフは午後5時で全員帰宅。
土曜日の全教千葉の皆さんとの夕食会で「生ビール」が
出なかった。原因を究明。水素ガスがなかったという
実に簡単なことだった。
担当のグエットさんに日本料理店に来たら最初に
①生ビールの残りを樽を手で持って重さを確認すること
②水素ガスのメーターを見てガスの量をチェックすること
③サーバーを使い実際に生ビールを出して、泡の量、
ビールの色、冷え方を確認することを話す。
調理主任のトゥーイさんを2階ベトナム事務所に呼び
バオミンさんと一緒にいくつかの問題を相談し、3人で
話し合う。
午後5時半にこどもたちと夕食を摂ろうとしようとしたら
アメリカ人2人が来店。夕食を中止し注文をとる。
夕食を摂らず、急いで調理する。
接客係りのリー君も積極的に調理場の仕事を手伝う。
生ビールの注文があり「付け出し」を作る。
餃子の注文
「焼き魚定食」の注文
お寿司
午後6時半になってやっと遅い夕食。
リー君は、店番を買って出た。調理担当と接客主任の
グエットさんに夕食を先に摂らせ、自分は皆が食べ終わった
後、5分ほどで夕食を食べて、再度日本料理店に出る。
アメリカ人。かなり長い間、私と話した。
ベルギー人の一行は私を呼んで「座れ」と言い、
日本酒を注文し、一緒に飲むハメに。
私の活動、ベトナムの実情などをかなり詳しく
聞かれ、こどもたちの様子、活動、何故ベトナムに
来たかなどを話す。家族はどうしているとの
質問をあった。
結局、午後10時半まで話し合う。
何人かの方がJASSへの寄金を置いていく。
感謝。
今日1日の会計をグエットさんが整理し、お金を私が
あるところに持って行き、今日1日の仕事が終了。
「ハイリーホテル」着は午後11時。
今日は14人の来店。最後のベルギー人は、午後8時45分頃
入店し、午後10時半までいた。
来店した14人は全員欧米系。
ほとんの来店者は「ロンリープラネット」(英文のガイドブック)を
読み「MR・JASS MAN」と題された私の活動と日本料理店
の紹介文を読んできている。
2009年12月27日
朝食バイキング:内田さん・税田さん見送り
快晴 休肝日
午後3時の気温26度、湿度65%。
午前4時起床。12月25日・26日の火炎樹日記を
書く。
午前8時、フエ市内「カメリアホテル」へ。
内田さん・税田さん・原田先生・ソン君・メンさんと合流。
カメリアホテル11階(屋上)の朝食バイキング。
55000ドン(250円)。
晴天・湿度もフエでは高くない。屋上のテラスで
バイキング朝食を摂る。
今日の夕方、内田さんはクリスマス会など主催し帰国。
税田さんも一時帰国。今日の朝食が最後の食事となる。
私はブンボー、チャーハン、野菜、ヨーグルト、チーズなどを
食し、フルーツとコーヒーを堪能する。
午前10時半まで6人で雑談。解散。
私はその足で全教千葉女性部関係の皆さんの昼食レストランへ。
皆さんは、午前中買い物をし、このレストランで早めの昼食を
摂り、フエ空港へ行く。
皆さんにフエ・「子どもの家」訪問のお礼。
ベトナム訪問11回目。「子どもの家」訪問も7回位と
伺う。「子どもの家」支援、山岳少数民族カトゥー族支援、
船上生活者子弟の多いウh-ルー小学校支援を長年
続けている。「言うは易し、行なうは難し」である。
全教千葉女性部の皆さんのように長年、コツコツと
ベトナムのこどもたちの支援を続けているその心持ちに
敬意を表したい。継続こそ力であり、尊敬に値するもの
だと思う。口でどんなに立派なことを言っても行動が
伴わない理論も思想も私は評価しない。
全教千葉女性部の皆さんの健康とご活躍を期待したい。
午前11時、「ハイリーホテル」着。
バンベー36号の全文書の添削・校正をする。
バンベーに必要ば写真を2000枚の写真ストックから
探す。
午後1時半まで校正作業・写真探し。
30分ほど、昼寝。
読書「獄中記」「天か帝か」(ファン・ボイ・チャウ著)
を読む。
明治時代の息吹を感じる。日本に中国から孫文などが
亡命し、ベトナムからグエン王朝開祖のザーロン帝の
長男の直系子孫のクウオンデがフランスとの抵抗闘争の
首領として日本へ脱出。
日本・中国・タイ(シャム)などを股にかけてのボイチャウの
活動を描かれている。
1800年代中期からの欧米列強のアジア侵略、それと
闘うアジアの人々の連携、革命などが生き生きとあがかれている。
本文はボイチャウの漢文を日本文(漢文調)に翻訳したもの。
かなり読みづらい。
午後5時半、「ハイリーホテル」へ内田さん・バオミンさんたちが
来てくれる。
内田さんは9日間のフエ滞在を終わり帰国。
税田さんは、一時帰国。
原田先生も交えて「ハイリーホテル」前で記念撮影。
午後6時過ぎ、フエ空港着。内田さん、税田さん二人の
チェックイン手続きを終わり、空港待合室へ。
知り合いのフエ空港警備隊長と雑談
9日間のフエ滞在を終えた内田さんに感謝したい。
ダナン旅行では休息を。何度かの会食では栄養を。
クリスマス会では、こどもたちに愛情と言う栄養を
寄贈して頂いた。この紙上を借りて深謝したい。
バオミンさん、ソン・メンさんとフエ市内へ戻る。
帰宅途中「コムディア」 屋へ。
20000ドン(100円)でご飯と上に野菜と少量の豚肉が
乗っている「ほか弁」を買う。
午後7時、「ハイリーホテル」で夕食。
夕食後「天か帝か」「海外血書」(ファン・ボイ・チャウ著)読了。
今夜どうしてもボイチャウの本を読了したかったので
休肝日にする。この10日間ほど、毎日飲みすぎた。
これで1冊のファンボイチャウの著作を全て読み終わる。
「ベトナム亡国史」までは「尊王攘夷思想」を基本としていたが、
獄中記・天か帝か・海外血書になると中国の辛亥革命・日本の
明治維新以後の薩長藩閥政治に対する野党の闘い、
1917年のロシア革命などの影響を受け、
尊王思想から民主主義・共和制思想へと変化していく過程が
良く分かる。
ボイチャウが一貫して主張していることは愛国主義である。
民族主義ともいえる。フランスの植民地政策を具体的に
根本的批判を痛烈かつ激烈にしている。
本書を1冊読むとグエン王朝の成立とフランスの植民地政策
が良く分かる。同時にベトナムの反フランス植民地闘争に
中国国民党や大隈重信など明治政府の野党、シャムなどの
影響が読み取れる。
「ベトナムから来たもう一人のラストエンペラー」
(森達也著:角川書店)を読み始める。
テレビディレクターの森氏が、日本での文献を若干読んで
短期間のベトナム取材で書いた本なので、最初から
間違いがあり、何となく安直な内容を推測してしまう。
先入観を捨てて読み進める。
午後10時20分、内田さん・税田さんが無事、ホーチミン空港
の国際線に着いたとの電話あり。
無事な帰国を祈る。
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紅白歌合戦の曲順が決まった。私の知っている曲は7曲。
・美川憲一「さそり座の女 2009」
・川中美幸「ふたり酒」
・森 進一「花と蝶」
・アリス「チャンピオン」
・布施 明 「MY WAY」
・石川さゆり「津軽海峡・冬景色」
・SMAP「そっと きゅっと~世界に一つだけの花」
(この曲は多分、「子どもの家」に来た多くの
大学生が歌っている曲と推測する)
2009年12月26日
京都府高校の先生一行を案内:海産料理:全教千葉晩餐会
快晴
気持ちの良い気候である。少し暑いくらい。
午前7時朝食。
精進ブン麺(量が多い)
午前8時、センチュリーホテルへ。
バオミンさんさんと京都府の高校の先生方を案内する。
先生方の希望で「縫製研修センター」を最初に案内。
午前9時前、「子どもの家」着。
記念品・支援物資贈呈
セン運営委員長より歓迎の挨拶
1時間ほどかけて「子どもの家」の各施設等を案内する
絵画教室参観
午前11時過ぎ、講演会が終わり、刺繍みやげ物店で
たくさんの刺繍製品を買ってくれる。感謝
午前10時から1時間、講演会を行う。
朝、「ハイリーホテル」で貝ご飯を食べていたハイ君が
「子どもの家」にいた。やはり長い間住んでいた「子どもの家」
はハイ君のふるさとでもあるのだ。
7人の京都府の高校の先生方と別れる
その足でベトナム事務所へ。
クリスマス会を支援し、ベトナム事務所員を激励して
くれたう内田さんが明日の27日に日本へ帰る。
今日はベトナム事務所員と最後の昼食交流会。
「ハイリーホテル」付近の「海鮮料理」へ行く。
バオミンさんから内田さんへお礼のことば。そして乾杯。
海老の炭火焼
ソン君からベトナム事務所員に正式のメンさんとの
結婚の話をする。ベトナム事務所員の祝福の言葉アリ。
イカ料理
貝料理
午後2時半、閉会。午後3時、「ハイリーホテル」へ。
しばらく昼寝。
午後6時過ぎ、日本料理店へ。全教千葉女性部は
今夜がフエ滞在最終日。
フールー小学校の元校長先生・現校長先生・教頭先生、
ユオン先生(「子どもの家」卒業生)を招待し交流会。
私とバオミンさんも参加。
午後6時半開会。
はじめにリー君とグエットさんで今日のメニューを紹介。
全教千葉女性部代表の先生からの挨拶
新校長とユオン先生(今年の10月正式教員となる)
元校長校長と新教頭先生
全教千葉関係者の皆さん
フールー小学校から花束を頂く
全教千葉女性部代表の先生に元校長先生より
花束と新年の挨拶
今晩のメニュー
・空芯菜のニンニク炒め
・ミモザサラダ
・天ぷら
・太巻き
全教関係の先生方一人一人の感想発表
国士舘大学の先生
フールー小学校新校長先生からお礼の挨拶
リー君も一生懸命仕事に精を出していた。
元校長先生から長い間の全教千葉婦人部との交流にお礼
のことば
午後8時半、閉会。
全員で記念写真
その後、新しくできた5つ星ホテルのレストランで食事を
していた内田さんが日本料理店へ。しばらく話をする。
静岡大学学長への手紙を書き、日本料理店を後にする。
「ハイリーホテル」へ到着後、直ぐに寝てしまう。
今週は朝から夜遅くまでの仕事が連日続き、
かなり疲れたが、真面目な訪問者の案内は
楽しいものである。
この数日、火炎樹日記を書く時間が全くなかった。
2009年12月25日
全教千葉女性部ツアー「ナムドン山岳地帯」へ
快晴
連日の活動で「火炎樹日記」を書く時間がない。
午前7時、朝食。
「ハイリーホテル」の台所付近に「貝ご飯(コム・ヘン)』の屋台が
出ていた。「ハイリーホテル」の元住人「ハイ君」が
3000ドン(15円)の貝ご飯を食べていた。「ハイリーホテル」に
入ってきて「挨拶」をする。元気に仕事をしているそうだ。
貝ご飯の路上販売
午前8時過ぎ、フォンザンホテルへ。
全教千葉女性部ツアー関係の皆さんとナムドン山岳地帯へ
行く。バオミンさん・リー君も同行。
午前10時、ナムドン郡トゥオンロー村「トゥオンロー小学校」へ。
小学校は、改築され、正面には大きなホーチミン氏の絵が
描かれていた。
トゥオンロー小学校には全教千葉女性部の皆さんと
東京太平観光北垣会長から全員に奨学金が贈呈されている。
校舎入り口には、大きな歓迎の横断幕があった。
トゥオンロー小学校の新校長先生と懇談。
新校長先生から歓迎の挨拶
奨学金をもらっている「カトゥー族」の子どもから
お礼の言葉
訪問団の皆さん
全教千葉女性部訪問団へこどもたちから花束の贈呈
新校長先生と全教千葉女性部訪問団団長
その後、各クラスへ行き、こどもたちとコップを工作してゴムで
飛ばす玩具を作る。
奨学金を贈呈している60名近くのこどもたちの写真を
撮り、名前を確認。全教千葉女性部などの奨学金
寄贈者へ送るため。
最後に各クラスへ行き、全員に奨学金を贈呈
午前11時半、トゥオンロー小学校から昼食会場へ
午後1時まで、ナムドン郡中心部にあるレストランで昼食。
午後1時過ぎ、カトゥー族の村へ。村民と交流
支援物資を持って交流会場へ。
村長さん(57歳)の歓迎の挨拶
カトゥー族訛りのベトナム語なのでバオミンさんも
通訳に一苦労
インスタントラーメンなどの支援物資を贈呈する
カトゥー族若者の歓迎の踊り
現在600人ほどで村を作っているが、ベトナム戦争終結以前は
1500メートルほどの山奥に200人位で生活していた。
カトゥー族は文字を持っていない。
ベトナム戦争終結後、共産党の指示もあり、 山を下り、
300メートル程度の高度の場所に移住。ベトナム政府の
指導下に入る。その後は、ベトナム人化政策が推進され
こどもたちは学校でベトナム語を学び、家ではカトゥー語
と言う生活。この35年ほどの間にカトゥー族独自の
文化が衰退し、ベトナム人(ベト族)化が進む。
JASSが10数年前から推進しているカトゥー族との
交流・支援活動は、カトゥー族の文化の「掘り起こし運動」
に貢献している。
私たちとの文化交流をするため、何十年も踊っていなかった、
既に忘れ去られていたカトゥー族の踊りや各種文化を
発掘する結果となった。
私たちがカトゥー族の皆さんと交流する度に「新しい踊り」
が増えていった。カトゥー族の文化部長さんに聞くと、
私たちを歓迎するために、若者たちが村の長老に
聞き、ベトナム戦争以前、山奥で独自の狩猟漁労生活を
していた当時踊っていた踊りや風習などを聞き取り、
復元作業を10年間ほど続けてきた。現在、かなり
多くのカトゥー族の踊りや文化が復元され、若者に
引き継がれている。
カトゥー族の皆さんとカトゥー族の民族踊りを
一緒に踊る
カトゥー族のこどもたちに日本の小学校図工で指導する
玩具つくりを教える
最後にカトゥー族の皆さんと自家製焼酎を飲みながら
交流
午後3時過ぎ、トゥオンロー村交流会場を後にする。
トゥオンロー村・カトゥー族の皆さんはどこまでも自然の
中での自給自足生活を基本にした「のんびり」として
生活を営んでいた。
午後5時過ぎ、フエ市内到着。
午後6時過ぎ、フエ共産党・人民委員会幹部と
当面の諸問題について協議・懇談
午後10時過ぎ、「ハイリーホテル」へ「帰還」する。
2009年12月24日
第14回「子どもの家」クリスマス会
快晴
午前7時の気温22度。
朝食。マカロニ麺
午前8時からメール受信。
静岡大滝下正敏さんより電話連絡。急を要する件。
バオミンさんと打ち合わせ。緊急の手を打つ。
午前7時45分ベトナム事務所へ。
午前9時過ぎ、地球の歩き方ミニスタディーツアー(7人)
の皆さんがいる「子どもの家」へ。
「子どもの家」でヒイウ君(14歳)の退所式。
両親いない。フエ郊外の農村。2006年入所。
叔父さんが引き取りたいとのことで退所となる。
午前10時、「子どもの家」図書室で地球の歩き方
ミニスタディーツアーの皆さんに講演。1時間。
同時期、「子どもの家」台所では、全教千葉女性部の
皆さんがこどもたちと「ポップコーン」つくりをしている。
ポップコーンを楽しむこどもたち
その後、全教千葉女性部は、こどもたちと交流会
こどもたちと全教千葉女性部「記念撮影」
地球の歩き方ミニスタディーツアーの皆さんは
1時間の講演を終わり、朝からこどもたちと
市場へ買い物へ行き、作った料理で
午前11時からこどもたちと昼食。
昼食後、こどもたちとサッカーに興じる。
午後2時半、ベトナム事務所へ。
今日は「グエンフエ高校」「フールー小学校」
から年末と新年のお祝いの花が届いていた。
午後3時過ぎ、ハーバーチュン高校の副校長先生と
奨学金担当の先生、そして生徒さんががベトナム事務所を訪問。
新年お祝いの挨拶に来た。
生徒さんからお祝いの花束贈呈あり。
午後3時半、ベトナム事務所員と一緒に「第14回クリスマス会」
の会場である「フェスティバルホテル」へ。会場作り。
14回目となるクリスマス会は日本の支援者である
内田征子さんが14年前から毎年24日に
「寄贈」してくれている「子どもの家」恒例の行事である。
改めて内田征子さんに感謝したい。
午後5時半より開会。
来賓は、フエ市外務部長、フエ県警本部幹部、
フエ市観光会社社長。
フエ外務部副部長、セン「子どもの家」運営委員長
司会は原田先生とハンさん
来賓を代表してニエン外務部長よりお祝いの挨拶。
続いて主催者である内田征子さんよりこどもたちへ
励ましの言葉を頂く。
セン「子どもの家」運営委員長より挨拶
最後に私の乾杯の音頭で「第14回クリスマス会」は
開会された。
全員のこどもたち(「子どもの家」・在宅支援)、スタッフと
乾杯の挨拶
ターオさん(1997年出版の私の伝記当時は4歳)
現在は、高校生となっている。
「子どもの家」スタッフ
ビンゴー大会、カラオケ大会の賞品
クリスマスケーキを食べる
ビンゴー大会で入賞し、大きな縫いぐるみ人形をもらう
最後にこどもたち待望の「大カラオケ大会」。総数30数名が
出場。
1993年からの「在宅支援」のこども。コックホック高校・フエ大を
出てホーチミン市で働いている。
熱唱するタン君
テレビの取材の際入所したリーさん。当初は大人しかったが
カラオケで堂々と歌えるようになった。
コックホック高校で学んでいる
リー君の出番。歌手になりきって熱唱
カラオケを聞いてるこどもたち
一回り大きくなったチュック君
カラオケ大会の表彰式(1位から5位までのこどもたちを表彰)
2位になったトゥイーさん(フエ師範大学化学科在学)
第5位に入賞したリー君(大喜び)
全ての行事と会食が終わり帰宅。
内田さんが、全員のこどもたちにお土産を用意している。
お土産はお菓子セットと景品
ベトナム事務所スタッフは、こどもたちにお菓子や景品を
渡すのにおおわらわ。一部不穏分子が2人分のお菓子を
せしめる動きアリ。
午後9時すぎ「第14回クリスマス会」は閉幕。
こどもたちはバスに乗って「子どもの家」へ。
私たちは、コードーレストランで反省会
午後10時過ぎ「ハイリーホテル」へ帰宅。
今日は相当飲んだ。
2009年12月23日
全教千葉女性部関係者・地球の歩き方ツアー フエ着
快晴
午前6時、濃霧。フエ滞在16年。濃霧の朝は快晴に
なるとの体験あり。確かに終日気温26度。
午前7時朝食。フエ名物ブンボー。
朝食後、昨日の日記を書く。
かなりのメール受信。熟読し必要なメールを送信。
午前10時、「ハイリーホテル」を出て徒歩40分で
ベトナム事務所へ。
「ハイリーホテル」の遠景
青空と気温20数度の空気は気持ちが良い。
車の通らない川沿いを歩く。
午前10時40分過ぎにベトナム事務所へ着く。
丁度よいウオーキング日和。
ベトナム事務所では、内田さんがベトナム事務所員などに
お茶のお手前を披露。
午前11時過ぎ、ベトナム事務所は昼休みに入る。
関係者で「チャオバンカン」の「待つ店」へ行く。
フーン先生・税田さん・原田先生はフエ高等師範大学
日本語学科の2年生の期末試験中。午前9時から午前11時半。
●フエ高等師範大学全景
●会話試験を待つフエ高等師範大学日本語学科2年生
●JASS日本語部長フーン先生の試験風景
●税田さんの試験風景
70人の学生一人一人に時間をかけ、日本語の会話が
基準に達しているのかを試験する。
(写真撮影 原田先生)
車で15分。ドンバ市場の先にある「待つ店」本店。
エントリーに「ウズラの卵」が出る。塩コショウをつけると
乙な味がする。
薬味は「ねぎ」「唐辛子」「塩・胡椒・味の素」
ベトナム人(バオミンさん・ソン君・リー君)は唐辛子を
大量に「ぶち込まない」と美味しくないようだ。
チャオバンカンが「真っ赤」になっている。
バオミンさんのチャオバンカン
ソン君のチャオバンカン
リー君のチャオバンカンは、むしろ黒に近い
(典型的なフエ人である)
私のチャオバンカン
赤くないが、既に出てくる前に大量の胡椒が入っているので
胡椒の辛さが強い。舐めた気持ちで唐辛子など入れたら
口が爆発する。
私と内田さんは3杯、ベトナム人の若者3人は4杯。
午後12時半、「ハイリーホテル」へ戻る。
読書「ベトナム亡国史」(ファン・ボイ・チャウ著)を読了
なかなか強烈な精神力と愛国心を持っている。
続いてファン・ボイ・チャウの「獄中記」を読み始める。
南十字星というペンネームで「何盛三 がもりぞう」が
翻訳したものと言われている。1914年にボイチャウ
が書いたもの。
ボイチャウは、1914年、中国の広東省督軍の
竜済光に逮捕され、フランス軍に引き渡され
処刑されるという状況の中、中国の獄中で
自分の生い立ち・人生・抗仏闘争の意義について
書いたものである。
30分程昼寝。気温25度。この一週間の
寒さに比べたら気持ちのよい昼ね時間。
午後2時、「ハイリーホテル」の部屋で仕事をしようと
したらパソコンが起動しない。
直ぐに業者に来てもらい修理。部品の一部が
壊れていて交換の必要アリとのこと。
交換してもらう。
午後3時過ぎ、多数のメール受信。
送信。
ベトナム事務所では、午後2時からベトナム事務所員一同が
明日のクリスマス会の準備をしている。
一人一人のこどもたちへのお菓子のプレゼントの袋詰め。
袋詰めをしている段階で既にベトナム事務所員はクリスマス気分
●クリスマス会のくじ引きなどでこどもたちにあげる「景品」
●日本の茨城県の里親Hさんより里子へのクリスマス
プレゼントが届く。感謝
午後5時半、バオミンさんが「ハイリーホテル」へ
車で迎えに来てくれる。
午後6時10分、フエ空港着。
地球の歩き方スタディーツアーの皆さんが無事到着。
ソン君とアンさんの出迎えで夕食を摂りホテルへ。
同時に9人の全日本教職員組合千葉女性部関係の
皆さんが来訪。今年で10回近くのフエ・「子どもの家」・
フールー小学校・ナムドン訪問である。
車でフエ市内「フォンザンホテル」へ。
皆さんと一緒にフォンザンホテル「ホアマイレストラン」
で夕食。
明日はクリスマスイブ。ホテルもクリスマスモードに入って
いた。
午後9時頃夕食を終わり解散。
日本料理店に寄り、バオミンさんのオートバイに乗せてもらい
「ハイリーホテル」へ。
2009年12月22日
ソン君・メンさんの結婚予定報告会
曇り・時々雨
寒い
午前7時朝食。
午前中、ダナンとメンさんの結婚式の「火炎樹日記」
を書く。
レジデンスビザ取得のための写真を撮る。
昼食後、バオミンさん・税田さんと「当面の諸課題」に
ついて話し合う。
午後5時半、内田さん・税田さん・バオミンさん・私の4人が
ソン君・メンさんに呼ばれ大衆レストランへ。
会食の冒頭、ソン君から以下のような挨拶があった。
「私とメンさんは長い間子どもの家で育ちました。
そして二人とも大学へ行かせてもらい卒業しました。
私はベトナム事務所で働き、メンさんは、会社員として
働いています。今、二人は自立して生活することが
できるようになりました。これも小山先生や内田さん、
日本の支援者、そしてベトナム事務所の皆さんの
お陰です。ありがとうございました。
私とメンさんは子どもの家にいる事から愛をはぐくんで
きました。そして二人とも自立した今日、結婚することに
しました。私は母親しかいません。メンさんは両親が
いません。今日、小山先生が私の父親として、
内田さんがメンさんの母親として、二人に両親役を
してもらい、この席で、ソン家とメン家両家の親に
結婚予定を報告し、両家が今後親戚になることを
誓う約束をしたいです。
私たちは占い師に占ってもらった結果、2010年7月に
結婚することが一番良いと言う結果を得ました。
2010年7月に結婚します。皆さん宜しくお願いします。」
要旨、以上の話であった。
私はソン君が28歳、メンさんが
26歳になったこの姿を見て、小学校低学年の二人の
姿を思い出し、目頭が熱くなり、お祝いの言葉を言うことが
できなくなった。
内田さんから結婚(婚約)のお祝いの言葉があった。
そして、バオミンさんの「婚約おめでとう」の乾杯の音頭が
あり、簡単な挨拶儀式は終わり会食へ。
婚約をし2010年7月に結婚するソン君とメンさん。
おめでとう
二人の結婚は「子どもの家」のこども同士の結婚の第一号
である。二人の幸せを祈る。
来年の7月まで、結婚式の準備など大変だと思うが、
できるだけ応援したいと思っている。
私たちの支援活動は「ある程度の時間」が必要なのである。
それは、お金や物をあげるだけの支援ではなく、究極的には
「人間を育てる」支援を目指しているからである。
人を育てるのは、時間がかかるのである。その長い期間を
忍耐し、継続する努力と勇気が海外支援には求まられて
いる。
日本料理店へ。14人の来客アリ。
ロンリープラネットを読んで来店したヨーロッパ系の
人が多い。
午後9時半閉店。
その後、ソン君とメンさんの婚約を祝い、リー君、
バオミンさん、税田さん、内田さん、原田先生で
乾杯。
午後10時前、「ハイリーホテル」へ。
バオミンさんが心配して私の電動バイクについて、
「ハイリーホテル」まで来てくれる。
2009年12月21日
「子どもの家」卒業生のMENさんの結婚式
ダナンは曇り フエは小雨
フエ 午後5時の気温17度 湿度90%
午前7時半、ホテルで朝食。
午前8時半、ダナンの「サンデービーチ」を出てフエへ向かう。
今日は、「子どもの家」の卒業生のメンさんの結婚式、
午前11時から開会の招待状をもらっている。
しかし、ベトナムの「慣行」で1時間遅れの開会になることは
目に見えている。
ダナンから2時間半。フエ市内到着。雨。
車を「ハイリーホテル」へつけてもらい、私、税田さん、
原田先生が結婚式用衣装に着替え、式場へ。
結婚式場はドンバ市場近くの「チーラン通り」に
あるレストラン。
午前11時半到着。半分位の人が結集。
結局、結婚式は1時間遅れの午後12時に開会。
メンさんと兄のニン君は1993年10月に私が作った
「チーラン通り子どもの家」に入所。
それから今の「グエンチャイ子どもの家」へ移り、
通算14年間、私たちと一緒に「子どもの家」での
生活をした。北海道札幌の「鹿又達男さん」が長年
メンさんの里親としてメンさんの生活を支えてくれた。
メンさんは中学を卒業すると「子どもの家」近くの
小さな縫製店に「見習い」として研修に行き、
4年間ほどミシンの研修をする。2年前に研修が終わり
自立。研修中にお金を貯めて、自分で縫製ミシンの
小さなお店を王宮の裏に出店。現在は縫製店の
オーナーとしてしかなりの収入を得て、自立した
生活ができるようになった。私がメンさんと出会ってから
16年の年月が経過した。現在22歳。
「子どもの家」に入所したのは、6歳の時である。
里親の鹿又さんや多くの人たちの支援で、メンさんは
一人前の真っ当な人間に成長した。
私たちJASSの仕事は本当に小さな仕事ではあるが、
メンさんに取って見れば、もしJASSがフエになかったら
どんな人生が待っていたか分からない。中学で勉強する
機会も、ミシン研修の機会もなく、想像できないような
「荒れた」生活をせざるを得なかったかも知れない。
JASS16年のフエでの歩みは、6歳の時
諸事情で親から離れ、3歳年上の兄と「子どもの家」で
生活しなければならない少女を、立派な大人にすることが
できたという意味は持っている。
●結婚式場前に飾られていた写真
●新郎新婦
夫はメンさんのミシン縫製店の近くで小さな喫茶店を経営。
結婚式には「子どもの家」の同年代の卒業生なども
招待されていた。リー君もメンさんと一緒に生活した
仲間。
●「子どもの家」のスタッフも参加
●メンさんと一緒に「子どもの家」で生活した卒業生や
在校生
●新婦 メンさんのお母さん
どんな事情かは分からないが、諸般の事情があって
メンーさんと兄のニン君を「子どもの家」に預けたので
あろう。
とにかく娘さんが結婚し、自立したことに「お祝い」を
言いたい。
●午後12時過ぎ、いよいよ結婚式が始まる。
新郎新婦入場
●式場正面の飾り
結婚式
新郎 TAM(タム) 新婦 MEN(メン)
陽暦 12月21日 旧暦 11月6日
●新郎新婦と両親
メンさん側は母親と父親役は親類
新郎は母親のみ
●開会後、家族・親類・お偉いさんの挨拶は一切なし。
突然、開会冒頭で私が指名され、挨拶するはめになる。
日本流なら事前に「挨拶をお願いします」などという
言葉があるはずなのだが、さすがベトナム。
突然の指名。壇上に上がりお祝いを申し上げる。
バオミンさんが通訳。司会者から「今後も貧しいこどもたち
是非助けてください」との紹介あり。
●新郎・新婦による「シャンペン」の開栓
●シャンペンを注ぐと煙が出てくる仕掛け
●最後に「爆竹」の代わりに100個近い風船が一斉に
割れ、「バンバンバン」と爆竹の音を立てる。
また、花火が「シュー」と壇上を照らす。
皆で乾杯
結婚式の挨拶は、私だけという不思議な結婚式がはじまる。
直ぐに会食とビールの宴会。
新郎新婦は参加者のテーブルを訪れ、結婚を報告。
参加者のお祝いの言葉と乾杯を受ける
●リー君が来て、「子どもの家」のセン運営委員長と
私に乾杯
●「子どもの家」の男子卒業生
左からリー君(日本料理店)
ラム君(フダビールの運搬人)
トゥオン君(お坊さんの修行をしていたが現在は辞めた。)
カン君(フエ師範大を卒業し、ホーチミン市のミネラルウオーター
会社に勤務)
●メンさんと同じ頃「子どもの家」に入所した女子たち
真ん中のトゥーイさん(フエ師範大化学科)以外は、
退所し、就職し、自立している。
●メンさんを14年間育てた「子どもの家」のスタッフ
左のキムアンさんと右のロックさんは、1993年10月から
今日まで私と一緒に仕事をしてくれている。16年の付き合い。
●こうして小学校入学前後の年で「子どもの家」に入所した
こどもが結婚し、お祝いに駆けつける時代が来た。
16年の歳月を感じる。感無量。
●新婦「お色直し」
●メンさんのお母さんも来客に挨拶
●「子どもの家」の卒業生・在校生と
●日本料理店のこどもたちと
●料理も美味しい
ただしビールだけが、氷ビール。氷が「怪しい氷」
だったので氷をいれず「温かいビール」を飲んだ。
会食が始まった途端に「カラオケ大会」と化す
「子どもの家」からはフエ師範大学化学科のTHUY(トゥーイ)
さんが歌を歌う。
日本料理店のチャンさんも応援に駆けつける
更に日本料理店のリー君も応援なのか、壇上に上がりたかった
だけなのかは不明だが、壇上で「応援」。
●新婦メンさんの兄ニン君。1993年10月に「子どもの家」
に入所。中学を卒業し、私たちが作った「オートバイ研修センター」
でオートバイの修理を学び、現在はオートバイ修理工場で修理の
仕事をしている。25歳。
午後2時半、結婚式はお開き。
レストラン入り口でお客さんを見送る
「ハイリーホテル」へ戻り、休息。
読書「ベトナム亡国史」
午後5時過ぎ、電動バイクで日本料理店へ。
今夜は内田さんとメンさん(フエ経済大卒・現在は会社員)
も夕食に招待
午後7時半頃、オランダ人の来客に呼ばれる。
ロンリープラネットを見て日本料理店へ来たという。
「子どもの家」のこどもたちに玩具を上げて欲しいと。
しばらく「子どもの家」のことやオランダの「アンネフランク」の
隠れ家の話などをする。
午後8時半。オーストラリア人の家族が来店。やはり
ロンリープラネットを読んで来店したとのこと。
「子どもの家」の様子、こどもたちのことなどを
聞かれ、しばらく説明する。
午後9時閉店。こどもたちが帰った後、リー君・税田さん・
原田先生・内田さんたちで若干の交流。
午後10時過ぎ「ハイリーホテル」へ帰る。雨。寒い。
2009年12月20日
ダナン・サンデービーチで休養
日曜日 ダナンは曇り 小雨
午前中、ゆっくりする。
「ベトナム亡国史」(ファン・ボイ・チャウ著)を読む。
ボイ・チャウが明治末に書いたベトナムの被侵略史。
19世紀後半、フランスの侵略と植民地化の完成後
いかにフランス侵略者の卑劣で非文明的で過酷な
弾圧があったかを詳しく書く。
同時にフランスの植民地化に抵抗する高級官僚の
闘いを詳しくかいている。科挙試験に合格した
秀才が、フランスの植民地に反対し挙兵。
弾圧され首切りの刑だけでなく家族親族全員を
惨殺。更に首切り刑にあった首謀者の墓を暴き、
更にさらしものにするという徹底したフランスの
弾圧の実情をつぶさに明らかにしている。自分は
ベトナムの国の独立のために「尊王攘夷」の精神で
グエン王朝の再興を目指す。ハンギ皇帝はフランスに武力抵抗を
し捕縛され、アフリカのアリュジェに虜囚となり、
それ以降の皇帝は名ばかりで、全てフランス植民地主義者
の許可がなければ、詔勅ひとつ書けない状況を
糾弾し、命をかけて戦うと宣言。
昼過ぎ、車でダナン市内中華料理店へ。
生きた蟹を唐辛子入りで揚げて食べる。美味。
午後、部屋で休息。海辺のコテージ。快適な休息となる。
ソン君・原田先生はプールと海で泳いだという。
ホテルはクリスマスモードになっていた。
夕食を堪能する。
寒いので海鮮鍋を食べる
海鮮鍋のスープでラーメンを食べる。美味しい。
午後10時。無料でカラオケができると言うので
カラオケルームを借りる。
日本の歌は1曲だけ。後は英語とベトナム語。
午後11時終了。就寝。
充実した日曜日だった。
2009年12月19日
ダナン ビーチリゾートへ
フエ雨 ダナン小雨、曇り
午前7時「ハイリーホテル」で朝食。
精進ブン麺
午前9時、大雨の中、ベトナム事務所へ。
昨夜、フエに着いた内田さんがTU君の日本語教育中。
横浜から「子どもの家」を参観に来た訪問者。
ハンさん、新人のアンさんが案内。
その後、内田さん、ベトナム事務所員の話し合いで
土日とダナンのビーチリゾートへ急遽、行くことになる。
午後12時頃、フエを出て、二つの山を越え、ランコー海岸へ。
昼食。
ランコービーチは海産物で有名。
ムール貝や蟹を堪能する。
海産鍋
午後3時、ダナンの海岸にあるホテルへ。
しばらく昼寝。
読書「ベトナム亡国史」(ファン・ボイ・チャウ)を読む。
午後7時半からホテルレストランで夕食。
部屋へ戻り就寝
2009年12月18日
千代田区スタディーツアー「子どもの家」で交流
終日雨。
午前6時 気温20度、湿度90%。
午前7時、今日も急いで朝食を摂り、千代田区スタディーツアー
の皆さんが投宿しているホテルへ。
私の好きな「キャッサバ芋麺」
午前8時、バスで「子どもの家」へ行く予定だったが、
バスを予約する東京のN通運(観光)のミスで大型バスを
予約してしまう。大型バスは「子どもの家」などユネスコの
世界文化遺産には入れない。N通運(観光)とその下受け
のサイゴンの観光会社には趣旨は伝わっていた筈。
結局、実際には王宮など「子どもの家」にある
ユネスコ世界文化遺産には千代田区スタディーツアー
の皆さんは入れないという事態に陥った。
結局、JASSが小型バスに変更する
手続きと連絡をするというはめになった。
東京のN通(観光)の無責任な対応に抗議する。
抗議する理由は12人の高校生を中心にした参加者に
何ら責任感を持たず、「金儲け」だけしか考えていない
観光会社だからである。
この問題は、既に私が10月・11月の2ヶ月日本にいる間
に指摘していた問題である。N通(観光)は「私たちが責任を
持って催行する」と大見得をきったが、その結果がこの
無様な無責任な姿である。金儲けしか頭にないN通(観光)
の無責任さを改めて糾弾したい。私は責任感のない仕事をする
人が嫌いなのである。
N通運のお陰で千代田区スタディーツアーは日程が
狂い、「子どもの家」のスタッフは予定通りの計画の
遂行ができず待たされるという損害を蒙っているのである。
最大の
被害者は千代田区スタディーツアーの参加者である。
日本の企業の社会的な倫理観の低下が叫ばれているが
今回のN通運の仕事の仕方は、その典型であると
断言できる。
お金儲けしか頭になく、参加者への責任感の欠如は
まさに企業の社会的倫理の喪失でる。
結局、40分以上日程が遅れてしまった。急いで、
「子どもの家」で市場に買い物へ行くこどもたちや
料理担当のスタッフへ連絡。しばらく「子どもの家」で
待つように話す。
ホテルでしばらく待機するスタディーツアーの参加者
40分以上遅れて「子どもの家」へ到着。「子どもの家」の
こどもたちと一緒に近くの「タイロック市場」げ昼食の
食材を買出しに行く計画だったが、時間が遅れ
買出しができず、「子どもの家」の寮母さんが買ってくれて
いた。「子どもの家」のこどもたちと一緒に買い物をすると
いうN通運(観光)がスタディーツアー参加者と約束した
ことは果たせなかった。旅行業法違反である。
「子どもの家」の料理スタッフが買出ししてくれていた
食材を調理する。
千代田区のスタディーツアーの来訪を楽しみにしていた
「子どもの家」のこどもたち
「子どもの家」料理スタッフが買い物した食材を調理し
その後、「子どもの家」のこどもたちと文化交流。
「子どもの家」の交流の場である音楽室には地球の歩き方の
スタディーツアーの参加者が残していった「贈り物」が
貼ってあった。
午前11時前、音楽室で「文化交流」
セン運営委員長の「歓迎の挨拶」
「子どもの家」のチュン君との写真
「子どもの家」のこどもたちの歓迎の踊り
北海道芸術高校贈呈のTシャツが気にいったようで
歓迎会の際には、いつも着ている。「明日」
こどもたちの歓迎の踊りの後、千代田区スタディーツアーの
皆さんの歌
千代田区スタディーツアーの皆さんの歌に聞きほれる
「子どもの家」のこどもたち。重唱が素晴らしい。
男性が2名なので多少低音が弱かったが・・・・。
フエ芸大の油絵科の3年生になったフック君。
さすが「芸術家」。格好と雰囲気が芸術家風。
歌の交流が終わり、マイムマイ、ジェンカなどをこどもたち
と一緒に踊る。
千代田区スタディーツアーの参加者は本当に
真面目な皆さん。こどもたちと誠心誠意交流していた。
こうした「無心」の交流こそ本当の交流である。
4人の千代田区職員の添乗の皆さんに感謝したい。
午前11時半、こどもたちと一緒に料理した昼食を食べる。
高校1年生のNGA(ガーさん)と千代田区スタディーツアーの
参加者高校生。
千代田区職員・JICAスタッフの方々の献身的な
努力でスタディーツアーは大型バスの問題はあったが
何とか進展した。
午後12時過ぎ、「子どもの家」を後にした。
千代田区スタディーツアーの希望で当初予定になかった
フエ市のスーパー「BIC C」の参観へ。
午後2時近くまで2時間。小型バスでホテルへ。
ホテルで税田さん・ハンさんとバトンタッチ。
千代田区スタディーツアーの皆さんはその足で
「子どもの家」へ再訪。「子どもの家」と交流。
私は「ハイリーホテル」へ戻り昼寝。
疲労で1時間熟睡。
その後、昨日の火炎樹日記を書く。
午後5時、フエ市人民委員会の車が
「ハイリーホテル」へ迎えに来る、
午後5時半、フエ市郊外の小高い丘で
フエ共産党の最高幹部5人と懇談。
私とバオミンさんが参加。
今後更に10年JASSとフエ市人民委員会と
協力して「子どもの家」などのボランティアを
行う協定書を作ることで合意。
更に今後、JASSへ言われなき攻撃があった場合には
共産党と人民委員会が「断固とした措置を取る」で合意。
既に1件「その種の攻撃」が元JASSスタッフからあることを
フエ共産党最高幹部一同が確認。共産党と人民委員会
でこの種の『元JASSスタッフ』の言われない攻撃を
今後絶対に許さないことを確認した。
今後、2020年まで、フエとJASSは協力して
活動をすることを確認した。
午後9時過ぎ「ハイリーホテル」へ帰る。
2009年12月17日
千代田区主催スタディーツアー「ナムドン山岳地帯へ」へ
終日雨
午前7時、急いで朝食を摂り、市内ホテルへ千代田区
主催スタディーツアーの案内へ。
午前8時、私、バオミンさん、リー君の3人で
ドンバ市場案内。2時間。
千代田区スタディーツアーの皆さんはドンバ市場で
買い物をする。
16人の参加者の多数は女子高校生。
オーダーメイドのアオザイを注文する。明日の昼には
出来上がる。
午前10時、フエ市内を出て小型バスで1時間半。
ナムドン中心地に到着。午前11時半。
早速、昼食を摂る。「ナムドン専門家」のリー君が
熱心且つ真面目に接客・案内の仕事をする。
スタディーツアーの皆さんへの配膳などが終わり、バオミンさん
リー君も昼食開始。
午後1時過ぎ、昼食会場を出発。かなりの雨。
ナムドン山岳地帯の「フオンロー村」に到着。
早速村長さんの歓迎の挨拶。
支援物資の贈呈
ナムドン郡カトゥー族の皆さんの歓迎の踊りの最後に
千代田区スタディーツアーの皆さんと一緒に
カトゥー族の踊りを踊る。
続いて千代田区スタディーツアーの皆さんの出し物
歌「ふるさと」・・・・・
カトゥー族の皆さんは歌に聞き入る
歌を歌い、踊りを踊りながら交流を深める
折り紙などをしながらの交流
最後にカトゥー族伝統の食事でもてなしてくれる。
地酒の米焼酎・・・・。
20歳未満の日本からの参加者は飲酒はできないので
変わりに日本料理店のリー君が「米焼酎」は一手に
引き受けてくれる。引き受けすぎて12杯も飲んで
しまう。私はこの焼酎が嫌いなので飲まなかった。
竹にもち米を入れて蒸した「おこわ」
交流会は午後3時半過ぎまで続く
最後に全員で記念写真
午後5時過ぎ、雨の中フエ市内へ戻り、滞在ホテルまで
案内し今日のスタディーツアーは終了。
午後5時半から日本料理店で夕食。
午後6時過ぎからたくさんの来客アリ。
現在、欧米系の人たちは「クリスマス休暇」に入って
いる。
台湾とフィリピン出身でオーストラリアに住んで
いるご夫妻来店。「英語のガイドブック「ロンリープラネット」
を読んで来店されたとのこと。
私と話をしたいというので30分ほど話をする。
今日はラオスで行われている「シーゲーム」(東南アジア
スポーツ大会)のサッカーの優勝戦。
ベトナムとマレーシア戦。町中がベトナムの優勝を願って
テレビにかじりついて観戦。ベトナム側がシュートすると
町中で「ワー」という歓声が巻き起こる。結局、1-0で
マレーシアが優勝。日本料理店のこどもたちも
町中のベトナム人もがっかりする。民族意識が強い。
日本料理店閉店後、ナムドンで活躍したリー君に
生ビールをご馳走。税田さん・原田先生と30分ほど飲む。
午後9時半。長い1日が終わる。雨の中、カッパを
来て「ハイリーホテル」へ帰る。
2009年12月16日
臨時ベトナム事務所員会議
曇りのち大雨 終日雨
気温が急激に下がり、体調を崩す人あり
午前4時起床。
読書「ベトナム亡国史他」(ファン・ボイ・チャウ著)
ボイチャウの抗仏闘争の当初の基本的思想は
「尊王攘夷思想」であった。グエン王朝をたて
フランスの侵略を排除するとの考えだった。
これは日本の明治維新の「尊王攘夷思想」と同じものであった。
そのため、グエン王朝の血縁の「クンデ親王」を
盟主に「維新会」という秘密結社を組織し、
日本の尊皇攘夷思想から開国、日露戦争での
日本の勝利を学ぶために訪日。当初は日本から
の武器・金の援助をもらうために訪日、
大隈重信などに「人材育成が大事」と諭され
「数百人規模のベトナム青年」の訪日運動を
はじめる。「東遊運動」(ドンズー運動)である。
中国で辛亥革命が成功し、清朝が打倒される
情勢を知り、ボイチャウは、次第に「尊王攘夷」から「共和制」
に思想を変化させていく。
1時間ほど読書し、うとうとと眠り始めた途端、
目が回ってきた。天井がグルグル回り始めた。
目をつぶる。すると目の玉だけが左へ左へと
勝手に動いてしまう。気分が悪くなる。
20分ほど、目が勝手に動く状況が続く。
初めての体験であった。
しばらく吐き気が止まらなかった。
午前7時朝食。
午前8時半、臨時ベトナム事務所員会議
明日から年末のから4月までのスタディーツアーが始まる。
当面のスタディーツアー、クリスマス会などの打ち合わせ
初めに先週の活動報告
(フーン)特進クラスを1週間教えた。静大入学希望高校生と
集中日本語学習をしたい高校生など17人のクラス。
文法は大体できているが、会話・聞き取りが問題
クリスマス会準備の責任者になった。計画と準備をした。
(アン)「アクセサリー研修センター」へ来たブレラの皆さんの
通訳をした。
バンベー36号用の写真を「子どもの家」へ取りにいく。
奨学金のお礼の手紙の翻訳
((ハン) バンベー36号、ベトナム人原稿の日本語への翻訳
全教千葉女性部・地球の歩き方などのホテル・レスト
ランの予約
定期健康診断(「子どもの家」・省盲学校・省「子どもの家」)
この定期診断は「京滋YOUの会」からの寄付による。
盲学校75人、省「子どもの家」36人、「子どもの家」55人
の健康診断のお世話をした。フエ医科大学の先生の診療。
(原田)フエ高等師範大学3年生の期末テスト 無事終了
先週からフエ高等師範大学は休みに入る。
特進クラスの授業とテスト(第4課から6課)
定期健康診断に同行(2回目)勉強になった。
(フオン)特進クラスのテスト(原田先生の言ったとおり)
文法は良いが、会話に問題あり
(クアン)月から金まで「アクセサリー研修センター」の通訳
特進クラス第7課の授業
(税田)「アクセサリー研修センター」でブレラの技術専門指導員
の指導のお世話
月曜日(フエ高等師範大学会話テスト)
バンベー36号のまとめ
刺繍つくりの依頼 Tシャツ70枚
里親への新年のメッセージが完了し、渡辺和代さんに渡す
(ソン)「アクセサリー研修センター」通訳
ナムドンツアーの書類作成、レストラン予約
バンベ関連の写真撮影
(ミン)メールの送受信
訪日する2人のビザ関連の業務
北海道芸術高校スタディーツアーの準備
地球の歩き方スタディーツアーの準備
千代田区スタディーツアーの準備
その後、フーン先生の提案で12月24日に行われる
恒例の「第14回内田子どもの家クリスマス会」(内田さん寄贈)
の当日の進行表の確認。準備の進捗状況などの確認。
今年は時間を延長しても「子どもの家」のこどもたちが
十分「カラオケを歌った」と思えるように時間を取ることにした。
2時間弱の臨時ベトナム事務所員会議終了。
午前10時半、リー君と一緒にドンバ市場近くの家具屋へ行く。
日本料理店の店前に出すメニュー置きの「机」が壊れたの新しい
ものを買いに行く。
午前11時半「ハイリーホテル」で昼食。
昼を挟んで1時間半ほど停電。
午後12時過ぎ、停電の中で読書「ベトナム亡国記」
その後、1時間半ほど昼寝。気温が下がり、体がだるい。
午後2時、IT会社「ブライセン本社」とSKYPE会議。
当面のブライセンベトナム支社の運営等を打ち合わせする。
午後2時半、バオミンさんから電話。打ち合わせ。
日本の支援者にメールを送信。
1時間掃除
午後5時、日本料理店へ。
今夜の夕食は小麦粉の手打ちうどんの煮込み。
こどもたちが唐辛子バッチリ入れる子、中ぐらいの子。
日本人は微量。チャオバンカン(小麦粉の煮込みうどん)の
汁(つゆ)の色で分かる。
唐辛子ばっちり「チャオバンカン」(ベトナムのこどもたち)
唐辛子中くらいチャオバンカン(ベトナムのこどもたち)
唐辛子が微量の「チャオバンカン」(日本人)
日本料理店のこどもたちは、チャオバンカンが「白だ」と
馬鹿にしていた。確かにこどもたちに言うように「白」だった。
こどもたちは私のためににビールのおつまみを作ってくれている。
日本の若者よりよほど「気が利く」こどもたちである。
ニンジンとジャガイモの「金平(きんぴら)」
日本料理店の指導者である大塚合子さんの指導をしっかりと
守り、本当の日本料理店を作っている。フエのニセ日本料理店
とは全く味が違う。
私の一番好きなおつまみ「焼きスルメ」。
軽く炙り、少し焦がし、醤油を軽く注ぎ、冷蔵庫で二晩寝かす
と歯ざわりが良く、スルメの香りの良いおつまみができる。
純米大吟醸を冷やして「このスルメ」をおつまみにしたら
最高。
1993年から2000年まで「子どもの家」の責任者だった
ANH(アン)さんが、日本料理店の隣の精進料理屋に
やって来た。久しぶりに懇談。
欧米系の来客多し。
オランダのお客さんと記念写真。英語ガイドブック「ロンリー
プラネット」を見ての来店。
元々の英語系ガイドブック「ロンリープラネット」には、
今の日本料理店の前の日本料理店が記載されていた。
欧米系のお客さんは「子どもの家」を支援する気持ちで
以前の日本料理店に行っていた。以前の日本料理店を
今やっているベトナム人は、「ここはJASSのストリートチルドレン
の日本料理店です』と嘘を言って、お客を入れていた。
欧米系の人たちは既に「クリスマス休暇」。
毎日10数人の欧米系の来客アリ。
日本料理店終了後、内田さんと電話あり。
夜9時過ぎ再度停電。
2009年12月15日
掃除:バンベー原稿校正:マルサ関係者懇談
晴天
午前6時起床。
午前7時朝食。
キャッサバ芋麺
洗濯。
その後、2時間ほど掃除。
静岡市役所へメール・・・・・・・。
昼食
午後12時過ぎ読書「ベトナム亡国記」(ファン・ボイ・チョウ著)
1966年発行。40年以上前の本。神保町の古本屋で買う。
半分が訳者の「川本邦衛氏のボイチャウ小史」。
ここから読み始める。ファンボイチャウは1940年10月29日
フエで極少数の人に看取られて亡くなった。出身は
ゲアン省。ホーチミン氏の前に「抗仏闘争」を行い、日本へも
留学。「ルックイースト」「東遊運動」を組織し、明治時代に
日本から学べと主張しながら、フランス植民地主義者との
闘争を行った。川本氏の解説は「小史」となっているように
ボイチョウの生まれから解き明かしている。父親は
学校の先生。漢学に秀でたものを持っていて、ボイチャウも
その影響を受けた。ボイチョウは秀才であり、科挙試験の
受験生でもあった。
その後、30分ほど昼寝。
午後2時、ブライセン本社とSKYPE会議。
午後、部屋などの掃除。
バンベー36号の原稿添削。
帯広の芳村さんから電話。長年支援している障害児の
女子が看護学校を卒業し、病院へ勤め始めたとの
手紙をもらい、感動しているとの電話。
芳村さんは「暖炉基金」という独自の障害児を支援する
基金を作っている。JASSが管理している。
障害児に対し、大学を卒業するまで支援するという
基金である。今回、第1号の卒業生であり、就職者
でもある。彼女は足が不自由であり、家庭の貧しさという
困難を抱えていたが、それを克服して、9月から看護婦として
病院で仕事を始めている。
午後5時過ぎ「ハイリーホテル」を出て日本料理店へ。
午後5時半、こどもたちと夕食。
野菜・きのこ・豚肉の炒め物
鮭の刺身
午後8時、宇都宮マルサ縫製会社の佐藤社長と
フエ「縫製研修センター」の三浦さん、縫製関係の
会社の関係者の皆さんと懇談。午後9時15分まで。
ーーーーーーーーーーー
再び、天皇と中国副主席会談を論ず
小沢一郎民主党幹事長は記者会見で記者からの
質問に「貴方たちは憲法を読んでから質問しろ」との
暴言を吐いている。しかし、憲法を読んでいないのは
本人の小沢一郎民主党幹事長なのである。
今回の中国副主席と天皇の会見の政府強要は
憲法に基づく天皇の国事行為だと小沢氏は主張している。
しかし、憲法第7条には、天皇の国事行為は限定的に
記載されている。
第七条[1] 天皇は、内閣の助言と承認により、国民のために、左の国事に関する行為を行ふ。
一 憲法改正、法律、政令及び条約を公布すること。
二 国会を召集すること。
三 衆議院を解散すること。
四 国会議員の総選挙の施行を公示すること。
五 国務大臣及び法律の定めるその他の官吏の任免並びに全権委任状及び大使及び公使の信任状を認証すること。
六 大赦、特赦、減刑、刑の執行の免除及び復権を認証すること。
七 栄典を授与すること。
八 批准書及び法律の定めるその他の外交文書を認証すること。
九 外国の大使及び公使を接受すること。
十 儀式を行ふこと。
今回の中国副主席との会談の政府「強要」は
憲法第7条の9項を念頭に置いた小沢一郎民主党幹事長の
発言だと推測される。しかし、9項を読めば分かるが、
憲法で定められた天皇の国事行為は「外国の大使及び公使を
接受すること。」であり、けして国会主席や副主席との接見を
意味していない。
小沢氏は憲法4条にある国事行為は天皇の仕事だといっているの
である。
第四条[1] 天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない。
天皇は、法律の定めるところにより、その国事に関する行為を委任することができる
また、天皇の国事行為は憲法第3条で内閣の助言と承認
を必要とし、内閣がその責任を負うの条項を根拠に
天皇と中国副主席との会談を「強要」している。
第3条 [天皇の国事行為に対する内閣の助言と承認]
天皇の国事に関するすべての行為には、内閣の助言と承認(しょうにん)を必要とし、内閣が、その責任を負ふ。
憲法で定められている天皇の国事行為は、大使・公使との
接受である。
また、内閣は国事行為について、助言と承認を行うというのが
憲法の規定である。
今回の中国副主席の天皇との接見は、国事行為ではない。
従って、憲法3条に基づく、内閣の助言と承認の範疇に
入るものではない。
民主党内閣が行った今回の天皇の中国副主席との
接見強要は、明らか日本国憲法違反なのである。
中国とのお付き合いが大事なことは分かるが、
憲法の規定を無視し、記者会見で質問した記者に
「お前は憲法勉強しろ」という趣旨の発言をしている
小沢一郎氏こそ、日本国憲法を読んでいないのある。
今回の中国副主席との接見強要は「国事行為」ではない。
従って、内閣が憲法の規定に従って関与する問題ではない。
民主党は明らかに憲法を踏みにじったことになる。
日ごろ「日本国憲法を守ろう」といっている人間は、
この問題で憲法が蹂躙されていることに何らかの
声を上げるべきである。憲法9条だけが日本国憲法ではない。
今回の問題の本質は、主権在民という憲法の大原則を守るか
どうかが問われている。政府の指示で天皇がその時々の
政治的な課題に関与していくことは、天皇に政治的な権限を
与える道につながる。天皇はあくまで象徴であり、政治的な
権能をもたない。主権は国民にある。今回の問題は
天皇を利用し、中国の副主席に無理に天皇を会わせることに
より、天皇に政治的な力を与えるという「憲法違反」の道につながる
からこそ、反対すべきなのである。主権在民を勝ち取るために
日本国身が払った犠牲を考えるなら、この種の問題は芽の
内に摘んでおく必要アリ。
2009年12月14日
バオミンさん・税田さんと打ち合わせ:渡辺和代さん送別会
快晴
午後2時気温 26度 湿度66%
午前7時朝食。
マカロニのスープ
午前8時過ぎ、「ハイリーホテル」を出て徒歩40分で
ベトナム事務所へ。
途中、曇ってきたがウオーキング日和。
午前9時から午前10時半まで諸問題の打ち合わせ。
バオミンさん・税田さんと。
●1月17日、18日の両日来る千代田区スタディーツアー
の最終打ち合わせ。準備状況に遺漏はあるかの確認。
パーフェクトに準備は整う。
●静岡大学関連のいくつかの課題の協議
●テト休暇中の件
●2月東京で行われる「現地報告会」日程の確認
2010年2月21日(日)会場未定
●1月・2月・3月。4月のスタディーツアーの確認と
担当者分担の確認
午前10時半過ぎ、ベトナム事務所を出て、徒歩
「ハイリーホテル」へ。
往復約1時間半のウオーキングだった。
午前11時半、昼食。
午後12時半から1時間昼寝。1時間半の徒歩で
多少疲れる。
ラオスから電話。
静岡から電話とSKYPE
福島からSKYPE
午後5時半、日本料理店で夕食。
先日、こどもたちに教えた2種類の料理をこどもたちが
試作で作ってくれた。
キャベツが多少硬く、ジャガイモ・玉ねぎが柔らかすぎたが
教えたとおりの料理を作ったところは、確かに能力の
あるこどもたちである。
●キャベツの卵いため
●ジャガイモと玉ねぎの炒め物
●こどもたちが独自に作ったスパゲッティー
私は食べなかったが、こどもたちも「辛い・辛い」
と言っていたので、相当唐辛子を入れたのだろう。
午後6時から行う渡辺和代さんの送別晩餐会(日本料理店)
は渡辺さんの仕事の都合で中止。
午後9時前、フエ中央病院の仕事を途中で切り上げ
日本料理店へ。しばらく懇談。
============
JASSの支援者で上尾の「JUNIOR GLOBAL
STUDY TOUR」を企画し主導した星野理一さんが
花咲の湯という温泉を上尾に作りました。
「天然温泉花咲の湯 Hanasaki Spa」が
@nifty温泉に登録されている約8,500件の施設から、
一年間のクチコミ件数や評価をもとに集計した人気温泉
ランキングで年間全国第1位を獲得しました。
これは素晴らしいことです。
私も一度、花咲の湯に行きましたが確かに
何から何まで行き届いたサービスでした。
改めて星野さんにおめでとうの言葉を送りたい。
日本一にするためには、調査から企画、指導と
並大抵の努力ではできなきこと、私のほんのささやかな
体験からも理解できるところです。
日常不断の研究と努力、従業員への指導など
多くの困難を乗り越えての快挙を祝福したい。
詳細は以下に詳しい。
http://onsen.nifty.com/sp/ranking/
花咲の湯
http://hanasakispa.jp/
2009年12月13日
久しぶりに仕事の少ない日曜日
晴天のち曇り 雨。
午前7時目覚める。
読書「輝ける闇」(開高健著:新潮社)読了。
開高は1964年、朝日新聞の特別特派員として
ベトナム戦争が激化し始めた「サイゴン」に赴任。
サイゴンでの体験を文章化したのは4年後の
1968年。
開高のベトナム関連の本は何冊か読んだが、
この「輝ける闇」が一番素晴らしい。
1964年段階でサイゴン政権の腐敗、アメリカの
傲慢さ、労働党の狡猾さをしっかりと認識し、
この戦争は最終的には労働党が勝つとの見通しを
持っていたことは、慧眼である。
何よりも開高の1964年当時のサイゴンの雰囲気が
何ともうまく表現されているのである。
猥雑なアメリカの植民都市でありながら、作家・文化人
僧侶・キリスト関係者などの様々な動きがあり、殺人や
18歳、20歳の高校生などが解放戦線のために
手榴弾を2発運んだというだけで、市場前で
公開銃殺が行われ、死が毎日身の回りにあるなかでの
サイゴン市民の平静な日常生活。そして酒とアヘン、
女性などの歓楽と狂気・・・。何もかもが入り乱れた
「倦怠感」のある戦場サイゴンを実にうまく表現している。
そうした猥雑な中でベトナム戦争の本質を冷静・客観的に
見通し、戦争後のベトナムまでも見通していることに
驚く。今日のベトナムの「在り様」を既に1968年著の
本書で見通してるのである。諸般の事情で内容は省略。
午前8時停電。最終的に電気がついたのは、午後1時半。
5時間半の停電。
朝から昼過ぎまで停電の「暗い部屋」にいた。
「ハイリーホテル」はそもそもは、ラブホテルとして
作られたため、窓が少なく小さい。水周りとベッドだけが
しっかりした「生活用」には、全く不向きな建物なのである。
朝起きても食欲なし。
午前9時、徒歩でサッカー場の先のスーパーへ買い物に
行く。片道40分。
「ハイリーホテル」前の裁判所建築は基本的には「人力」中心の
工事である。
「ハイリーホテル」近くの川の近くを歩く。
川岸でのんびりと釣りをしている人あり。
スーパーはフエ市の「新都心」地区のはずれにある。
田んぼの真ん中。
いつつかの買い物をする。
このスーパーは比較的安く、品物もまあまあである。
帰りに小雨が降って来たので近道で帰ることにした。
いつも電動バイクで通る橋。途中に多少の段差あり。
土砂を積んだトラックがひっきりなしに通っていき、
土砂を落としていく。土砂が『土ホコリ』となり舞い上がる。
多くの通行人が毎日大迷惑をしている。トラックは
幌で土砂をかこってもいない。トラックの後ろから
土砂を撒き散らし走行している「違法車両」。
この橋はフエ市内にあるので、土砂を積んだトラックの走行は
禁止されている。本来なら市内を通らない「バイパス」の通行が
義務付けられている。しかし、多くの土砂トラックが近道の
市内を走行してるのが実情である。これらの土砂を運ぶ
建築会社は共産党や人民委員会の『お偉いさん」の
ダミー会社である。市民が「土砂を待ち散らすから捕まえろ」と
警察に言ったところで「お構いなし』なのが実情である。
こんなところにも一党独裁の毒牙はむき出しになっている。
現在、フエ市内建築ラッシュ。そこいら中の道路上に
土砂が巻きちらされている。土砂のウイルスにより
多くの市民が「目を赤く晴らして」いる。
私もその一人。「子どもの家」のこどもたちも目を赤く腫らした
こどもたちが多くいるとのこと。
午前11時半、「ハイリーホテル」に帰宅。
朝食を摂っていないが、空腹感なし。
1時間半近いウオーキングなのでかなり汗になる。
(この時点で気温26度 湿度60%)
シャワーを浴びる。体重測定。フエに帰って2週間。
2キロ近く体重が減っている。いつものことである。
心臓の薬を飲むために、胃に何かを入れなければならない。
昨日作った「手打ちうどん」の残りを食べる。
午後12時半。読書「ベトナム亡国史他」
(ファン・ボイ・チャウ著:平凡社 1966年発行)
午後1時半から3時まで昼寝。外は小雨。
メール受信。必要なメールを送信。
民主・社民・国民新党の3党連立内閣になり
3ヶ月が過ぎた。仕分け作業・・・・、今までの自民党の
政治とは一味違うやり方を持ち込み、政治に新風を
送り込んだことは事実である。戦後64年、基本的には
自民党(その前身も含む)と財界・官僚との三つ巴の
馴れ合い・でき政治体制が続いた。これらの「特権階級」の
人々が甘い汁を吸ってきたのも事実である。
民主の3党連立政権は、発足3ヶ月、様々な問題はあるが
基本的には「頑張っている」との評価を与えても良いと
思っている。
仕分け作業はインチキ作業。
小泉郵政民営化選挙と今回の「仕分け作業」は自民党と民主の
行ったテレビ用のパフォーマンスである。仕分け作業で
予算の杜撰な使い方が分かったという点はもちろん評価する。
JICAのスタッフが「正規の航空運賃」で帰国していたという
あほらしい話である。私たちなど貧しい民間人は、ベトナム
日本往復5万円程度の切符をインターネットで探しまくり
帰国している。JICAのみな皆様は正規で且つオープンの
航空券は40万円程度する。更にビジネス・ファーストクラス。
5万か10万円でいけるのに
何故、私たちの税金を使い贅沢な大名旅行をしているのか?
JICAの皆々様、貴方方の年収の10分の1以下の給与で
現地で活動している民間NGOで海外支援が支えられている
ことを肝に銘じないといけませんよ。
鈴木宗男議員の質問状への回答で海外大使館の
15年経験・妻・2人の子どもで年収1500万円近いと
のこと。ベトナムは更に「勤務困難地手当て」などが付き
驚くべき税金を使っている。それだけの仕事をしているとは
到底思えない。忙しいことと、仕事をしていることとは別である。
ベトナムという国にどれだけの影響を与えられているのか
ということである。
そうした無駄を「仕分け作業」は白日の下に晒した。
しかし、仕分け作業はある意味でテレビ用のパフォーマンス
だっだ。何が無駄で何が無駄でないかという国家的な
「物差し」がないまま、無駄のテッレル貼りを行っていた。
客観的に言えば、テレビを使った小泉劇場の裏返しの
「仕分け劇場」だったのである。「しどろもどろする高級官僚」に
国民は拍手喝采した。しかし、本質的な無駄使いに
ついて何ら手が付けられていないのだ。軍事費・米軍への
思いやり予算も含めた無駄遣い・・・・・・。
ノーベル賞受賞者が合同で記者会見をした。
(益川敏英先生だけは出席しなかった)
受賞者の言い分は「スーパーコンピュータの予算を
削り、科学技術予算を削ったのはけしからん」ということ。
このノーベル賞受賞者たちの記者会見がいかに
ボケたものかは、既に小泉改革で大学や文部省の科学予算は
基礎研究費を大幅に削減し、産学協同・軍学共同で「直ぐに
結果が出る』研究に予算をつけているのである。成果主義、
結果主義。
仕分け作業で「スーパーコンピュータの予算が削られて」
怒るのは既に遅いのである。小泉・竹中改革で「科学の
基礎研究費の大幅削減」が行われ、企業と結びつき
成果を上げた研究に大幅な予算が付くようなシステムが
出来上がっているのだ。益川先生だけはたぶん
、そうした現状を熟知し、
ノーベル賞受賞者の合同記者会見に出なかたのではと
想像する。
鳩山首相はマザコン首相というべきである。
母親から9億円のお金をもらい、「知らなかった」といって
いる。知らなかったのは事実かも知れない。
お金持ちの御曹司である。私と同じ1947年生まれ。
同年齢に生まれながら「生まれた家が違う」だけで9億円
という、私からすれば気絶しような大金を母親からもらったことが、
それほど大きな出来事ではなかった「良家のお坊ちゃん」
だったのである。
ここで静岡県袋井市国香酒造の「国香ー純米吟醸」を飲む。
更にトーンがあがる。
天皇と、来日する中国の習近平国家副主席の会見が 15 日に
急きょ決定したそうだ。宮内庁のルールを無視し、鳩山総理の
強い意向で中国の次期指導者になると言われている。
(その裏には、民主党の小沢法王の意向があったと言われている)
習近平国家副主席と天皇の会見が無理に急遽行われる
ことになった。
私は個人的に天皇制度を支持しているわけではないが、
それでも天皇も一人の人間である。年間、何百人もの
来賓と接見している。政治的に中国が重要だからと
言って、慣例を無視し、前立腺ガンで苦闘している天皇を
無理に中国副主席に会見させることはない。
日本国憲法で天皇の国事行為は厳格に規定されている。
政治的な活動は禁止。鳩山内閣はそうした憲法の規定にも
反して「天皇を政治的に利用している」といわれても仕方がない。
日本国憲法の厳格な実施が求められている。
中国の副主席が天皇に会いたいと言ったからといって、
民主党連立内閣が「天皇を政治的に利用する」のは間違っている。
他の国の副首相・副大統領が「天皇に会いたい」といったら
あわせるのか?
鳩山政権の施策はかなり「行き当たりなったり」である。
以上、「民主連立政権好き嫌いの記」。
2009年12月12日
ACCL渡辺さんと懇談:こどもたちに日本料理を教える
快晴
午前6時半 気温22度、湿度70%
血圧測定・体重計測・・・・・。
午前7時朝食。
キャッサバ芋麺(唐辛子を入れると美味しい)
午前8時半、「ハイリーホテル」を徒歩で出る。
ベトナム事務所へ。40分。
ベトナム事務所で「ACCL」・JASS里親担当の
渡辺和代さんと懇談。
渡辺和代さんは、1995年から1年間、私の紹介でフエ師範大
で日本語を教えた経験があり、それ以来13年間にわたり
「子どもの家」の里親の全ての財政管理・里親への連絡・
里親名簿作りなどを続けてくれている。渡辺和代さんの
お陰でJASSベトナム事務所財政の基本中の基本である
「子どもの家」のこどもたちの生活費が10数年にわたり
しっかりと確保されてきているのである。
2010年の正月に里親の皆さんへ「子どもの家」の里子から
送る「新年のメッセージ」をベトナム事務所のハンさん、
税田さん、ソン君どが協力して作る。全ての日本の里親へ
「子どもの家」の里子が手紙を書き、写真を貼って、
日本の里親担当の渡辺さんが、日本で投函して
くれる。こうした地道に努力あるんで、里親の方は
長い間里子への支援を続けてくれている。関係者に
感謝したい。
渡辺さんと白血病父母の会、病気の治療の進捗状況などを話す。
何事もそうであるが、一つの仕事をすると様々な問題が困難が
起こる。そうした問題から逃げずに正面から「闘って」行く気構えが
必要である。
午前11時を過ぎる。午前11時半の昼食に間に合わなくなるので
徒歩で「ハイリーホテル」へ帰る。25分。(近道)
今日へ晴天。この季節にしては珍しく、ほとんど真夏の気温と
景色である。
午前11時半、昼食。
午後12時読書「輝ける闇」(開高健著)
初めはあまり面白くなかったが、前半3分の1位から
俄然面白くなってきた。前半3分の1は、従軍記者として
の戦場の塹壕でのやり取り。
その後、ホーチミン市に帰り、様々な日本人記者、
ベトナム人作家、僧侶・・・などとおベトナム戦争に
ついての対話。1968年発行の本である。この本執筆時点では
ベトナムの結末は誰も分かっていなかった。
その中で、多くのベトナム人も含めた人々が南ベトナムは
負ける、といっていたことである。
また、ベトナム労働党が勝っても結局は農民・市民は
労働党(コミニスト)の支配下に入り、支配者が
ゴジンジェムかコミニストの違いだけだと喝破してる。
驚くべき洞察力である。
当時のサイゴンの猥雑さと気だるさ、アメリカの植民地と
化した気だるさが開高の筆致から恵のように頭に浮かんで
来る。夏の何ともいえない暑い「気だるさ」を上手に表現している。
さすが作家である。それにしても開高と思われる特派員記者は
毎日昼まで寝ていて、その後高級中華料理店に行き豪勢な
食事をし、夕方も有名イフランス料理店へ行き食事をし、
夜はバーでバーボンを飲みと「大食漢」である。これだけ運動も
せずに食べまくったら「肥満」になるなと思いつつ、肥満の
開高健の顔を思い出した。
昼寝。
午後2時半、日本料理店へ。今日は日本料理店のこどもたちに
つめたうどんと豚肉で作った漬け汁の作り方を教える日。
ついでに玉ねぎとツナ缶をマヨネーズで和えた「おつまみ」も
教える。
豚肉1キロ300円。
手打ちうどん1キロ50円。
料理主任のTHUYさんに日本式の「うどんの茹で方」を教える。
ベトナムの茹で方は、少量のお湯に面をいれ、あまり硬さや
歯ごたえを考えずに煮てしまう。ベトナム人はあまり面の
『歯ごたえ』という感覚がないようである。
大きな鍋に一杯のお湯を入れ、沸騰したら手打ち麺をいれ、
よくかき回し、芯がなくなり、且つ歯ごたえのある硬さで
茹でるのを止めるこつを教える。
豚肉を脂で炒め、お湯をいれしっかりと豚肉のだしをとる。
塩・そばつゆ(少量)をいれ、更に煮る。火を止める直前に醤油を
注ぎ完了。
リー君は接客係りなので料理は得意でない。それでも
私が厨房にいるので、厨房の隅で新聞を読んでいる。
彼は物知りである。「婚活」「就活」を知っており、
鳩山首相も知っている。ベトナムの新聞に報道されている内容の
主なことは熟知している。知的な好奇心を持っている男である。
暇な時は新聞か雑誌を読んでいる。
玉ねぎとツナ缶、マヨネーズの和え物。ビールのおつまみに最適。
晩御飯の「他人丼」。
他人丼と卵丼、「親子丼の違いをこどもたちに教える。
茹で上がった700グラムのベトナム風手打ちうどん(小麦粉)
午後5時過ぎから来客アリ。夕食が食べられない。
結局、午後6時過ぎまで4人の欧米系の来客あり。
午後6時半頃から夕食を食べ始める。
接客係りのリー君とグエットさんが交代で店番をしながら
食事を摂る。
大好物の『他人丼』を食べるリー君
冷たくした手打ちうどんを豚肉の汁で食べる。
ベトナムのこどもたちは、唐辛子を満載。
「子どもの家」から来ているチャンさんは「眼病」で欠席。
「子どもの家」では今、流行性の眼病(目が赤くなる)が
流行っている。
午後7時半、オーストラリアから来た家族4人が
英語のガイドブックで私の記事を読んだといい
話し合いたいとのこと。30分ほど同席し、話し合う。
15歳・14歳の娘さんだというが、やけに大人に見えた。
マブチモーター会長さんのお孫さんが来店。
私から支援のお礼を申し上げる。
午後9時、閉店。今日は13人の来客あり。忙しかった。
土曜日なのでリー君にビールを勧める。
税田さん、原田先生、 リー君と短時間生ビールを飲む。
午後9時半ごろ、「ハイリーホテル」へ帰宅。
2009年12月11日
「アクセサリー研修センター」・ガーさん誕生祝い:トアンさん法事
快晴
午前6時の気温22度 湿度80%
午前5時起床 読書「輝ける闇」(開高健著)
ベトナム戦争従軍記者の目から見たベトナム戦争の
実態が良く分かるが、あくまでベトナム人から見れば
「外部」の人間の感想。危なくなればいつでも日本へ
帰れると言う「逃げ道」のある人間が書いた「最良質」
の従軍ルポ。
午前7時朝食。
精進ブン麺
午前8時から受信メールの返信等
午前9時、徒歩でベトナム事務所まで40分。
気温も25度位になっている。40分歩くと
かなり暑い。
午前10時、バオミンさんと一緒に「アクセサリー研修センター」
へ。
浅草橋ブレラのTさん、Yさんに「アクセサリー研修センター」の
こどもたちへの技術指導をして頂いたが、今日が最終日。
Tさん、Yさんにお礼を言いに行く。
こどもたちもかなり技量が高まったそうだ。
こどもたちが作っている作品の一部
こどもたちは船上生活者の師弟が多い。
「アクセサリー研修センター」の視察を終えて「子どもの家」へ。
12月5日に「子どもの家」創立15周年記念式典を行ったが、
それに合わせ、日本のIT会社ブライセンの藤木社長から
お祝いの花束が届いた。日本からの注文なので時間が
かかったようだ。
「子どもの家」セン運営委員長やこどもたちと
ブライセン藤木社長からの花束を頂く。
改めてブライセン藤木社長に深謝。
今日は「子どもの家」のガーさんの15回目の誕生日。
里親の東海大学K教授よりガーさんに誕生祝の
ケーキとバッグのプレゼント。
ガーさんは、9月から「ヤーホイ高校」に合格し通学している。
諸般の事情でハノイから「子どもの家」にやって来た。
15本のろうそくに点火し吹き消す。
ガーさんは「子どもの家」に入所した当時は、ハノイ弁なので
「子どもの家」のこどもたちに少し「からかわれた」。
また、大人しい性格なので必ずしも「子どもの家」の
こどもたちと馴染めないところもあったが、「子どもの家」に入所し
勉強を頑張り、県立のヤーホイ高校に入学し満足し更に大学
への進学を目指し、頑張っている。
里親のK教授に感謝。
「子どもの家」からバオミンさんと一緒にフエ市共産党人事部長
トアンさんの家へ。人事部長はフエ市人民委員会とフエ市共産党
の全ての人事を掌握している最高責任者。フエ市のNO2とも
いえる人物。
今日はトアンさんのお母さんの12回忌の法要に呼ばれた。
右端がトアンさん。左が小山。そのほかの人々は
親戚や友人。
フエ伝統の家庭料理がたくさん出た。観光者用のレストランでは
食べられない料理ばかり。特に「発酵食品」が多かった。
牛の胃。日本では朝鮮料理の「センマイ刺』に当たる料理も
でた。コリコリして美味しい。ヌオックマムに海老の塩辛と
唐辛子をいれたものが美味しい。
生きたアヒルを料理。新鮮で味が全く違う。美味しい。
12回忌の法要に集まった親戚の皆さん。トアン人事部長の
奥さんのお母さん(80歳)も参加。
午後3時過ぎまで法事は続く。
午後3時半、「ハイリーホテル」に「帰還」。
そのままベッドに倒れこむ。
電話で気づくと午後6時過ぎ。
午後8時、日本料理店へ。税田さん、リー君など
日本料理店のこどもたちと懇談。来客は4人。
軽くフダビールの生ビールを飲む。美味しい。
料理主任のTHUYさんにスルメを頼んでおいた。
スルメをあぶり、軽く醤油を振ったおつまみを
作っておいてもらう。醤油漬けのスルメで
税田さんと軽くフダ生ビールを飲む。
午後9時閉店。帰宅。
2009年12月10日
フエ中央病院創立115周年記念式典:フエ大学長懇談:ブレラお別れ会食
快晴
午後12時半 気温23度 湿度55%
午前3時に目覚める。
読書「政党崩壊」(筆坂秀世著:講談社)読了
元共産党NO4(書記局長代行)の著書ではあるが
既に共産党を離党しており、共産党への厳しい
批判も持っている。
本書は戦後の政党政治の歴史を追い、1955年の
左右社会党合同、自由党と日本民主党合同によって
戦後日本の基本的な政治構造である「55年体制」の
成立の経過を探る。1955年は自民党と社会党の
合同だけでなく、日本共産党も1950年の
コミンフォルム批判に端を発し「国際派」と「所感派」に
分裂していたが、1955年に統一している。
1955年は自民党・社会党・日本共産党という
戦後政治に何らかの大きな影響を与えた政党が
分裂を乗り越え「統一」した年である。
自民党統一の裏にある基本的な任務は「反共」と
「資本主義体制の擁護」である。
2009年の民主党の大勝は、自民党の基本的役割で
ある「共産主義との闘い」「資本主義の擁護」という
二つの役割が歴史的に終わったことが、その原因で
あると解説している。1989年の東欧崩壊、1991年
のソ連崩壊で「共産主義陣営が崩壊」し、自民党の
反共の役割が消滅、資本主義だけが残ったために
資本主義擁護という役割も必要なくなったといっている。
筆坂氏は、民主党の独走を阻止するためにも
自民党に再生してもらい「批判的野党」としての
自民党が必要と力説している。
小沢一郎はその存在をかけて本当に自民党を
解体したといっている。自民党の解体の最後の仕上げが
2010年夏の参議院議員選挙である。ここで民主党が
過半数を取ることで、自民党の最終的な解体が成立。
蟹工船ブームについても一言アリ。
午前7時朝食。
マカロニスープ
毎日飲んでいる「生茶葉」のお茶。そのまま飲むと
少し生臭いので生姜を入れてくれている。
体に良いそうだ。
午前8時前、「ハイリーホテル」へバオミンさんが
オートバイで迎えに来てくれる。
午前8時20分、フエ中央病院へ。
フエ中央病院創立115周年記念式典に参加。
中央病院会場入り口で
記念式典には「ACCL」の渡辺さんも参加。
ハノイ厚生大臣よりフエ中央病院が「第一級勲章」を受章
11時半、昼食。
原田先生は「子どもの家」定期健康診断へ行き、
「ハイリーホテル」への帰宅が遅くなると言うので
私一人で食事。
午後12時から30分昼寝。
読書「輝ける闇」(開高健著:新潮社)
開高健が朝日新聞の特別特派員として1968年
ベトナム戦争の取材に行く。その際の体験記。
ホイアンやクーチなど懐かしい名前が沢山出てくる。
米軍・南ベトナム軍への従軍記なでの米軍の様子、
南ベトナム軍の実態、解放戦線が庶民の中に入り、
米軍基地まで物売り、床屋などとして出入りしている
様子が克明に記録さている。
午後1時30分、電動バイクでベトナム事務所へ。
ベトナム事務所でフエ市人民委員会外務部長の
ニエン氏、バオミンさんと合流し、フエ大学へ。
フエ大学はフエ師範大・農業大・経済大・外国語大・
芸術大・科学大・医科大・・・などを包含する総合大学。
今日はトアン学長、アン外務部長と会談。
静岡大学とフエ大学との大学間交流の基礎打ち合わせ。
トアン学長がフエ市人民委員会ニエン外務部長の
フエ大学の後輩という知り合いの関係だったので
紹介してもらう。
アン・フエ大学外務務部長は16年前に私がフエ師範大
で日本語を教えている頃を知っていた。
私の方から静岡大学の紹介、静岡大の交流への意欲を
伝える。
トアンフエ大学長からは、フエ大学の紹介、フエ大学としても
日本の大学の交流は是非ともしたいとの返答。
1時間ほど、意見交換。
午後3時過ぎ、ベトナム事務所へ。
バオミンさんと当面の諸問題についての意思統一。
その後、電動バイクで「ハイリーホテル」へ。
掛け布団を洗濯する。
メールがかなり大量に来ている。全てに目を通し、
必要な返信をする。
午後5時45分、「ハイリーホテル」を出て、
フエ市内で私が一番好きな大衆食堂「コードー(古都)」
で「アクセサリー研修センター」の技術指導してくれていた
浅草橋のアクセサリー専門会社「ブレラ」の2人の指導員と
会食。
明日帰国される。今夜はお礼の晩餐会というと大げさだが、
お礼の夕食会。高級なレストランよりもこの庶民のレストランの
方が本当に美味しいのである。日本からの団体旅行の
皆さんは、大きなホテルで高価な「まずいベトナム料理」を
食べさせられているのである。(ちょっと失礼な言い方だが
事実である)
コードーレストランで一番美味しい「トリのから揚げ」
もやし炒め
揚げ春巻き
午後8時半、夕食会終了。
ブレラのTさん、Yさんに改めて深謝。
夕食会の食べ物が多少残った。もったいないので
「お土産」にしてもらう。
その足で日本料理店へ。
日本料理店の様子は常時リー君から携帯メールで
税田さんやバオミンさんに報告アリ。
午後9時前、日本料理店閉店。コードーの残りの
トリから揚げなどをこどもたちが食べる。
午後9時過ぎからリー君が日本料理店で頑張ったので
一緒にビールを1~2杯飲む。
午後9時半、「ハイリーホテル」へ帰る。
朝3時からの長い1日が終わる。
2009年12月09日
快晴 徒歩でベトナム事務所へ
快晴
午前6時の気温22度。湿度70%
午前7時朝食。
食事は私の好きな「キャッサバ芋の麺」。
午前8時から必要なメール受信・送信。いくつかの文書を書く。
午前10時、「ハイリーホテル」を出て川沿いをウオーキング。
ベトナム事務所まで40分歩く。
途中、ビニール袋をゴミ箱から拾い洗って乾かし再度販売する
業者の家の前を通る。究極の「エコ業者」である。
気温も適温、徒歩に最適。川の景色も季節にあったもの。
川沿いを歩くとレロイ通りの道に出る。
ベトナム事務所でバオミンさんと打ち合わせ。
午前11時過ぎ、ベトナム事務所を出て「ハイリーホテル」まで
歩く。
午前11時半、「ハイリーホテル」で昼食。
午後12時半、読書「政党崩壊」(筆坂秀世著)
筆坂氏の民主党分析は説得力のあるもの。
小沢一郎幹事長の懐刀だった平野貞夫元議員との
対談も興味深い。
その後昼寝。
午後2時半、メール送受信。
午後5時、日本料理店へ。今日は私が子どもたちに
簡単な日本料理(?)を教える。
キャベツの卵炒め、ジャガイモとたまねぎ炒め。
午後5時半、日本料理店スタッフなどの夕食。
今日は新しい日本料理。
キャベツの卵炒め
ジャガイモとたまねぎ炒め
私が日本料理店に行く前に子どもたちが自主的に
野菜を切ってしまっていた。ジャガイモを厚く切ってしまった
ため、多少芯が残るが、美味しい。
子どもたちだけで作った「柳川鍋」。ごぼうの香りがあり
とても美味しい。
子どもたちが作った「なすの煮浸し」。
これも美味しい。
大塚さんが教えた日本料理を子どもたちがきちんとした
日本の味で作っているかを時々チェックする。
今日は「柳川鍋」と「寿司」は上手に出来ていた。
多くのベトナムの日本料理店は日本人がいないために
どう味わっても日本料理とはいえない料理を平然と
出している店が多い。フエにもそうした日本人から見たら
「ニセモノ日本料理店」がいくつかある。
欧米系の来客あり。注文の「寿司B」
英国からのお客さんの注文「カツカレーライス」
接客係り(元店長)のリー君が丁寧に配膳している。
今日は10人の来客(シンガポール2人、台湾2人、欧米系6人)
午後9時過ぎ閉店。
2009年12月08日
68年前のアジア・太平洋侵略の教訓を忘れない
快晴 気温28度 湿度60%
今日は68年前の1941年12月8日、マレー半島と
真珠湾に日本軍が奇襲攻撃を行い、アジア・太平洋戦争
が公式に始まった日である。
朝日・読売・毎日・東京・サンケイの主要新聞の
社説などでは、12月8日については一切触れていない。
日本のマスコミの劣化を改めて感じた。
今日の日本の曲がりなりにも「平和」な現実は
68年前に日本政府の起こした無謀な侵略戦争の
結果から教訓を学び、不戦の誓いをしたところから
出発している。12月8日は、日本人にとって
絶対に忘れてはならない日である。アジアで1000万人、
200万人から300万人の日本人が亡くなった戦争。
英米に宣戦を布告した日を私たちは、改めて「世界の平和」
「世界から一切の戦争をなくす」日にしなければならない。
今、新たにあの忌まわしいアジア太平洋戦争を「聖戦」として
評価する動きがある。そうした趣旨で書かれた教科書が
東京の杉並区などいくつかの地区で使われるようになった
ことは嘆かわしいことである。
統一ドイツの初代大統領のヴァイツゼッカーは1985年
5月8日、ドイツ敗戦40周年の記念日で有名な演説を
行った。ヴァイツゼッカーは自分自身はヒトラーの
指揮下に入り、ドイツ軍としてポーランド、ソ連への侵略戦争に
参加している経歴を持っている。
「この過去を清算することが大切なのではありません。
それは、われわれに全く不可能であります。
過去を、後から変更したり、なかったことにすることは
できないのです。しかし、過去に対して目を閉じる
者は、現在を見る目をも持たないのであります。
かつての非人間的な事柄を思い起こしたくない
とする者は、新しく起こる非人間的なるものの
伝染力にまけてしまうようなものなのです」
「耳と目を開いていた者、世の中の出来事に聞き耳を
たてていた者に、ユダヤ人移送列車の轟音が聞こえなかった
はずはありません。このユダヤ人絶滅のやり方と規模の
ひどさは、人間の想像を絶するものであったでしょう。
しかし、本当のところ、多くの人々が、そこで起こっていたことを
知らないですまそうとしたこと自体が、この犯罪に加担したことで
あったのであります。それは、私の世代、まだ、若くて、このような
事件を企て、実行するのにあずかることがなかった世代においても
同じことであります。」「今日、われわれの国に住む圧倒的に
大多数の者は、あの当時、まだ子どもであったか、あるいは
まだ生まれてもいなかったのであります。
そのような者は、自分自身が犯してもいない犯罪についての
自分の罪責を認めることはできません。豊かな感覚を持つ
人々にとっては、これらの人々に、ただドイツ人であるという
理由で悔い改めの印の粗衣を身に着けることを期待することは
不可能でしょう。しかし、父たちは、この人々に、まことに
困難な遺産を残してしまったのであります。
罪責があろうがなかろうが、年をとっていようが若かろうが、
われわれはすべてこの過去を引き受けなければなりません。
この過去のもたらした結末が、われわれ全ての者を打ち、
われわれは、この過去にかかずらわれないわけにはいかなく
なっているのです。」
「ユダヤの人々は忘れることはないし、何度でも思い起こす
ことでありましょう。われわれは、人間として和解を試みない
わけにはいかないのであります。」
ナチスヒトラーが虐殺したユダヤ人は、数百万人とも
言われているが、私たち日本人のアジア侵略で亡くなった
アジアの人々が1000万人いることを私たちは忘れることが
できない。
ドイツのヴァイツゼッカー大統領の言葉は、私の心の奥底に
重く響くものである。日本の一部には、「あったものをなかった」
と言いくるめる風潮が出てきたことに危惧を感じ、これらの傾向と
闘う決意である。
以下、天皇の開戦の詔勅
『今や不幸にして米英両国と釁端を開くに至る 洵に已むを得さるものあり 豈朕か志ならむや 中華民国政府曩に帝国の真意を解せす 濫に事を構えて東亜の平和を攪乱し 遂に帝国をして干戈を執るに至らしめ 茲に四年有余を経たり 幸に国民政府更新するあり帝国は之と善隣の誼を結ひ相提携するに至れるも重慶に残存する政権は米英の庇蔭を恃みて兄弟尚未た牆に相鬩くを悛めす 米英両国は残存政権を支援して東亜の禍乱を助長し平和の美名に匿れて東洋制覇の非望を逞うせむとす 剰へ与国を誘い帝国の周辺に於て武備を増強して我に挑戦し 更に帝国の平和的通商に有らゆる妨害を与え 遂に経済断交を敢えてし帝国の生存に重大なる脅威を加う
朕は政府をして事態を平和の裡に回復せしめんとし 隠忍久しきに弥りたるも 彼は毫も交譲の精神なく 徒に時局の解決を遷延せしめて此の間却って益々経済上軍事上の脅威を増大し以て我を屈従せしめんとす 斯の如くにして推移せんか 東亜安定に関する帝国積年の努力は悉く水泡に帰し 帝国の存立亦正に危殆に瀕せり 事既に此に至る 帝国は今や自存自衛の為蹶然起って一切の障礙を破砕するの外なきなり』
午前6時起床。
快晴。
午前7時、朝食。私の好きなブンボー。
午前中、千代田区のスタディーツアーの日程等の
整理確認。
読書「政党崩壊ー2010年体制を生き延びる条件」
(筆坂秀世著:講談社)
関係者からのメール受信、送信。
部屋の床掃除。床を水拭きする。
午前11時半、昼食。
ご飯、野菜スープ、魚の煮物
午後12時半から午後1時半まで昼寝。
昼寝の途中、蜂がまた2匹侵入。蜂との「壮絶な闘い」あり。
昼寝ができず。
その後、読書。「政党崩壊ー2010年体制を生き延びる条件」
民主党勝利の意義、今後の課題などを元日本共産党
政策委員長・書記局次長ので共産党を離党した筆坂氏
が語る。
その後、静岡市のツアーの準備をバオミンさんと行う。
フエ市人民委員会との連絡等、細かい打ち合わせ。
午後5時過ぎ、ベトナム事務所へ。
午後5時半日本料理店で夕食。
既に午後5時から来客あり。
午後8時20分、一斉に停電。日本料理店を閉店する。
「ハイリーホテル」へ帰る。
2009年12月07日
フエ高等師範大日本語学科試験
終日快晴。気温30度
午前5時半起床。
シャワーを浴び、午前6時半「ハイリーホテル」を
出発、フエ高等師範大へ。
今日はフエ高等師範大日本語学科前期試験。
日本語学科の会話試験を手伝う。
本来は、私はフエ高等師範大学日本語学科顧問なので
手伝うのではなく私の仕事なのであるが、忙しくて
なかなか高等師範大の仕事に力を集中できない。
午前7時から3年生の会話試験を行う。
私と税田さん、原田先生の3人で分担。
午前7時から午前9時半まで24人の学生の会話試験を
行う。
24人の会話試験は結構疲れる。今日は朝早いので
朝食も抜きである。
午前9時半、ベトナム事務所へ。
今日からブライセンベトナム支社に新人を採用。
「子どもの家」の卒業生2名と関係者2名、合計4名の
スタッフで研修を進めている。
午前10時半、バオミンさんと一緒に「子どもの家」へ。
セン運営委員長といくつかもの問題で意見交換。
「子どもの家」の厨房は「静岡の会の滝下紀子さんの寄贈」
によるもの。改めて滝下紀子さんに感謝。
壁が全てタイルに改装された。練炭のススが付いても
直ぐに洗い落とせるようになった。滝下さんに感謝。
午前11時半、昼食。
午後12時半読書。
「ぼくらの頭脳の鍛え方」読了。
立花隆氏も佐藤優氏も大学、大学院の基礎学力の
低下に警鐘を鳴らしている。
(立花隆)大学院全体のレベルが低くなっているんです。
(佐藤優)私も早稲田大学の学部と大学院の両方で
講義をしましたが、びっくりしました。学歴ロンダリング
という現象が起きているんですね。明らかに早稲田大学
に入る学力のないどころか、別の大学を卒業した人たちが、
とにかく早稲田大学の名前がついた卒業証書を取りたい、
という思いだけで大学院を受験する。それでも、比較的
簡単に合格してしまう。
(立花隆)それは東大でも同じなんですよ。東大の
大学院は東大の学部よりレベルが低いといわれています。
(佐藤優)早稲田大学の政経学部で以前、年号の試験を
やったことがあるんです。ロシア革命、真珠湾攻撃、
広島への原爆投下、関が原の乱、ウエストファリア条約
(小山注:17世紀のカソリックとプロテスタントの30年戦争の
講和条約)など山川出版の世界史教科書からとったごく
基本的な年号です。
正答率はどれくらいだと思われますか?
(立花)フフフ 低いでしょう。
(佐藤)約5%です。
(立花)どれが一番低かったですか?
(佐藤)ウエストファリア条約です。ほぼゼロでした。
1917年のロシア革命もほとんどだめ。
1時間ほど昼寝。気温が30度になり暑くなる。
部屋に蜂が二匹侵入。蜂との闘いが続き
昼寝ができなかった。
午後2時、フエ農業大学学長への手紙を書き、
奨学金の打ち切りを通告。(続きを読む参照)
腐りきった社会である。奨学金の担当者は
共産党員だという。「奨学金の金額が少ないから
取りにいけない」「面倒くさいから取りにいけない」
「忙しいから取りにいけない」という理由で
3ヶ月、4ヶ月も奨学金を取りにこないでいる。
貧しい奨学生はたまったものではない。
一党独裁の腐敗はこうしたところに現われている。
奨学生は文句も言えず、担当者は奨学生に
奨学金を渡したかどうかも分からないまま、
ベトナム事務所には、担当者が奨学生の
受領の領収書のサインまで自分で全員分を
書いてくるという厚かましさ。
午後5時ベトナム事務所へ。
午後5時半、ブレラの花田社長と専門技術者の
TさんYさんと当面の問題について協議。
午後7時。日本料理店で会食懇談・協議。
現在、日本料理店は指導者の大塚さんが日本へ一時帰国。
こどもたちだけで日本料理店を運営している。
各種の料理を注文したが、大体、日本料理としての範疇に
入っていた。
午後9時20分、ブレラの皆さんとの会食協議を終わり
「ハイリーホテル」へ帰宅。
長い一日ではあった。
フエ農業大学学長殿
2009年12月7日
ベトナムの「子どもの家」を支える会
代表 小山道夫
前略にて失礼致します。
いつもお世話様になっております。私はベトナムの「子どもの家」を支える会
(JASS)代表の小山道夫と申します。
この4年間、フエ農業大学の学生25人に奨学金を贈呈しておりました。
今回、フエ農業大学の奨学金の取り扱いに大きな問題があり、フエ農業大学への奨学金贈呈には信頼性がなくなりました。
そこで、2009年8月を持ちまして、フエ農業大学への奨学金を全て打ち切りと致します。なお、フエ農業大学へ贈呈予定の奨学金は他の学校へ贈呈することと致します。
以下、奨学金を打ち切るようになった理由です。
● 4年前、フエ農業大学に奨学金を贈呈する際、私と副学長、事務担当者との間で以下の約束をしました。
① 奨学金は一人一人の奨学生に直接手渡すこと
② 奨学生一人一人の領収書(奨学生のサイン)を提出する
③ 毎月、JASSベトナム事務所にフエ農業大学奨学金担当者が
お金を取にくること
④1年間の奨学金受領後、奨学生は「お礼状」を書くこと
● ところが、2008年9月から2009年8月までの奨学金については
上記①②③④の全てが守られていませんでした。これはフエ農業大学奨学金担当者の責任です。
具体的には
① 全ての領収書に「日付」が書いてありませんでした。
② 2009年1月から2009年8月までの領収書には学長印など印鑑が一切おされていませんでした。
また、2008年9月から2008年12月までの領収書には、
コピーされた黒い学長印鑑がかかれていました。
以上①②からフエ農業大学からJASSベトナム事務所へ提出された
奨学生の領収書は正式なものではなく、奨学金担当者による「偽造領収書」と断定しました。私たちは、JASSベトナム事務所に届けられた
領収書で奨学金が奨学生に届いているのかかどうかを判断いたします。
これは、奨学金贈呈の当初からの約束でした。
③ 奨学金は毎月奨学生へ手渡すことを約束していましたが、フエ農業大学奨学金担当者は「JASSの奨学金は金額が少なく、忙しく、面倒なので3ヶ月か4ヶ月に一度、JASSベトナム事務所に奨学金を取に行った」とフエ農業大学奨学金担当者は平然と言い放っています。
④ 更に1年間奨学金をもらった奨学生は奨学金贈呈者に「お礼状」を書くとの約束になっていましたが、今年は25人中11人しか「お礼状」を書きませんでした。
以上、フエ農業大学はベトナムの「子どもの家」を支える会(JASS)と約束をして始めた奨学金贈呈という「日越友好プロジェクト」に対し、その約束を反故にし、領収書という大事な書類を「偽造」(日付と印鑑なし)し、私たち日本人の善意な気持ちを裏切りました。日本とベトナムとの友好交流に取って大変残念なことです。
ベトナムの「子どもの家」を支える会(JASS)としては、これ以上、フエ農業大学へ奨学金を支給することは出ません。
以上、フエ農業大学への奨学金中止のお知らせです。
(追記)
なお、ベトナムの「子どもの家」を支える会(JASS)は、この16年間、フエ医科大学、フエ高等師範大、フエ師範大、コックホック高校、
グエンフエ高校、ハイバーチュン高校、ファンダンルー高校、ヤーホイ高校、フールー小学校、トゥオンロー小学校(ナムドン郡)などの学校の学生など7500人以上(総額60万ドル)に奨学金を贈呈してきました。
この16年間、フエ農業大学のような領収書問題、お礼状問題などは起こっていません。
2009年12月06日
ブレラ「アクセサリー研修センター」出迎え
終日晴天
午前6時目を覚ます。
読書「僕らの頭脳の鍛え方」(立花隆 佐藤優)
各自200冊ずつ、合計400冊の本を紹介しながら
対談形式で話は進んでいく。生命科学について、
現在どこまで解明されているのか?
宇宙についてどこまで分かっていたのか?
ほとんど分かっていないということは分かった。
哲学の課題、政治の問題、佐藤氏が同志社大学で
新左翼系の学生運動をしていたり、立花氏が
「日本共産党研究」や「中核対革マル」などの著書が
ある中で、社会主義思想・哲学、そしてその社会について
の対談、新自由主義、現在の貧困問題、宗教問題などを
本を紹介しながら対談し、現代の日本や世界が抱える
諸問題(直ぐに解決はできないが)の本質はどこになるのか?
本を読むと言うことの意味は現代どのような意味があるのか?
教養とうはなにか・・・など話は広範囲にわたるが、内容が
あり面白い。
天気が良いのでかび臭い「フトン類」を屋上に干す。
午前8時半、歩いてベトナム事務所方面にある
サッカー場近くの「フォー屋」へいき、鶏肉フォー(2万ドン:100円)
を食べる。遠回りをして川淵の細い道を通り帰宅。徒歩往復
1時間40分。
「ハイリーホテル」の前にあったかなり広大な墓地は完全に
整地されていた。大きなクレーンが入り、建築工事が
始まっている。裁判所ができるとのこと。
「裁判所」・・・・。「子どもの家」のこどもたちが世話になる
なんてことがないようにしたいものである。
部屋の掃除をする。1週間かけてやっと部屋にある衣類の
ほぼ90%程度を洗濯し「異臭」を除去する。
衣類を整理する。
午後電動自転車で買い物。
受信メールへ返信。
1時間ほど午睡。
明日、フエ高等師範日本語学科3年生の会話中間テストを
手伝うことになった。試験問題に目を通す。
冷蔵庫の中を整理。必要のないものを全て捨てる。
午後5時半、バオミンさんが車で「ハイリーホテル」まで
迎えに来てくれる。
午後6時20分、「アクセサリー研修センター」を支援
してくれている浅草橋の「ブレラ」の花田社長さんと2人の
技術専門家が来訪。「アクセサリー研修センター」での
アクセサリー製作の技術指導をして頂く。
午後6時20分、花田社長以下3人がフエ空港着。
車で「フォーサイゴン」へ行き、軽く夕食と明日からの日程等
打ち合わせ
午後8時15分、バオミンホテルへ。チェックイン。
明日の再会を約して「ハイリーホテル」へ帰宅。
2009年12月05日
「子どもの家」創立15周年記念式典:リー君と一杯飲む
終日雨
午前6時、気温20度、静と85%。
午前7時、朝食。
キャッサバ芋の麺
午前8時半、バオミンさんが「ハイリーホテル」まで
オートバイで迎えに来てくれる。その足で「子どもの家」へ。
午前9時半、「子どもの家」で『「子どもの家」創立15周年式典』
を開催。
JASSの会
記念
37グエンチャイ ストリートチルドレンの家 創立15周年
「子どもの家」は1994年11月に創立された。私がフエに来た
翌年に創立した。
式典の前にこどもたちの踊りが披露された。
15周年式典のために練習した新しい出し物であった。
いよいよ15周年式典開始
●司会はロック寮長とハンベトナム事務所員。
初めに参加者紹介。参加者は総数で100名を越していた。
●トゥア・ティエン・フエ省人民委員会労働副局長
●フエ市副市長
●フエ市外務部長
●フエ市国際交流センター副所長
●「子どもの家」の地元「タイロック地区人民委員会副主席」
●フエ芸術大学教員(絵画教室指導員)
●フランス・アメリカ・省立「子どもの家」代表と関係者
●ファンソナム中学校校長(「子どもの家」のこどもたちが通学)
●JASS「縫製研修センター」関係者
●刺繍みやげ物店スタッフ
●JASSベトナム事務所員全員
●「子どもの家」スタッフ全員
●元「子どもの家」料理主任フオンさん
●「子どもの家」卒業生(メンさん・ユオンさん・ターオさん・メンさん)
●「子どもの家」のこどもたち全員
①初めに「子どもの家」創立記念の点火(セン委員長と小山)
②セン「子どもの家」運営委員長「15年間の活動報告」
③フエ市人民委員会代表挨拶(タン副市長)
・「子どもの家」が大きく成長したことを嬉しく思う
・セン委員長の15年間の活動報告を聞いて、これだけ
「子どもの家」が大きくなったのは、小山さんやJASS,
日本人の支援のお陰だと思っている。感謝したい。
・こどもたちの教育や育てる問題はベトナム政府の問題だ。
しかし、現在ベトナム政府には十分な財政がない。
NGOの皆さんの支援を頼んでできるだけ多くのこどもたち
を支援したい。
・JASSはフエに一番早く来た海外NGOだった。JASSが
来たお陰でその後、フランスやアメリカのNGOもやってきた。
・JASSはフエにやってきた頃は、フエでの生活水準も低く、
海外NGOに対する法的な整備もできていなかったので
JASSの活動は大変だったと思う。JASSの活動のお陰で
その後、海外NGOに対する協力の仕方や法的整備もできてきた。
・今後更にJASSの活動が進んで欲しい
・今後は、「子どもの家」のベトナム人スタッフの力量を高めて欲しい。
④JASS代表小山道夫の挨拶
⑤こどもの代表によるお礼の言葉(ホア君・フエ科学大地質学科)
僕は今年の9月からフエ科学大学地質学科で勉強しています。
JASSの皆さん、「子どもの家」の寮母さんなどのお陰で
普通の家のこどもたちのように学校へ行けました。
今、僕は科学大学で勉強ができて本当に嬉しいです。
JASSや「子どもの家」の寮母さんのアドバイスのお陰です。
今後は、社会に役立つ人間になろうと思っています。そのためにも
頑張って勉強に励みます。
⑥「子どもの家」で生活をし自立したこどもの代表挨拶(ユオン)
「子どもの家」から自立して行ったこどもたちを代表して
今日、ここで発言できることを本当に嬉しく思っています。
私はユオンと申します。現在、フールー小学校で先生を
しています。「子どもの家」の先生方、JASSの皆様の
お陰で私は学校の先生になることができました。
皆様方の恩は一生忘れません。
私は学校で教え子に「学校へこれらることは幸せなことだ、
先生方の愛情のお陰だ、しっかり勉強して社会に役立つ
人間になって欲しい」といっている。これは、私が「子どもの家」で
経験したことを、学校の教え子に言っているのです。
私はもっともっと良い先生になれるよう研鑽して行きたいと
思っています。私を今日まで育ててくれた皆様方に
心から感謝し、先生としてしっかりとこどもたちを教育する
ことで皆様への恩返しと致します。ありがとうございます。
●自立していったこどもたちを代表してユオンさんが
私とセン委員長へお礼の花束贈呈
⑦「子どもの家」スタッフへのお礼の記念品
一人一人のスタッフに手紙を書く。16年間のそれぞれの
スタッフとの思い出を。金一封とともに手交。
⑧昨年度勉強を頑張ったこどもたちにお祝いの自転車贈呈
⑨閉会
自立し「子どもの家」を退所したこどもたちと記念撮影
長年「子どもの家」の食堂でこどもたちの食事を作ってくれた
フオンさん(私と同年齢)
●式典は地元のテレビ局など取材があった。
私も式典終了後、テレビのインタビューを受ける。
●こどもたち全員写真
●こどもたちと「子どもの家」スタッフ全員写真
●「子どもの家」スタッフ全員写真
●「子どもの家」スタッフとJASSベトナム事務所スタッフ
その後、こどもたちも来賓、関係者全員で会食
自立したターオさんは10ヶ月の子どもを連れてお祝いに来た。
●「子どもの家」時代、仲の良かった3人娘。
●16年という歳月は、こどもたちを大人にしていった。
小学生だったターオさんにもこどもたちが生まれ、
ユオンさは先生になり、メンさんはフエ経済大をでて
大きなスーパーに勤めるようになった。
午後1時半頃、昼食会は終了。
バオミンさんのオートバイで「ハイリーホテル」へ連れって
行ってもらう。
しばらく昼寝。
午後5時前、「ハイリーホテル」入り口のドアーを叩く音。
リー君がやってくる。
リー君と一緒に「ハイリーホテル」の前の「ヤギ肉屋」
で二人で一杯飲む。
現在リー君は諸般の事情があり「一人暮らし」。
今日は「子どもの家」創立15周年の祝賀会。
それにあわせて日本料理店も休みとした。
今日と明日の土日の2日間を一人で過ごすリー君には
多少の問題を起こしそうな気配を感じる。
祝賀会にも参加しなかったリー君である。夕食を
ご馳走することにした。
ヤギ肉屋は満杯状況。男女学生もたくさん来ている。
お金持ちのお子さんがたなのだろう。
午後7時頃、直ぐ隣の机の6人組の男女が酔っ払って
言い争いから殴り合いとなり、机上のヤギ鍋と炭火が
吹っ飛んでしまう。グラスを投げる・・・・、6人が入り乱れての
大乱闘。私は隣にいたので怖くなり、逃げる。
さすが「場慣れしているリー親分」である。悠然とガラスと
炭火が飛び交う仲でビールを堪能していた。
2009年の活動報告書(セン「子どもの家」運営委員長
「子どもの家」15周年記念式典(1994年~2009年)
「子どもの家」のスタッフは、子どもたちが勉強と職業訓練をし、安定した生活がおくれるように、生活面や勉強面での指導を一生懸命頑張っています。
15年間には、「子どもの家」に入り、卒業していった子どもがたくさんいます。卒業した子どもたちは、安定した生活をしています。先生と子どもたち、子どもたち同士には、この15年間の素敵な思い出がたくさんあります。
今日は「子どもの家」15周年記念式典です。私たちは15年間の(1994年~2009年)活動報告と2010年の「子どもの家」の目標を発表させていただきます。
① 活動報告
フエ市人民委員会の指導とベトナムの「子どもの家」を支える会の応援のおかげで、「子どもの家」は設立されて、15周年になります。
● 子ども教育:
15年間で、151名の子どもたちが「子どもの家」に入りました。卒業した子どもたちは98名います。在宅支援の子どもたちは48名いましたが、33名が自立しました。151名の中で7名が大学を卒業し、90名が職業訓練の研修が終わり、現在仕事をし、安定した生活をしています。「子どもの家」を卒業した子どもたちは、ベトナムの北から南までのいろいろなところで、仕事をし、生活しています。10名以上が結婚しました。現在、「子どもの家」では、53名の子どもが生活をしています。在宅支援は15名です。
「子どもの家」には、職業訓練をしている子どもと学校に通っている子どもがいます。職業訓練をしている子どもは11名です。学校に通っている子どもは、小学生11名、中学生14名、高校生10名と大学生7名です。
毎年、「最優秀」と「優秀」の成績をとる子どもがたくさんいます。2009年に、4名の子どもが高校に合格し、コック・ホック、グエン・フエ、ハイ・バー・チュン高校で勉強をしています。そして、4名が大学に合格しました。特に、ホン・ニャンさんはフエ医科大学とホー・チー・ミン貿易大学に高い点数で合格しました。現在、ニャンさんは貿易大学の経済学科で勉強しています。
「子どもの家」と学校の活動以外に子どもたちは、フエ省とフエ市が行ってくれた「子どもの日のお祝い」や中秋お祭りなどに参加させていただきました。
JASSの支援のおかげで、子どもたちはラン・コービーチや像の滝、タン・タン温泉に行ったり、クリスマス会に参加させていただいています。そして、JASSはフエ医科大学と協力して、3ヶ月に一回子どもたちの定期健康診断をしてくれます。
● 子どもの家の運営
「子どもの家」が設立された時のスタッフは14名でしたが、現在のスタッフは11名です。人数は減りましたが、皆は経験を持っていますので、仕事は順調です。
● 労働組合
11名のスタッフ全員がフエ市の労働組合員になりました。「子どもの家」はフエ市の労働組合から良い労働組合として公認されました。
● 施設
設立された時は、20名ぐらいの子どもが「子どもの家」で生活をしていました。日本の支援者のおかげで、建物はだんだん大きく、立派になりました。現在、「子どもの家」では70名までの子どもが生活することができます。絵画教室、コンピューター教室や日本語・英語教室もあります。そして、図書室には、1000冊以上の本もあります。
② 2010年の目標
子どもたちの面倒を良く見て、より良い育て方について研究を続けます。
子どもたちが素直な子どもたちになり、規則を守り、お互いに助けあうことができるように指導します。
子どもたちが、フエ省とフエ市が行う活動に参加できるようにします。
今年もJASSと協力して、「子どもの家」に入所を希望している子どもたちの家庭訪問を続け、必要があれば入所させ、面倒を見
て行きます。
以上は「子どもの家」の15年間の活動報告です。フエ省とフエ市の関連機関とJASSの皆様にお世話になりました。これからもどうぞよろしくお願いいたします。皆様のご健康とご多幸を心よりお祈りいたします。どうもありがとうございます。
+++++++++++++++++++++++++
小山のお祝いの言葉
グエンチャイ「子どもの家」創立15周年おめでとうございます。
フエ省・フエ市共産党、人民委員会の皆様方、お忙しい中、グエンチャイ「子どもの家」創立15周年記念式典にお越し頂き、JASSを代表して心からお礼申し上げます。
私は1993年9月1日フエへやってきました。ベトナム中部に初めて出来た日本語クラスであるフエ師範大学日本語クラス主任として、ベトナム中部の若者に日本語を教え始めました。同時に、フエの町を歩くと多くのこどもたちが路上に寝ていたり、家が貧しいために学校へ行けなかったりするこどもたちを見ました。フエ市人民委員会のアン市長、ニエン外務部長と相談し、このグエンチャイ通りに「子どもの家」を創設しました。土地はフエ市人民委員会が出し、建物の建築、スタッフの給料などは私が出すという約束でグエンチャイ「子どもの家」のプロジェクトは始まりました。
それから15年。フエ市人民委員会・日越交流委員会とJASSの協力、なによりもセン運営委員長を先頭に「子どもの家」スタッフの皆さん方の力で
200人近いこどもたちを「子どもの家」などへ受け入れ、真面目なベトナム市民として社会へ送り出しました。
この中にはかなりのこどもたちが大学に入学し、医学部・教育学部などで勉強し、教師になったりしています。その他多くのこどもたちは自立のための職業研修を受け、様々な職種について自立し、結婚し、こどもをもうけ、真面目な社会の公民となってベトナムの発展のために活躍しています。
JASSベトナム事務所には、舟山さんや福田もえ子さんを始め30人近い日本人が1年以上常駐しこどもたち支援の活動を行いました。
更にこどもたちを自立させるために縫製研修センター・日本語学校・日本料理店・アクセサリー研修センター・IT企業のブライセン支社・刺繍研修店などを作り、自らが働きながら自立するシステムも作り上げました。
「子どもの家」の15年間の歩みの中でJASSはフエ市と静岡市との「友好都市」提携の仲介をしました。また、静岡大学フエ連絡事務所として、フエの高校生を静岡大学へ留学させる活動も行ってきました。
また、生活困難な小中高大学生に奨学金を贈呈しています。この15年間で
総数75000人に奨学金を贈呈しました。フエ医科大学には毎年100人の医学生に奨学金を贈呈しています。
1999年のフエ大洪水の際には、5万ドルの寄金を行い、ナムドンをはじめ多くの水害被災者に衣類・米・お金の支援を行いました。
1998年から4年間をかけてトゥアティエン省の障害児の総合的支援を行いました。2000人の障害児を見つけ、900人の障害児の手術を行い、700人の障害児のリハビリテーション、2000台の車椅子を日本から持って来て障害児に贈呈しました。これにかかった費用は約100万ドルです。
1998年にはフエ市立病院と協力し「障害児医療センター」を設立し、フエ市内25箇所の診療所に「障害児父母の会」を組織し、障害児とその父母への支援も行っています。
こうしてJASSはフエ省・フエ市人民委員会と協力し、日本国内では1400人の会員の支援も受け、大きな活動を行ってきました。このような活動ができたのもベトナムの人々を初め関係者の皆様方のお陰だと思います。
この15年の活動はベトナム政府・日本政府からも高く評価されています。
2001年「フエ市名誉市民賞」、2004年ベトナム政府より「友好勲章」
日本政府より外務大臣表彰などを受賞しています。
この15年間の「子どもの家」を中心とした諸活動に協力して頂いた多くの方々に心より感謝申し上げ、日越友好と世界の平和を願い、更に20周年、30周年に向けて奮闘することを誓ってお礼の言葉といたします。
2009年12月5日
ベトナムの「子どもの家」を支える会
代表 小山道夫
2009年12月04日
終日「ハイリーホテル」で大量の文章を書く
朝から雨
午前6時 気温20度 湿度90%
体中のジンマシンが最高ピークを超えた感あり。
首・頭の中などにできている。これが過ぎれば
「痒み攻撃」もほぼ終了すると思われる。
午前7時朝食。お赤飯。硬くて喉を通らない。
今日は1日各種文章を書く。
午前中は、静岡市役所国際に送る「ベトナム人の日本渡航ビザ
申請書」のサンプル作り。6種類ほどの申請書のサンプルを書き
静岡市役所へ送信。
明日、「子どもの家」で行われる「子どもの家」創立15周年記念
式典のセン運営委員長の原稿内容をチェック。私の挨拶との
整合性を確認する。
午前11時半昼食。寒い。
午後1時から読書。
『僕らの頭脳の鍛え方ー必読の教養書400冊』
(立花隆 佐藤優著;文春新書)
面白い。知的刺激を受ける。
(両氏の一般教養書としての推薦書)
①立花隆氏
医学書にかなり偏っていた。立花氏は文学部と哲学部
を卒業している。
・二重らせん
・細胞の分子生物学
・数値でみる生物学
・ファインマン物理学
・古代文明と気候大変動
・神は妄想である
・科学革命の構造
・ユンク自伝
・ガイトン臨床生理学
・人間臨終図巻
・図説 人類の進化
・人の変異
・心の先史時代
・20世紀全記録
・わが闘争
・オイラーの贈り物
・数学ーその形式と機能
・形而上学(アリストテレス)
・方法論序説(パスカル)
・国家(プラトン)
・自由の条件(ハイエク)
・開かれた社会とその敵(ポパー)
・国家と革命(レーニン)
・共産党宣言
・16の墓標(永田洋子 連合赤軍)
・西郷南洲遺訓
・日本改造法案大綱
・国体精華の発揚(上杉慎吉)
・近松門左衛門
・松尾芭蕉
・萩原朔太郎
・死霊(埴谷雄高)
など100冊
②佐藤優氏
・聖書
・コーラン
・精神現象学(ヘーゲル)
・唯物史観の原像(広松渉)
・純粋理性批判
・はじめての唯識(多川俊映)
・歴史的現実(田辺元)
・存在と時間(ハイデッガー)
・単子論(ライプニツ)
・日本基督教の精神的伝統
・負け犬の遠吠え
・現代のヒューマニズム(務台理作)
・マルクスと民族問題(スターリン)
・国体の本義
・アーロン収容所(会田雄次)
・資本論
・帝国主義論
・経済原論(宇野弘蔵)
・野中広務 差別と権力
・突破者(宮崎学)
・門(夏目漱石)
・セメント樽の中の手紙(葉山嘉樹)
・人間の条件(五味川純平)
・花と蛇(団鬼六)
・オリガ・モリソヴナの反語法(米原万里)
・沈黙(遠藤周作)
・塩狩峠(三浦綾子)
・小説 陸軍(火野葦平)
・ソ同盟共産党(ボリシェビキ)歴史小教程
など百冊
佐藤氏は鈴木宗男問題関連で逮捕され
拘置所に入所。512日の拘置所生活で
で220冊の本を読んだそうだ。拘置所が
一番読書ができるといっている。
午後2時半から「ハイリーホテル」で仕事
ブライセンへ会計報告
明日の15周年関連の仕事
・11人の「子どもの家」スタッフにお礼状を書く。
特に16年前にチーラン通りに作った最初の
「子どもの家」の時からのスタッフである
ロックさん、ニエムさん、キムアンさん、更に
今の「子どもの家」の創立時から10年以上
料理を作ってくれたフオンさんの4人には
私信を書く。16年前の思い出など・・・・
その他のスタッフには、15年間のお礼と
私たちの行ってきた「子どもの家」支援活動の
大きな意味について書き、感謝とお礼の気持ちを
伝える。
・明日の「子どもの家」創立15周年記念式典で
私がする挨拶の文の原稿を書く。
何度か推敲し、バオミンさんに送信。バオミンさんが
ベトナムに翻訳し、当日のベトナム人参加者に
文章で手渡す。こどもたちやマスコミ関係者にも。
12月17日からフエにスタディーツアーで来る
千代田区関連の資料等を再度確認し作り直す。
午後5時半、バオミンさんが「ハイリーホテル」に
迎えに来る。ベトナム人のAさんと夕食懇談。
高校同級生が作っているラオスのラム酒を持って行き、
ペットボトル1杯を飲み干す。香りがよく美味しいと言って
いた。その他、フエのビールを痛飲。
2009年12月03日
ベトナム事務所員会議
曇り・雨・曇り・雨・曇り 午前6時 気温22度 湿度90%
午前5時半目覚め。
午前6時、ルーティーンの血圧測定・体重計測・日記数記録
午前7時朝食。マカロニスープ。美味しい。
午前8時半、臨時ベトナム事務所員会議
(ソン)「アクセサリー研修センター」に給料を上げ行った。
「アクセサリー研修センター」で研修とトイレ掃除。
里親への冬のメッセージの写真を「子どもの家」に
撮りに行った。
「子どもの家」訪問者の案内
(原田)静岡日本語学校 11月6日の日本語検定試験に
4人受験に行く。2級。
静岡日本語学校中級終了試験(5人合格・5人再試験)
特進クラス 18人 特訓を進めている。
フエ高騰師範大学 3年生中間テスト
2年生は来週から2週間テスト準備休暇
(フオン) 静岡日本語学校中級終了
今週大きなテスト(半分合格)
特進クラスの雰囲気は良いが、能力の差が大きい
(フーン) 特進クラス・フエ高等師範大学授業
ビズネス会話クラスを作りテレビで募集中
1週間3回午後5時半~午後7時半 20人
6ヶ月
(アン)奨学生の里親への手紙の翻訳
「子どもの家」へ里親用の写真を撮りに行く
「子どもの家」来訪者の案内
(ハン)冬の里親へのメッセージの翻訳終了
奨学生からのお礼のメセージ、名簿作り終了
12月10日フエ医科大学と共同の定期健康診断
(税田)冬の里親へのメセージ点検
「アクセサリー研修センター」更に2名の入所
来週、日本の支援「アクセサリー専門店」ブレラの
社長さんと専門家3名がフエに来る。
ベトナム事務所で2名の通訳を決めて欲しい。
(クアン)特進クラスのテストをした。優秀な学生もいるが
そうでない学生との差がある。
(ミン)12月訪問者日程を説明する
「アクセサリー研修センター」再輸出の手続いを
検討中。
12月5日に「子どもの家」創立15周年記念式典を
「子どもの家」で行う。
フエ省労働局、フエ市代表、フエ市労働部代表、
フエ市外務ブライセン代表
フエ市日越交流センター代表
JASS「子どもの家」の地域の警察・行政代表
JASS以外の「子どもの家」の代表
「子どもの家」関連の小学校・中学校代表
「縫製研修センター」代表
刺繍みやげ物店従業員
絵画教室先生
その後、バオミンさん・税田さんと私で話し合い。
午前11時過ぎ、「ハイリーホテル」へ戻る。
丁度雨の中。
午前11時半昼食。ご飯等
午後12時半から昼寝。
読書「ぼくらの頭脳の鍛え方ー必読教養書400冊」
(立花隆・佐藤優著:文春新書)
本の表題は誤解されるものであるが、内容はきちんとしている。
知的好奇心を刺激される。
立花隆は3万冊の蔵書がある。佐藤優は1万5千冊。
とにかく二人は本をよく読んでいる。私が年間100冊の本を
読んでも10年間で1000冊である。
二人がいかに読書家であるかがわかる。
午後2時から受信メールのへの返事。午後5時まで。
午後5時半日本料理店へ。
こどもたちと一緒に夕食。
今夜は「三色ご飯」
最近の日本料理店には平均しても10人程度の来客あり。
今晩は少ない。
リー君は日本料理店控え室に来て自分で自分の顔写真を
撮る。
つられて私も撮る
税田さんの写真も撮る
午後9時閉店。
雨が少し降っていた。原田先生と「ハイリーホテル」へ帰宅。
ジンマシン撃退の虫下しを飲んだ。私の体内に入っている
寄生虫は虫下しに反応し体液を出し、死滅していった。
しかし全部の寄生虫を死滅させることはできない。
何割かは生き残る。これらが、また「悪さ」をする。
虫下しを飲むと寄生虫は苦しみ「体液」を出す。
これが私の体に流れ込み、ジンマシンとなる。
今日は足から手、体中に蔓延した。
クビから頭の中までジンマシンがでるので
困る。痒いのと熱があるので。
2009年12月02日
散髪・奨学金打ち合わせ
朝晴れのち豪雨、のち晴れ、夕方曇り、午後9時ころから雨。
一日の気候変動が大きい。体調を崩す人多し。
「休肝日」(小さいグラス1杯)
午前6時、気温21度、湿度80%。
昨夜からの洗濯を確認。洗濯済み。更に洗濯をする。
午前7時朝食。
朝食後、心臓の薬と一緒に「フエ風土病」の虫下しの薬を
飲む。半年に一度、蕁麻疹様のものを引き起こす寄生虫を
駆除しなければならない。
午前8時、メールのチェック。
午前9時、晴天。16年間通っているいつもの散髪屋さんへ。
黙って座れば全て仕上げてくれる。
2ヶ月半の散髪屋である。かなり髪が伸び放題状況だったが
日本の散髪屋は高い。
30分ほどで髪を短く仕上げてくれる。100円。
散髪の途中で豪雨。雨具を持ってきていない。
仕方がないので散髪後、豪雨の中、雨具なしで「ハイリーホテル」へ。
下着まで雨で濡れてしまう。
洗濯・トイレの掃除・部屋の掃除。
午前11時半昼食。
午後1時から昼寝。体がだるい。気候の大きな変化に体が
ついていけない。
午後3時にA大学の奨学金担当者を呼んでいる。
午前2時30分には起きなければならない。
しかし、気付いたら午後3時10分前。気候の大きな変化と
疲れも出て、起きられなかった。
急いでベトナム事務所へ。A大学には25人の学生に奨学金を
支給している。しかし、学生が毎月書くべき領収書がきちんと
出来ていない。
担当者もやる気がないとの話を聞いて、今日、急に呼び出して
奨学金支給の事情を確認することにした。
今回のA大学奨学金問題は以下のようである。
2004年からA大学の学生25人に奨学金を支給していた。
支給の際に以下の条件をつけた。
①毎月、奨学生に直接奨学金を支給すること
②領収書は毎月、奨学生が直筆でサインしたものとする
③1年間奨学金を受給した後は、お礼の手紙を書くこと
今回、A大学がベトナム事務所へ持って来た領収書は
偽造の疑いの限りなく濃厚な領収書だった。
第1に毎月奨学生がサインしたという領収書に日付がないのである。
第2に領収書の末尾にA大学学長の印鑑が押してないのである。
第3にお礼の手紙を書いたのは25人中11人だけである。
第4にA大学奨学金担当者がベトナム事務所に奨学金を
取りに来るのは3ヶ月か4ヶ月に一度である。
A大学担当者を呼んで何故上記1から4のような実態になったの
かを詰問するが、「ぺれぺら」と言い訳をするだけで埒があかない。
私の方から言い訳は良いから以下の点について「YES]なのか
「NO」なのか答えるように言う。
問い① 「領収書に日付が付いていないいことを認めるか。」
答え 「認める」
問い② 「領収書に学長の印が押していないことを認めるか?
答え 「認める」
私から「今認めたことを文章に書いて、署名捺印するように」
という。A大学の係員は証明捺印する。
文章として、25人の毎月の領収書に日付がないこと、
学長の認めの印がないことを認めてしまっては、
この勝負は終わり。
その後、何故、毎月ベトナム事務所に奨学金を取りに
こなかったのか?を聞く。
係りの答えは「金額が少なく、忙しかった」とのこと。
情けない答えである。
支援の具体的な実態である。こちらは、生活困難な
学生に奨学金を出して、出来るだけ勉学に専念して
もらうようにとの気持ちでいるのに、当のA大学では、
面倒だから毎月ベトナム事務所にもらいに行かない、
金額が少ない(奨学金としては適当な金額である)
などおよそ、奨学金をもらう態度ではない。
しかも当初の約束を全て違えている。
ベトナム事務所に持ってきた領収書も担当者が書いたと
思われる署名が多々見つかる。その上、12ヶ月・12枚の
領収書すべてに「日付」と「印鑑」が押していない、
ということは、担当者が勝手に偽造した領収書と言われても
仕方がない。あるいは、そうしていたのかも知れない。
奨学金をもらうベトナム側は、「くれるならもうらおう」という
情けない根性。奨学金をもらっている学生には迷惑なこと
ではあるが、こうした大学側の姿勢や態度などを「批判する」
ことは出来ない。一党独裁国家の実態である。
これからA大学学長に対してJASS代表名で「奨学金不正受給
についての抗議と謝罪を求め、全奨学金の即時打ち切り」と
題する文章を送付するつもりである。
支援者の「善意な気持ち」が相手に伝わると思ったらとんでもない
国際支援の実情である。
私たちは現場主義・現地主義をモットーとしている。
現地で具体的な問題と格闘してながら国際支援を
行っている。私たちの活動は基本的には「闘い」なのである。
時には「不正との闘い」であり「賄賂にまみれた政治との闘い」
であったり、「批判を許さない社会制度」との闘い」だったりする。
そうした不当な場面との闘いがこの16年間のJASSの現地での
活動の本質でもある。私たちはどんな困難にぶつかっても
けして怯まず、不正・不当と実際に闘ってきた。
その結果、敵も多い。敵がいようと、いけないことはいけないの
である。会津藩校である「日新館」には『ならにことは ならぬもの
です』ということばがある。ベトナムで生活している私たちは、
ベトナムの現実にただ妥協するだけではなく、日新館精神を
心の奥底に潜めて、不正と闘ってきたし、今後も闘って
行くつもりである。そのたびに多くのエネルギーを費やし
多くの場合「傷つく」のではあるが・・・・・。
午後5時半夕食。
野菜入りの「ブン麺」おいしい。
日本料理店のヒエウさんが体調が悪いといって早退。
食事中からだるそうだった。みんなで「早退するように」と
進めたのだが、「大丈夫」といっていたが、やはり無理だったのだ。
早期の回復を祈る。1日の気候の変化が大きすぎる。
夕食後、A大学長へ宛てた奨学金関連の手紙を書く。
途中で体が痒くなる。
寄生虫駆除の薬を飲んだために寄生虫が暴れだし、
「体液」を出した。その体液が体中に回り、大きな蕁麻疹と
なる。
昨年の体験からすると、今後、頭の中、手足などを含め体中に
蕁麻疹が出来、最後は腫れて終わる。悲しいかな、この「蕁麻疹
騒ぎ」は年中行事と化した感あり。
痒さを堪えるのが結構大変である。
午後9時過ぎ、日本料理店閉店。雨が降り出してきた。
急いで「ハイリーホテル」へ帰るが前進びしょ濡れ。
再度洗濯をする。
2009年12月01日
ベトナム帰国第1日目
晴れ
午前6時半の気温21度、湿度75%。
部屋中の窓を開けて、カビ退治をする。
昨夜は熟睡。午前5時半に目が覚める。
日本では夜中の3時頃目覚めてしまい、2時間位本を
読んだりラジオを聴いたりし、午前5時頃再度眠ってしまい
午前8時頃起きるという生活をしていた。
ベトナムに帰り、規則正しく起きられる生活になる。
16年間でベトナム生活のリズムが出来上がって
しまった。
シャワーを浴び、洗濯。
午前7時朝食。私の大好きなブンボー。
ブンボーを食べると落ち着く。
しばらく原田先生と雑談。
朝食後、心臓の薬と「フエ風土病」の薬を飲む。
ジンマシンがでかかっている。
午前8時半、電動バイクでベトナム事務所へ。
ベトナム事務所で「ブライセンベトナム支社員」3人と
懇談。今後のブライセンベトナム支社の方向などについて
意思統一。
その後、ベトナム事務所へ。
税田さん・ハンさんは元気に仕事をしていた。
ソン君も当面の日程つくりなど真面目に仕事をしていた。
アンさんもバオミンさんから頼まれた仕事をしっかりやっていた。
バオミンさんJASSベトナム運営委員長も非常に真面目に
仕事をしていた。
日本語教育部では、部長のフーン先生とフオン先生が
日本語の準備をしていた。
ベトナム事務所員の皆さんと「帰国の挨拶」をしたあと、
バオミンさん・税田さんと私の不在中の諸問題、当面の
課題」などについて協議。
午前11時半、「ハイリーホテル」で昼食。
「ハイリーホテル」前の広大な墓地が「開発事業」
で掘りなおされていた。裁判所になるとのこと。
この墓地開発工事で大もうけしている一部特権階級が
いることは事実である。
「ハイリーホテル」の5階の壁は異常な緑色のカビに覆われて
いた。
午後1時から午後2時まで昼寝。
午後2時、ブライセン本社との電話会議。
新規従業員雇用問題などを協議。
午後2時から1時間、オーストラリア・メルボルンの
方からの電話に応対。
「ハイリーホテル」のインターネットが壊れる。
湿気の影響。業者を呼んで修復する。
ソン君が通訳をしてくれる。助かる。
朝から終日、衣装ケースの中やかけてある衣類の
全てを「洗い直す」ために洗濯機に入れる。
1日3回。まだ全てのかびた衣類を洗濯できない。
午後4時過ぎ、理髪屋へ行くが満席。
明日行くことにする。
午後4時、ベトナム事務所でハン会計部長、
税田さんに「日本から持ち帰ったお金」を渡す。
奨学金、寄付金など多額。
午後5時半過ぎから日本語教師で夕食。
日本料理店のこどもたちが作ってくれた「ごぼう天ぷら」
で軽く「フダ生ビール」を飲む。
ウズラの卵と豚肉の煮物(美味しい)
今日は11人の来客。厨房は大忙し。
来客の中に1960年代に「キャンプ座間」で6年間
仕事をしていた米国人がいた。しばらく話し合う。
午後9時閉店。雨が振り出す。
今日も1日色々なことがり、ゆっくりはできなかった。
リー君と日本料理店の女子が頑張って仕事をして
いるところを見て、ほっとする。