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2009年11月30日
成田→ホーチミン→フエ
成田は雨。気温7度。
午前6時起床。午前8時10分、ホテルの送迎バスで
成田第2ターミナルへ。
チェクイン手続き、出国手続きを経て、待合室へ。
午前10時半成田発。午後3時ホーチミン市着。
ホーチミン市の気温31度。
読書「ドイモイの誕生」(古田元夫著:青木書店)読了。
入国手続きをし、国際線から徒歩10分ほどで国内線へ。
チェックイン手続きをし、国内線待合室で3時間ほど待つ。
読書「社会主義と個人」(笠原清志著:集英社新書)読了。
午後6時、ホーチミン空港国内線発。
午後7時20分、フエ空港着。フエの気温21度。
ホーチミン市からフエの飛行機から。午後5時半の夕日。
2ヵ月ぶりの室内に入る。洪水の際多量の雨水が
室内に入ったようで床が汚れていた。
室内は「カビ」の異臭。
衣類は全てかびていた。
浴室のバスタブ、トイレなどに黒カビが繁殖。
浴室に蜂の巣あり。
パソコンは湿気で画面が映らなくなっていた。
室内の掃除、浴室の掃除、蜂の巣退治、
衣類を洗濯機にかける。
ベッド周辺の整備をし、急いで電動バイクで
日本料理店へ。
仕事をうまくやっているのか心配だった。
午後9時前に日本料理店到着。
接客係のリー君、グエットさんにお客さんの
状況を聞く。毎日盛況とのこと。平均、1日10人
程度の来客があると言っていた。
日本語教師の原田先生と懇談。元気に仕事をしている様子を
知りひと安心。
日本料理店の調理担当のTHUY・TRAN・HIEUさんと
担当の税田さんに調理の状況を聞く。
うまくいっていると本人たちは言っていた。
午後9時過ぎ、日本料理店閉店。
頑張って仕事をしているリー君の激励を兼ねて軽く一杯飲む。
諸般の事情で買ってあげた自転車を「質屋」に入れてしまい、
12月6日に「質流れ」になるという。何とかして欲しいといいたい
雰囲気がミエミエ。
税田さん・原田先生・リー君の4人で軽く飲む。
午後10時過ぎ、「ハイリーホテル」へ帰宅。
更に部屋の掃除。洗濯・・・・・・・・
とりあえず、今日は帰国初日。午後11時半(日本時間
午前1時半)に就寝。布団など寝具がカビ臭い。
2009年11月29日
成田付近のホテルへ
晴れ 午後曇り 寒い
長男家族と午前中、上野の「鈴本演芸場」へ行き、
寄席を聞く。
30年ほど前に一緒に仕事をした「金原亭伯楽師」が
中入り前に出番となる。
久々に話を聞いたが、なかなか「枯れた」芸人さんに
なっていた。真田小僧を軽く(見えるように)演じていたい。
夕方、京成線で成田へ。成田から徒歩
15分。ホテルへ。1泊3800円という安いホテル。
明朝は午前8時にホテルを出て成田空港へ。
午前10時半成田発のVN便に乗る予定。
2ヵ月ちょっとの日本滞在であった。
ベトナムへ行って16年を超えたが、今回初めて
体調を崩し10日間寝てしまった。
いくつかの教訓を得た日本帰国であった。
009年10月・11月帰国日程
★ B印 バオミンさん日本宿泊
09月23日(水)フエ →ハノイ 1泊
24日(木)A8:30 HOA BINHホテル出迎え
ハノイ日本人会講演会 P4ハノイ発・P6ホーチミン
25日(金)0:05ホーチミン発(3人静大留学生)
A7:30成田着 P1:30アクア P2マブチ奨学金面接(東京)
26日(土)静岡 ホームステー(小山 東京泊)
27日(日)東京→静岡 富士山・静大視察・その他
28日(月)A9:30静岡大学学長懇談 11:30静岡市長懇談
静岡 →浜松 3人の留学生の静大入学手続き
29日(火)
30日(水)
10月01日(木)
02日(金)A10ブライセン会議 (本社)
03日(土)
04日(日)成田付近のホテルに前泊
05日(月)A6:55 バオミンさん成田着
16:03(東京)→静岡(17:06)静岡泊 B
06日(火)静岡大学工学部10月入学式 静岡泊 B
07日(水)A11 ブライセン電話会議 ミン 東京泊 B
08日(木P3ピースインツアー訪問 ミン 東京泊 B
09日(金)A10マブチモーター理事長懇談(東松戸駅)東京泊 B
10日(土)高校旅行 A9:45 東京駅 伊豆高原泊 B
11日(日)高校クラス会旅行 午後伊豆高原発―関空付近ホテル B
12日(月)A7:30関空フエ外務部長ニエン氏出迎え 奈良 B
13日(火)世界歴史都市連盟理事会参加(奈良) B
14日(水)世界歴史都市連盟理事会(プレゼンテーション)(奈良泊)
15日(木)奈良→京都 京都見学 京都の会関係者と会食(京都泊)
16日(金)朝京都発
A11 関空よりニエン氏・バオミンさん帰国見送り(京都泊)
17日(土)京都泊
18日(日)「京滋YOUの会」講演会 (35人) 京都泊
19日(月)京都→東京 A11ブライセン会議(電話)
20日(火)
21日(水)P5:30 ラム酒打ち合せ
22日(木)心臓病院
23日(金)自動車免許更新 P3千代田区役所講演会打ち合せ
24日(土)
25日(日)
26日(月)A11ブライセン本社と電話会議
27日(火)体調を崩し寝込む
28日(水)
29日(木)
30日(金)
31日(土)
11月01日(日)
02日(月)
03日(火)
04日(水)P1北海道芸術高校坂井理事長・岡崎氏懇談
05日(木)
06日(金)孫「空人」出生
静岡行き 夕方、笠井・牧田・巣山さんと懇談
07日(土)P2 JASS静岡の会講演会(静岡教育会館ホール)50名
P5 静岡→浜松へ 静大留学生3人と懇談(西村・松本・滝下)
P8時半浜松→静岡
08日(日)静岡→東京
09日(月)
10日(火)
11日(水)根津の姉宅訪問
12日(木)一の酉(浅草大鳥神社)
13日(金)P6:30 ラム酒打ち合せ(與芝・五井・・・)
14日(土)JASS各地の会交流会 栃木県那須温泉 16名
15日(日)同上→伊香保温泉
16日(月)A11ブライセン本社電話会議 伊香保温泉
17日(火)伊香保→渋川→自宅
18日(水)P4 千代田区スタディーツアー打ち合わせ
P6:30高校クラスベトナム・ラオス旅行反省会
19日(木)A9心臓病通院 P7ブライセン打ち合わせ
20日(金)A10グリーンビジネス理事長懇談(茨城県新鉾田)
21日(土)
22日(日)帯広芳村さん・大塚さん懇談
23日(月)
24日(火)
25日(水)P1:30ピースインツアー松永社長懇談
P3原田虎太郎さん懇談
P3:30太平観光北垣会長懇談
P6 千代田区主催講演会(千代田区役所)70名
26日(木)A11 青山学院大学授業 30名 P6高校クラス会
27日(金)長男一家来訪
28日(土)長男一家来訪
29日(日)成田空港前泊
30日(月)A10成田発―午後7時20分フエ着
12月01日(火)P2 ブライセン電話会議
2009年11月28日
長男・次男一家と懇談
晴天 寒い
昨夜から長男一家と同宿。
長男の娘は小2。背も随分高くなった。
長男一家と一緒に次男の家へ行く。
新生児(次男)のお祝いに。
3人の孫と一緒に記念写真
午後長男一家と次男一家で「品川水族館」へ行く。
従姉弟同士で魚を見る
2009年11月27日
長男家族上京
晴れ
終日、メールへの返事。
夕方、長男家族と合流。
2009年11月26日
青山学院大学講演会:高校クラス会
晴れ
午前9時過ぎ、自宅を出て神保町乗り換えで
表参道へ。
午前10時40分、青山学院大学へ。プロテスタント系の
大学。
青山学院大学のまん前に「国連大学」がある。
青山学院大学正門
授業の教室に行く途中「3年生就職情報」掲示板があった。
既に3年生から就職のことを考えなければならないいまどきの
大学生はかわいそうである。学問研究・読書・勉強などの
前に入学2年を過ぎれば2年間もかけて「就職活動」を
しなければならない今の日本社会と大学を巡る環境は
異常である。
午前11時から午後12時半までの90分の授業。
「経済開発論」。
授業には今日の授業の「橋渡し人」でもある
與芝君も参加。
與芝君は現在はラオスに「ラム酒工場」を設立し、サトウキビ
を純粋に精製し、ピュアーな「アグリコール RHUM(ラム)」
を作り輸出している。私も何回かこの純粋な香りのよい
ラム酒(ホワイト)を飲んだが、本当においしい。
輸入連絡先は「LAODI JAPON」
東京文京区白山1-26-23 まで
70分ほど私がベトナムでのストリートチルドレン支援などの
体験を話す。
授業終了後、何人かの学生が質問に来る。
中々的を射た質問である。
授業終了後、「経済開発論」の藤村先生、與芝君と
3人で大学食堂で昼食。私は「きつねうどん」(300円程度)
ここで與芝君と別れ、午後1時10分から午後4時15分まで
3年生・4年生の卒業論文作成に向けた個人中間発表会
に参加。
3年生の卒論テーマ
・援助を有効にするための改善策
・開発途上国の食糧問題をアグリビジネスとの関係から
解決する(仮)-飢餓を引き起こす様々な要因
・開発援助におけるファンジビリティーを減らすには
・中国の持続可能な経済発展戦略
-石炭エネルギーと代替エネルギーの最適組み合わせ
を考える
・日本人とブラジル経済の付き合い方
午後4時半、青山学院大学を出て、半蔵門線で渋谷へ。
渋谷からJRで池袋。
午後6時過ぎ、池袋西口の某ビヤホールで
高校の「早い望年クラス会」に参加。
14人が結集。
高校を卒業して43年。
3年間同じクラスだった仲間の皆さんも既に60歳を
越え、お祖父ちゃん、お祖母ちゃんになっているが、
精神年齢は若い。大学院にいったり、ラオスでラム酒
工場を始めたりと団塊世代のクラスの仲間は、
進取の精神を失わず、新しい地平に挑戦している。
こうしたクラス会のような会合が毎年何回も
開かれるのは、五井君という「世話役」がいるからだ。
結構忙しいクラスの仲間に根気よく連絡をし
「わがままな」団塊親父や「団塊お姉さん」の日程を
調整してくれているからである。
どんなことでも一つの「プロジェクト」を成功させるためには
見えないところで「見えない仕事」をしてくれている
人がいるからである。こうした人間に私もなりたいと
いう気持ちを強く持ちながら、ラオスのホワイトラム酒の
杯を重ねるのであった。
陸上部で一緒に走った仲間。ラオスでのラム酒作りをしている。
午後10時頃散会。
私は池袋西口からバスで西台へ帰ろうとバス停に行くが
バスは30分待たないと来ない。
という訳で「更に交流を深めよう」という一部不穏分子
と合流し、深い交流の世界に。
ホッピーを飲む。
午後11時頃、本当の散会。
楽しいひと時を過ごした。43年間たってもこうして
付き合える人間関係も素晴らしいものであり
こうした機会を設定してくれた「縁の下の力持ち」
的なクラスメートにも感謝したい。
2009年11月25日
千代田区「地球市民講座2009」講演会
晴れ 気温も高くなる
午前中、ベトナム事務所との間のメール交換。
いくつかの問題。
午前11時過ぎ自宅を出て、新宿南口へ。
午後1時過ぎ、ピースインツアーの松永社長と
懇談。今後のJASS観光の仕事拡大、ツアー領域の
拡大など、今後の世界情勢、アジア情勢などの中での
ツアーの在り方などを話し合う。
午後2時半、同新宿南口でJASS東京の会の
原田虎太郎さんと懇談。
様々なことを話し合う。
午後3時、新宿南口改札で太平観光の北垣会長と
落ち合い、小田急内の喫茶店で5時間程話し合う。
北垣社長とは1993年2月にお会いし、その後、今日まで
の長いお付き合いである。現在、200万円の奨学金を
寄贈してくれている。既に10年になる。フエ医科大生など
多くの生活困難な子弟への奨学金支給で教員、医師など
ベトナム中部の医療、教育への多くの逸材を輩出している。
午後6時、千代田区役所へ。
今日は午後6時半から千代田区主催「地球市民講座2009」
『世界を考えよう』第4回 「アジアのこと 国際協力のこと
NGOのこと」 第4回 国際協力の現場からの講師として
2時間の講演会を行う。
講演会開会を待っていると、上尾の星野さんが受けつを
しているのを知る。
伺ってみると千代田区に家があるとのこと。区報の
チラシで私の講演会を知ったとのことであった。
11月23日の私の誕生日のお祝いとして『花束」と
上尾の地酒「文楽」を頂く。
午後6時半から午後9時近くまで講演と質疑応答。
約30人の参加者の中には2009年12月16日から千代田区主催
のスタディーツアーでフエに来る高校生・大学生・区民なども
参加。
講演会終了後も質問にくるなどなかなか熱心な皆さんであった。
千代田区役所関係者の皆さん、JICA地球ひろばの山崎さんなど
お世話になった方々にお礼を申し上げたい。
今日の講演会には、1971年4月1日から私が教職についた
東京都北区立滝野川第7小学校の生徒だった栗原君も
来てくれていたい。当時、小学校3年生。現在は41歳で
8歳のお子さんのお父さんになっているとのこと。
30数年前の話である。30数年前の教員を覚えていて
くれている生徒である栗原君に感謝。
午後9時過ぎ、講演会は全て終了。
その後、星野さんご夫妻の招待で神楽坂のしゃれた
お蕎麦屋へ。生ビール、日本酒(冷酒)をご馳走になる。
お蕎麦屋さんはそもそもお酒を飲むところ。おつな
あつまみがあり、お酒がおいしかった。
星野さんとは、10年ほど前から上尾のスタディーツアー
で知り合い、お付き合いをしている。
午後11時位までご馳走になり懇談。
その後、星野さん(お酒を飲まなかった)の運転で
首都高速5号線に乗り、我が家の近くまで送って頂く。
星野ご夫妻に心から感謝したい。お忙しい中、
わざわざ上尾から千代田区まで来ていただき、激励して
頂いたことは、私にとっては本当にうれしく、ありがたい
ことであった。星野さんご夫妻との出会いに
感謝したい。
2009年11月24日
フエ「帰国」諸準備
曇り
終日、フエ帰国の諸準備。
フエでの諸活動のため、この2ヵ月の間日本で活動した
諸文書・書類等全てに目を通し、フエに持ち帰る必要のある
文書・書類等と必要のないものを分類。
午後、フエに持ち帰るいくつかの買い物。
スーツケースに帰国用の品物を詰め込む。
各地の会、奨学金支援者などから振り込まれている
お金をいくつかの銀行へ確認に行き引き出す。
ベトナムへ持ち替える。
日本からベトナム事務所の口座に振り込みと
日本円→米ドル→ベトナムドンと2回の両替を
行い、2回にわたり両替手数料を取られる。
こうした「無駄」を排するため、できるだけ
日本円をフエに持ち帰るようにしている。
明日の千代田区主催講演会、明後日の
青山学院大学講演会の内容を検討。
レジュメにまとめる。
2009年11月23日
お墓参り(父・兄・弟)
快晴
午前中、メール受信。
ベトナム事務所といくつかの件でメールを送信。
お墓参りに行く。
自宅から東武東上線「東武練馬」まで徒歩35分。
東武練馬から志木で乗り換え、森林公園。
お墓に着く。
父親はキリンビールが好きだった。弟は「甘味」が好きだったので
チョコレートを供える。
今日は私の誕生日。62年間、生き、様々な活動ができるのも
親や家族のお陰。
兄が死んで64年、父が死んで45年、弟が死んで43年。
既に亡くなった3人を知っている人もほとんどいなくなった。
せめて、私が日本に帰国した時くらいは、亡くなった3人を
生きている人間が思い出すことくらいの供養はできる。
死んだ人間は何も言えない。生きている人間が
思い出すだけではなく、具体的な行動(お墓に行く)
で「思い出す」時があっても良いと、私は自分で勝手に
思っているのである。
本堂で若干の時間「瞑想」。
墓地は、紅葉の真っ盛り
夕方、行きと同じ道のりで帰宅。東武練馬駅から徒歩。
孫、息子から「誕生祝い」の電話あり。
福島の孫は、本をたくさん買ってもらったと喜んでいた。
次男の方の孫は、先日、私と会ったことを何度も
言っていたとのこと。
今日は亡くなった父親・兄・弟と二人の息子、そして
孫の声を聞く。4世代がこうして命を伝えていくことが
分かる。
「子どもの家」やベトナム事務所、何人かの方々から
誕生日のお祝いのメールあり。感謝。
今日は往復の乗車時間は2時間半程度。
その間、読書。「ドイモイの誕生」(古田元夫著)
1985年のハノイ共産党中央指導部内での
経済改革、具体的には、計画経済を原理主義的に
進めていくのか? 市場を積極的に評価し、
「改革」を進めていくのかのベトナム共産党書記長代行
チュオンチンを中心とした党内闘争を「証言」などを
交えて論考していく。紆余曲折あり。
指導部内での論争と闘争あり。
一昨日、三遊亭円楽の追悼の会があった。
円楽が亡くなってしばらくの間のテレビ、新聞等の
マスコミをかなり詳しく観たり聞いたり読んだりした。
三遊亭円楽の死去報道を通して日本のマスコミの
実態が良く分かった。
結論は、「物事の本質を全く報道せず、皮相的な
報道しかしていない」ということである。
テレビ・新聞など日本のマスコミだけから情報を
得ようとしても「真実」「本質」はなかなか分からない。
テレビ等のマスコミだけを見ていたり、「鵜呑み」に
していると「世の中の本質」はほとんど理解できない
ことが分かる。
円楽師の死去に際して全てのテレビ新聞は
「笑点」の司会を長く続けたこと、後輩の
面倒をよく見たこと、の2点のみを報道した。
笑点の「大切り」は、寄席の「余興]であり、
噺家の本質的な活動ではない。
あくまでも「噺」が終わった後などにする
サービスである。
落語家を誉めるのに「サービス」が良かった
という誉め方はない。あくまで「噺が良かった」
というほめ言葉が本質。
どのマスコミも「噺」には触れず、笑点の司会
(サービス)が良かったとの評論をしている。
ピントがずれている。
しかし、円楽師が本当に心の中で思い、
「意地を張って生きてきたバックボーン」は
円楽の師匠三遊亭円生の「落語協会」からの
脱退問題である。
柳家小さんが会長だった「落語協会」が
「二つ目を10年経験した噺家は自動的に
新打ちにする」との方針を出したことに対し、前の落語協会会長
であり当時、落語協会顧問だった
三遊亭円生が「落語の質が落ちる」として反対。
話がこじれ、三遊亭円生・古今亭志ん朝、
月の家円鏡などが「落語協会脱退」の記者会見
をしたという騒動があった。
落語協会を脱退するということは、東京の定席の寄席に
出られなくなるということであり、生活に直結する。
しかし、落語の衰退を憂いていた円生・志ん朝などが
落語の復興という気持ちをもち、落語協会を脱退しても
という強い決意で脱退会見を行った。
しかし、落語協会からの「切り崩し」もあり、結局、
志ん朝、円鏡(現円蔵)などは落語協会へ復帰する。
円楽の師匠三遊亭円生一門は、最後まで突っ張り
落語協会とたもとを分かち、東京の寄席から排除
されながら、地域寄席・ホール落語などを通して
落語、特に古典落語を守る活動を進めた。
翌年、円生が死去。
最終的には、円生の一番弟子の円楽一門だけが
残り、円生のほかの弟子たちは、落語協会に
復帰するという大騒動があった。
円楽の気持ちの中には、師匠円生の「突っ張った」
生き方を踏襲するという「信念」「気概」があったように
思われる。
円楽を語るには、この問題(最後まで落語協会に
復帰せず、師匠円生の意思を受け継ぎ、落語協会
に復帰せずに生涯を終えた。落語の現状と将来を憂いていた
)という点をこそ、報道
すべきだったとおもう。また、円楽を語るには、
その点こそがテレビでは言えない円楽の本当に
言いたかった「意地」ではなかったかと思う。
こうした「複雑な事情」は今のテレビと言う放送媒体では
しち面倒くさい。単純な「笑点で大活躍の三遊亭円楽」
というレッテルだけの報道となってしまうのである。
こうした報道姿勢は、他の政治などの報道にも共通する
ものである。
社会の出来事は何事も「単純に一言では」言えないものである。
2009年11月22日
大塚さん・芳村さんと懇親
曇り 気温8度 非常に寒い
午前中、ビデオ作製。
これから千代田区主催スタディーツアー、青山学院大学講演会
がある。今まで用意していたビデオテープが壊れてしまった。
改めて3本のうち2本のビデオを作り直す。
結構時間がかかった。
フエ帰国のための持ち帰り物資等の準備のためのメモを作る。
午前11時過ぎ、自宅を出て池袋へ。
池袋駅で「オアシスの会」の大塚さん、帯広の支援者芳村さんと
合流。昼食をともにしながら、こどもたちの支援、日本料理店の
今後の運営などを打ち合わせする。
読書「ドイモイの誕生」(古田元夫著 青木書店)
2009年11月21日
池袋までウオーキング
曇りのち快晴
午前11時まで受信したメール(15通)への返信
午前11時15分、自宅を出て池袋まで徒歩でどの程度
時間がかかるか試みる。
11時半自宅発。(高島平)
12時 志村坂上着
志村坂上交差点の近くには「志村一里塚」がある。
1604年(家康が幕府を作った翌年)全国に一里塚を
作った。現在残っているのは、北区西ヶ原一里塚と
志村一里塚の二つだそうだ。
志村一里塚は日本橋発の「中山道」にある。
日本橋から本郷森川宿一里塚(既に廃棄)、
板橋平尾一里塚のつぎの3つ目の一里塚である。
一里は4キロ。うまくできたものである。
4キロは大体人間が1時間で歩ける距離。
志村一里塚まで日本橋から3里、12キロ
ということ。日本橋から志村坂上まで昔の人の
足では約3時間で歩いたということになるのか?
一里塚の隣の昔の凸版印刷の工場があった。
現在は情報・出版本部となっていた。
ウオーキング(私には散歩)の楽しみは、歩いていると
意外なものに気付くということがある。
中山道の昔のかなり古い建物が残っていた。
「畳屋」との看板あり。
12時30分 大和町陸橋へ。
環状七号線と中山道(国道17号線)との交差点。
以前は、公害・空気の汚れ日本一などと言われた
時期があった。
首都高速池袋線(五号線)と首都高速王子線との交差点
でもある。
中山道(国道17号)を少し歩くと「石神井川」
と交差する所に「新板橋」がある。
日本橋から11キロとの表示がある。
新板橋のたもとに1966年頃、板橋医師会病院が
あった。今は、事務所だけが残っている。
私の弟が16歳で白血病にかかりこの病院に入院
した。私はこの病院の弟のベッドの下に畳を敷いて
泊まり込み看病した。6ヶ月間。
新板橋は思い出の場所ではある。当時、高校同級生の
五井君などが良く病院へお見舞いと私への励ましに
来てくれてた。43年前の話ではある。
更に15分度歩き
午後12時45分、中山道(国道17号)と山手通りの
分岐点へ到達。そのまま「山手通り」を直進する。
しばらく行くと「新金井窪橋」へ。
小学校低学年頃、この橋から東武東上線の
列車を見てことをよく覚えている。
当時、この近くに住んでいた。
東武東上線「下板橋駅」から「大山駅」の間を
走っている東上線。
午後1時、川越街道に到達。右折すると成増、
左折は本郷。
重林寺。(1600年代創建)このあたりの土地を
たくさん持っていた。
池袋の中心街に近づく。
午後1時20分、「池袋の六つ又交差点」へ。
交差点を右折。
すぐの豊島区役所へ。
午後一時半、無事、池袋の中心街に到着。
最近できた「ヤマダ電機」の店員に写真を撮ってもらう。
ビックカメラの隣にできた「ヤマダ電機」。かなり挑戦的な
出店ではある。
午前11時15分に自宅を出て午後1時半に
池袋へ到着。途中、休息は取らず。
2時間15分で到着できた。
結構、良い運動になった。また、楽しい2時間15分
でもあった。
帰りは、池袋から高島平直通の都バスに乗る。
210円。
2009年11月20日
茨城県GB協同組合へ
晴天 寒い
午前6時過ぎ自宅を出て巣鴨経由上野へ。
上野から水戸まで1時間強。
水戸で下車。「鹿島臨海鉄道大洗鹿島線」という大仰な
列車に乗る。巣鴨で「新鉾田駅まで」と言ったら、JRでは
新鉾田まで買えません、水戸で買ってくださいと言われる。
鹿島線は1時間に1本程度しか出ていない。
水戸から「鹿島線」で新鉾田駅まで約1時間。
鹿島線の車内はガランとしていた。
午前10時、新鉾田駅到着。
時刻表。1時間に1本程度。
帰りの時刻を調べておく。
自宅を出て3時間強。
GBのH理事長さんが駅まで車で迎えに来てくれた。
新鉾田駅から車で20分ほど。GB協同組合本部事務所へ。
理事長のHさんと2時間程話し合う。
午後12時過ぎに話し合いを終わり、再度、車で新鉾田駅
まで送ってもらう。
新鉾田→水戸→上野→巣鴨→西台。
往復で1万円強。
午後4時近くに自宅へたどり着く。、かなり疲れる。
行き帰りの車中で読書
「ドイモイの誕生ーベトナムにおける改革路線の形成過程」
(古田元夫著:青木書店)
2009年9月10日発売。
著者は東大教授。ベトナムの専門家。
本著ではベトナムの「ドイモイ政策」が「下からの積み上げで
作りあがられたもの」を証明すると著者は主張している。
半分ほど読む。共産党大会決定。中央委員会総会決定など
ベトナム共産党の公式文書を中心にしての論考には、
不満も残る。1976年のベトナム全土社会主義化から
1986年のベトナム共産党第6回大会でドイモイが
決まるまでの間を考察しているのだが、文献主義の
ため、庶民・市民がどんな苦しみの中にいたのかなど
労働者・農民の国家と言われるベトナム社会の
人間像が全く出てこない。
人間が出てくるのは、当時のベトナム共産党
書記長「チュオン・チン(長征)」の言動、その心の
変化などである。教条的なベトナム共産党
の中で先進的な南部のロンアン省でのドイモイの
初期的な活動の紹介、ロンアンの活動を評価する
チュオンチン。保守派であったチュオンチン書記長が
改革派に転じた過程をたどる。
2009年11月19日
心臓病院通院:ブライセン社長等と懇談
曇り時々雨。非常に寒い 午後2時の気温7度。
午前7時過ぎ自宅を出て地下鉄で都庁前へ。
新宿NSビルにある病院へ。
30分ほど待ち、診療。10月に採血した結果を知らされる。
・高脂血症
・高血圧心疾患
という病名。
中性脂肪が高い、善玉コレステロールが低い。
肝臓の機能が多少低下、尿酸値が高い(痛風傾向)
ということで、アルコールの飲みすぎとの「判定」。
1週間に2日は「休肝日」をとるように、との注意を受ける。
週休2回の「休肝日」を取らざるを得ない。残念だが
ベトナムでの活動を今後続けていくためには、何とか
週2回の「休肝日」をとることとする。
心電図、診療、投薬で約2万円。支払いは6000円。
昼過ぎ、病院から帰る。
ベトナム事務所から数通のメール受信。返信。
更に受信、更に送信と何度かバオミンさんと
メールで意見交換。
千代田区スタディーツアーの要綱を作成し
ベトナム事務所に送る。
午後5時過ぎ、自宅を出て五反田へ。
午後7時、ブライセン本社。その後、ブライセン社長・
リンター部長などと近くの居酒屋で懇親。
ーーーーーーー
「始まっている未来 新しい経済学は可能か」
(宇沢弘文・内橋克人著 岩波書店)読了。
読み応えのある内容。
現在の日本のモラル崩壊、農業崩壊、
山村漁村の崩壊、派遣村など、新自由主義・
市場経済原理主義政策の結果の元凶が何だった
のかを学問的に究明している。
これたらの経済学は「人間の存在を守る」
ことを基本にする経済学でなければならない、
と結論付けている。
1891年5月15日、ローマ法王「レオ13世」の回勅
『レールム・ノヴァルム』の表題は「資本主義の弊害
と社会主義の幻想」であった。
これは現実的に資本主義の勃興期の労働者などの
悲惨に現状を反映していた。そして多くの人々が
社会主義に活路と未来を見出そうとしたことに対して
の警告でもあった。
その後、ソ連邦・東欧社会主義が崩壊。
100年後の1991年5月1日、ローマ法王「ヨハネ・パウロ2世」
が『新しいレールム・ノヴァルム』(回勅)を発表。
表題は『社会主義の弊害と資本主義の幻想』。
ソ連・東欧社会主義体制が崩壊し、資本主義に移行した。
あたかも「資本主義が勝利」したかの様相を呈していた。
ヨハネ・パウロ2世は、勝利した資本主義への幻想を
指摘している。
これからの社会がどうあるべきかを示唆している。
キーワードは「人間」。
2009年11月18日
千代田区スタディーツアー打ち合わせ会:高校同級生伊豆高原旅行反省会
晴天 しかし寒い
午前10時まで読書
「始まっているいる未来 新しい経済学は可能か」
(宇野弘文・内橋克人著:岩波書店)
午前11時、赤塚公園付近の高島平郵便局まで
郵便物を出しに。高島平団地にある商店街散策。
1時間のウオーキング。
午後2時半、自宅を出て神保町へ。
千代田区役所へ。
午後4時から午後5時半まで「千代田区 国際協力ツアー」
打ち合せ。千代田区スタッフ・日本通運スタッフ。
12月17日・18日、16人ののフエ滞在中の日程・活動内容確認。
午後6時半、高校同級生伊豆高原旅行反省会。
池袋「銀座ライオン」にて。
アルバイトでベトナム人が働いていた。
南の若者。産業能率大学で経済学を勉強しているとのこと。
日本に滞在し何を感じ何を学んだのだろうか?
伊豆高原旅行はバオミンさんも一緒に参加した旅行である。
今日は参加者全員が参集。忙しい皆さんである。
時間を都合しての参集に頭が下がる。
****
2009年9月19日「こう箱の会」が「子どもの家」支援の
チャリティー口演会を行った。
「こうばこの会」は1994年か5年頃、私が日本へ一時帰国して
初めての講演会に呼んでくれた。それから今日まで
口演会での収入の一部を「子どもの家」へ寄金して頂いている。
「こうばこの会」は、視覚障害のみなさんの『朗読」などの
パフォーマンスを行う会である。何度か私も参加させて頂いたが
感動的な口演会である。
以下「こうばこの会45回公演」の案内状である。
こうばこの会 トークパフォーマンス
2009年秋季(第45回)チャリティ公演
秋を先取り今日は「朗読日和」
お待たせしました。こうばこの会がお届けする多彩な朗読の数々、
今宵は声と物語の世界に、あなたをお招き致します。
(こうばこの会代表 長村憲治)
日時: 9月19日(土曜)
午後17時半開場 午後18時 開演
会場: 町屋 ムーブホール
荒川区荒川7-50-9 センターまちや 3F
電話:03-3819-7761
・地下鉄千代田線 町屋駅 北千住方向出口より 徒歩1分
・京成線 町屋駅より 徒歩1分 ・都電 町屋駅より 徒歩1分
★17時15分から45分まで千代田線改札から係がご案内致します。
活動協力費:
一般1,500円 学生1,000円 小中学生500円
(会員登録して頂いている方は、無料ご招待させて頂きます。)
★本公演の純益は、「ベトナムの子どもの家を支える会」に寄付させて頂きます。
★会場では、青木由希子さん撮影の「ベトナムの子どもの家」の写真を展示致しま
す。
演目:
■「蜜柑」 作:夏目漱石 出演:那登里 潤
平凡でつまらない日常の一こまで、主人公の私が汽車の車内で目にした退屈な人生の
中での光明とは?
文豪、夏目漱石の短編代表作を、静かに語らせていただきたいと思います。
■「タイフーン・メーカー ~なんにもうまくいかないわ~より」 作:平 安寿子
出演:えにし組(あかつき えにし、妙蓮寺 紫、歌音、美舞希、服部真弓、松田奈
穂美)
女が上司であることにこだわりはない。彼女の仕事の手腕を考えれば何の異論もな
い。
だが部下は友達ではない・・・・。
別名「私生活のない女」志津子に振り回されて辟易している直哉に転職の話
が・・・・。
新しいメンバーを迎えて、えにし組がお仕事の人間関係を語ります。
さてどんな台風がまきおこるかお楽しみに。
■「妻四態」 作:筒井康隆 出演:まる投げ道場(工藤健一郎)
ある日突然、妻から明かされた驚愕の真実。
そして次々に明らかになる妻の驚きの生態。
巨匠、筒井康隆の奇妙な世界を一人語りでお送りいたします。
■「菜の子先生は大いそがし! 校長先生のクリスマス・イブ」 作:富安 陽子
出演:たらこスペシャル(かわいいねこ、サカモトハルヨ、ショコラモナカ、竹内智
美、多田香織)
「先生、サンタクロースって、ほんとうはいないの?」 二学期の終業式が終わり、
誰もいない校舎を見回っていた松戸小学校の校長先生は、
夕暮れの理科教室で、少女と「菜の子先生」の会話を耳にします。
運がよければ学校のどこかで会える、ちょっと不思議な、山田菜の子(やまだなの
こ)先生。
菜の子先生が、校長先生に届けたクリスマスプレゼントとは…。
こうばこの会のご案内
★こうばこの会は、平成5年から視覚障害者を中心として公演活動やバリアフリ
ー啓発活動を行つているトークパフォーマンスグループです。障害の有無を問わず、
公演サポーターや出演者を募集しております。
★受付にて、今年度の会費(3000円)の納入を承っております。
会員には年間全公演無料ご招待などの特典があります。
★こうばこの会ホームページ: http://www.koubako.jp/
★お問い合わせ先:
大川和彦 携帯電話:080-5681-9852 メール:0gt325440v6345j@ezweb.ne.jp
========================
以下、口公演会の様子である。
会場にこどもたちなどJASSのフエでの活動を紹介する展示。
2009年11月17日
伊香保→東京
雨 寒い
午前10時伊香保の温泉宿を出て帰京。
午後2時、自宅着。
帰宅車中で読書
「始まっている未来 新しい経済学は可能か」
(宇沢弘文・内橋克人著:岩波書店)
非常に知的刺激受ける。
宇沢弘文は東大経済学部長・副学長。
文化勲章受章者。近代経済学者。
内橋克人は新聞記者を経て経済ジャーナリスト。
高度経済成長から小泉・竹中の経済原理主義理論
に基づく経済政策を初期から批判。
両氏とも近代経済学者だが、経済原理主義・市場万能主義
がもたらす弊害について、厳しい批判をし、経済学の
原点は、人間の幸福であることを強調している。
マルクス経済学者が元気のないなかで、近代経済学
のこれらの人々の市場経済万能・原理主義に対する
批判活動はすばらしいものがある。
特に宇沢弘文は、本書で近代経済学のなかでの
原理主義の系譜とその犯罪性を理論的に厳しく批判している。
私のような経済学には全く素人の人間でも理解し、共感が
持てる内容。半分ほど読む。前半は、新自由主義と経済原理主義
の若干の相違を述べ、アダムスミスからケインズ経済学までの
系譜をたどっている。その後、宇沢氏も在籍したアメリカ
シカゴ大学での出来事(アメりかのマッカーシズム・赤狩り)
などの経験を述べ、シカゴ大学が新自由主義の拠点となり、
現在の新自由主義・市場経済原理主義の理論的拠点に
なって行く過程を自分の在籍した大学の体験を述べている。
イギリスのサッチャーリズム、アメリカのレーガンノミックス
が今日の新自由主義の走りであり、教育と福祉という人間存在
の基盤を崩壊させていく歴史を述べる。その後、英国ブレアの
改革を述べ、アメリカブッシュの超市場経済原理主義に陥った
過程とその理論と帰結を述べる。日本の中曽根臨調・日経連
の報告から始まった日本の市場原理主義の系譜に及ぶ。
細川内閣・村山内閣時代の「平岩レポート」が今日の
異常な日本社会を作り出す原点であるという。
小泉・竹中路線を平然と支持し推進した学者・研究者の
重大な責任を追及する。結局、市場原理主義は、違法行為を
しなければ、「金儲けのためには何をしても許される」
というところまで来てしまったと「サブプライム問題」までの
経過を分析し、人間の生存こそ経済学の原点だと述べる。
以上が前半に読んだ内容。
後半は、新しい経済学はどのようなものか・・・・。
宇沢氏と内橋との対談である。
2009年10月14日発行。読んでいて、小泉改革と
今日の日本の現状の原因と経済学的な理論的バックが
よくわかる。
この3日間、インターネットが使えないところにいた。
(那須温泉・伊香保温泉)
36通のメール受信。半日かけて15通のメールの返信を
行う。
2009年11月16日
伊香保温泉ー水澤観音
曇り 寒い
安宿(1泊5000円)の宿の部屋の暖房は「コタツ」だった。
近代装備の部屋よりも何かゆったりとできる。
夜と朝は相当寒い。
午前10時、ホテルを出て、伊香保で有名な
水澤観音へ。孫にお守りを買う。
60歳以上と思われる団体がたくさん来ていた。
水澤観音は、その沿道に10軒ばかりある「水澤うどん」
で有名なところである。
1軒の「うどん屋」に入り、ビールと舞茸の天ぷらを
頼む。天ぷらで軽く飲み、仕上げに「水澤かけうどん」。
天ぷらの残りを乗せてうどんの喉越しを堪能する。
宿に帰り1時間程昼寝。
読書「報道できなかった 自衛隊イラク従軍記」
を読了する。
非常に興味のある内容であった。
自衛隊がイラクのサマワでどんなことを実際にしていた
のかが具体的にかかれている。
小泉首相は「人道支援」と言い、「戦闘地域はどこか?」
との国会での質問で「自衛隊のいるところが非戦闘地域」
と、国民を馬鹿にした答弁をしていた。
通訳で行った金子氏の経歴は1962年生まれ。
カイロ・アマリカン大学文化人類学科卒。
10数年、エジプトなどに住み、アラビヤ語に堪能だと
いうことで、自衛隊に依頼され「通訳」として「参戦」
した。金子氏はジャーナリストでもあるので、その体験記
を書いたという経過のある本である。自衛隊が出版を
認めなかったので2007年3月に出版している。
本書を読んで私がベトナムでボランティア活動をして
常にぶつかる「文化の違い」「こちらは支援、相手は利権」
という経験を同じことを自衛隊のみなさんがイラクで経験
したことが分かる。
自衛隊自身イラクやアラブ、イスラムについての知識を
ほとんど持っていない。
サマワについては、全く知識を持たずに行っている。
金子氏はイラク派遣自衛隊の先遣隊からイラクへ入り、
米軍基地居住から始まり、サマワで自衛他駐屯地を
作るまでの51日間のイラク滞在中での出来事を記している。
文化の違いは、時間を守らないから始まり、
自衛隊駐屯地を現地の土地所有者から借り上げる契約
の通訳をするのだが、所有者が確定できない。
次から次に「俺も俺も」と土地所有者が出てくる。
地元の多くの人々は自衛隊を「軍隊」とは知らず
水道や学校、病院をつくりに来てくれたと理解している。
イラクは部族が第一の国である。部族長が一番力を
持っている。部族の中でもいくつかのグループがありm
また、いくつかの部族がある。それぞれの部族と
部族ないグループの歴史を理解しないと何もできない。
佐藤隊長(小泉チルドレン)が何人もの部族長などに
会うが、こぞって「学校を作れ、水道を作れ、病院を作れ」。
土地賃貸料を時価の10倍・20倍とふっかけてくる。
気温45度の中、施設ができず数週間もえ子の間
シャワーもあぶられない自衛隊員。
自衛隊内では自衛隊を「軍隊」と行っているなど
中々興味のある内容である。
多額のお金を使い自衛隊は一体何のためにイラクに
いったのか? 親分アメリカの意向に従ってイラクに
行ったが、その存在の本質的な意味が分からないまま
自衛隊員は「真面目」に『任務』を遂行していた。
小泉人気に浮かれてブッシュの「テロとの闘い」という
侵略戦争に加担した我が日本である。
死者がでなかったのが幸いであった。
イラク戦争を進めた小泉首相、自民党がその総括と
反省をしていないという事実に国民は嫌気を感じた
ところがあるんではないかと思う。
この国民の批判は、同時に民主党のアフガン支援にも
必ず向かう批判である。
何回か温泉に入る。温泉には誰もお客がいない。
30年ほど前何回も伊香保温泉に来ている。
当時、伊香保温泉の石段にはたくさんの温泉客が
いた。夜、石段に行ってみた。人一人いない森閑と
した闇である。お店もしまっている。
日本経済の現状、日本社会の実情を反映しているようで
ある。
2009年11月15日
白河の関:足尾銅山跡地参観
晴天 ★写真は滝下正敏氏より
午前6時起床。午前7時、那須温泉に入浴。
午前8時朝食。
朝食を済ませて、各地の会交流会は解散。
それぞれ那須観光などに行く。
私は静岡の会の滝下さんと一緒に福島の「白河の関」
を見に行く。
那須温泉湯本から山を下ると那須連峰がきれいに見えた。
今日は晴天。気温も高く観光日和。
那須の山を下ると見事な「紅葉」
奥羽三関(白河:勿来:念珠)の一つである「白河の関」
を見る。
「百聞は一見に如かず」という言葉があるが、
確かにその通りである。
「白河の関」は大化の改新の頃に出来上がり、
大和王権・朝廷の支配権の北限である。
七世紀に作られ、その後、白河の関が正確にどこにあるのかは
分からず、江戸時代に松平定信が発掘し、この辺りだろう
ということになっていた「白河の関」である。
何か「石ころ」でも置いてあり、参観者もいない、さびしい
所にあると推測して行った。
結構、多くの訪問者があり、江戸時代以降、何度かの
大きな発掘があった。
現在は大きな森林公園になっている。
福島の白河の関から更に滝下さんの車で宇都宮・日光道路
を通って、足尾へ。公害(鉱毒事件)で有名な足尾銅山の
跡地へ行ってみた。
ここも銅山の廃墟が残っているのかと思っていたが、
何と「足尾銅山観光」という観光施設と化していた。
足尾銅山は1600年頃から採掘がはじまり、1973年まで
採掘が続いていた。
坑道の総延長は約1200キロ。これは東京から博多までの
距離である。400年間で膨大な坑道を掘ったのである。
江戸時代のご朱印船貿易の日本からの輸出品の一つは
銅でであった。
ベトナムのお金の単位である「DONG(ドン)」も漢字の
銅である。江戸時代の寛永通宝も足尾の銅でできていた。
足尾産の銅でできた寛永通宝の裏には「足」の字が
刻まれていたそうだ。
総延長1200キロの坑道の一部数百メートルを
トロッコで進み、江戸時代・明治・大正・昭和の
銅採掘の様子が人形で再現されている。
(江戸時代の手彫り人夫)
銅など鉱物が入った鉱石を運ぶ江戸時代の様子
江戸時代から昭和までの採掘の展示を見ていると「蟹工船」の
ような「タコ部屋」を想像する。想像を絶する作業である。
鉱石から銅をどのように抽出するのかの詳しい工程の
説明もあった。
全体を参観し、私たちが一番知りたかった「足尾銅山の鉱毒」
事件の実相は一切展示も説明もされていなかった。
(年表に若干ふれているだけだった)
田中正造、村の強制移住など日本の公害の原点である
足尾銅山の展示に一切「公害」も「田中正造」も「強制
移住』の問題も展示されていないところに日本人の
「臭いものにはふた」の精神が見事に現れていた。
古河財閥が足尾鉱毒事件にどれだけの総括と反省を
しているのか? 足尾銅山観光は誰が経営している
のかは分からないが、銅の採掘の様子だけを展示する
「足尾銅山」の実態には落胆した。
足尾から滝下さんの車に乗せてもらい、伊勢崎駅まで。
伊勢崎で滝下さんと別れ、JR伊勢崎駅から新前橋へ。
更に渋川へ。夜も遅くなったので、渋川から予約して
会った伊香保温泉の安宿までタクシー。
11月15日の夜、16日と2泊伊香保温泉で休養。
2009年11月14日
JASS各地の会交流会(那須温泉)
晴天
今日は、栃木県那須高原で「JASS各地の会交流会」が
行われる。午前11時26分上野発の新幹線に乗れば
午後12時40分頃、那須塩原に着くとインターネットで検索。
自宅を出て上野駅へ着いたが、2分の差で午前11時26分に
乗り遅れる。20分間隔程度で新幹線があると思っていたが、
次便は1時間後の12時26分。東北新幹線で上野→那須塩原
は1時間1本しかなかった。
仕方なく1時間、新幹線上野駅で待つ。
その間「読書」。
「報道できなかった 自衛隊イラク従軍記」(金子貴一著)
この本は京都の「豊田観光」の豊田陽さんから寄贈されたもの。
2003年12月26日、航空自衛隊イラク派遣先遣隊第一陣が
クエートへ出発。著者の金子氏は、民間人のアラビア語の
通訳として51日間、クエートからサマワへ自衛隊と共に
駐屯。サマワの自衛隊基地の土地買収交渉の通訳など
外から見えなかった自衛隊の活動の実態をレポート
している。
午後12時26分上野駅を出発、1時間ちょっとで
那須塩原駅着。午後2時集合にバスでは間に合わず、
タクシーで那須湯本の東京北区の宿泊所へ。
タクシーの運転手が運転手になって2カ月。
北区の保養所の場所が分からず、ぐるぐると回るが
そえれでも分からない。結局、湯本にある他社の
タクシー会社に行き、場所を聞きやっと宿舎に
到着。午後2時20分。
今回の「JASS各地の会交流会」は、栃木の会の
佐藤さんたちを中心に準備をして頂いた。
佐藤さんや事務局のみなさんに挨拶。
午後2時40分頃から午後5時過ぎまで2時間強
「JASS16年の到達点と今後の課題」について話す。
今回の交流会の現地実行委員長の佐藤さん
3人の在日ベトナム青年も参加。真面目の祖国ベトナムの行く末
を考えている。
午後6時半から夕食会。
豪華な夕食だった。
午後8時から交流室で各地の会の活動報告会
「京滋YOUの会」、静岡の会、東京の会、火炎樹の会、
青少年教育の会などからそれぞれ1年間の活動を報告。
2009年11月13日
ラオス・ラム酒打ち合せ
曇りのち雨 寒い
14通のメール拝受。9通の返信。
明日那須で行われる「JASS各地の会交流会」
で話す内容を再度推敲し、加筆修正する。
駅前のコンビニで45枚コピーをする。
3枚のコピーをホチキスで重ねる。
午後5時半過ぎ、高島平。ラオスに在住し、ラム酒工場を経営して
いるY君とS君(実家が酒屋)と会い、ラオスラム酒の輸入問題
について打ち合わせをする。
しばらくすると「いつものメンバー」である高校同級生G君とK君
がやってくる。
結局は、高校同級生5人が集まり、「人生』の語り会を開く。
ラオスラム酒工場のつくりたての「焼酎」(サトウキビから作る)
を飲む。これが何とも「口当たり」が良い。
段々と「気勢があがってくる」と高校同級生の家へ次々に
電話。近況を聞く。そのうち高校時代好きだった女子同級生
へ電話をかけだす。皆さん、孫もできてそれなりに元気
だった。
その場で11月末位に高校クラス会のような会を行うこと
になる。11月26日の夜、高校のクラスメートが某所へ
結集することとなった。
飲んで馬鹿っ話をするのではあるが、今日集まった私以外
の4人は、人生に非常に前向き。
かなり遅くまで交流会は続く。私も含め全員定年退職している
が、これからの人生を「テニスクラブ」や「海外旅行」など
『年金で遊んで暮そう』などという気持ちは持っていない。
新しいことに挑戦し、社会とかかわりを持ち、自分の
持っている力を発揮し、何らかのところで社会に貢献したい
とい気持ちを持っている。
私たちの周りには「退職金」をもらい、海外旅行など遊び歩いている
人たちもいるが、それも一つの人生ではあるが、せっかくの
人生である。死ぬまで何らかの形で社会と世界を見詰め、
世の中のために自分たちのできることで貢献していきたい
という気持ちを強く持っている仲間である。
私は個人的には、今日集まった4人の高校同級生の
行き方に「誇り」と「尊敬」の気持を持っている。
これからも「人生を前向きに見詰め」「具体的な行動」
で社会と関わりをもった人生を歩んでいきたいものである。
2009年11月12日
浅草「一の酉」へ
非常に寒い 曇り
体調は一進一退。
できるだけ時間があったら1日に1時間から2時間程度の
ウオーキングをしたい。
午前10時過ぎ、巣鴨経由でJR鴬谷駅(うぐいすだに)へ。
今日は「お酉(トリ)さま」。今年は「二の酉(11月24日)」まで。
この20数年、ほとんど毎年「お酉さま」に行っている。
昨年は升入り「おかめ」を買い、フエの日本料理店に
飾ってある。一応、商売繁盛祈念。
鴬谷から国際通りまで歩く。途中、「谷中の鬼子母神」
がある。しばらく鬼子母神境内を散策。
鴬谷からお酉様まで歩く人は少ない。多くの人は地下鉄「入谷」
から徒歩10分でお酉様へ行く。
私はわざと大周りに歩く。徒歩40分。
谷中、入谷、浅草の街並みを観ながらウオーキング。
国際通りまで出るとさすがに人が出だした。
国際通りを左折し、鷲神社(おおとりじんじゃ)へ。
途中、人力車も走っていた。15分3000円だそうだ。
フエのシクロさんは、1時間100円から200円。
浅草で人力車を1時間乗れば12000円。
フエの100倍の代金である。
午後12時少し前。まだ参詣者は少ない。
夕方から夜になると大変な人混みとなる。
境内のお賽銭箱に幾ばくかのお金を入れ、祈願。
境内には「熊手」や「縁起もの」が売られていた。
縁起ものを買うと「三本締め」をする。
各所で拍子木と三本締めの音が聞こえる。
1時間程境内や出店をひやかす。浅草名物・舟和「いもようかん」を買う。
午後3時過ぎ、自宅へ。
読書「貧困の光景」(曽野綾子著)
面白い。同感しつつ読み進む。
10通のメール受信。6通の返信。
石原都知事の「東京五輪再挑戦のわけ」に反論する
2009年11月12日、今日付けの朝日新聞はほぼ1面を
使って石原知事への独占インタビューを掲載している。
今、この時期にこの種のインタビューを掲載する意味があるの
かはいささか疑問ではあるが、それ以上に石原都知事の
発言には黙視できない内容が含まれている。
結論から言えば、2020年の五輪への立候補を
石原都知事の任期中に決めてしまうという無責任
極まりない内容なのである。
国際オリンピック委員会への立候補届〆切は
2011年の夏。石原都知事の任期は2011年の春まで。
「滑り込み」状態で退任のぎりぎりのどさくさにまぎれて
IOC(国際オリンピック委員会)へ立候補届を出してしまい、
その後、退任する。2020年東京オリンピックの招致活動は
新都知事に全て任せるという、無責任極まりない態度である。
石原氏の言葉を使えば「男として全く無責任な態度」
である。
第1にメキシコに決まった2016年のオリンピック招致に
失敗したことについての総括と反省が全くないということで外国はある。
特に石原都知事は「東京五輪招致」はせっかくもりあがって、
今になって「やればよかったという人がたくさんいる」との認識を示している。
そもそも2016年東京オリンピック招致
にどれだけの都民が賛成していたのか自体に問題があるのだ。
少なくとも私の周りで東京オリンピック招致を話題にしている
人は一人もいなかった。
石原氏の招致思想の根底には、「都民・国民に夢を
もたせたい」「オリンピック招致で経済活動を活性化
させよう」というものがあった。
この思想こそ「55年体制」思想そのものである。
1964年の東京オリンピックと同じ発送から抜けられない
石原氏のアナクロニズム(時代錯誤)が典型的にあらわれている。
朝日新聞がほぼ1面に載った石原氏のインタビューの
中で「2016年オリンピック誘致失敗」の自らの自己批判が
全くないのである。
第2に「誘致失敗」の責任を「他人」になすりつけていることで
ある。日本オリンピック委員会、外務省など関係者が
情報をとる能力がなかったのが、失敗の原因と言っている。
石原氏は、あまりに真っ当に誘致運動をしたが、諸外国は
公正でない様々な誘致工作をしているかのようなニュアンスの
話しをし、だから負けたのだ、という論法のようである。
日本人(世論)は、新しいものを摂取・消化する能力はすごく高い
が、自分でものを作っていくことはできない。だからオリンピック
もそうですよ」と言って、招致に負けたのは日本人が
積極気に誘致活動をしなかったかのように都民・国民に八つ当たり
しているのである。
第3に150億円かそれ以上も使われた誘致費用問題に
ついては、全く責任感を感じていないことである。
壮大な公費、庶民の血税を浪費したことにいての
行政の最高責任者としての心の痛みが全くない。
石原氏は自分が知事になり都の貯金は200億円だったのが自分が
知事になり1兆3000億円の貯金がある。その利子を使えば
150億円などは問題ない、と150億円という税金浪費を
自己免罪している。
朝日新聞1面をつかった石原氏持ち上げインタビューを
読んだ感想。
石原氏は自分の置かれている位置が分からなくなった
独裁者だということである。都民・世論の空気が読めない
くなっている。都民・世論を「度胸と勇気のない日和見主義者」
とみている「優越思想」「庶民見下し思想」をもっていることである。
結論的に言えば、石原都知事は東京都政にとっては
既に「労害」と化していることを自覚すべきである。
既に時代が読めない過去の政治家になっているのである。
自民党の山崎拓元副総裁や久間元防衛大臣などが
政治家としてその政治生命を事実上絶っている昨今である。
民主党政権の樹立は庶民・国民の意識の大きな変化、
石原氏の大嫌いな「戦後民主主義」の結果なのである。
既に石原都知事の時代は終わっているのである。
朝日新聞が1面も使ってインタビューをする価値すらない
ものと思った。
2009年11月11日
根津の姉の家へ
終日雨
12通のメール受信、6通のメール送信
午前10時過ぎ、文京区根津に住んでいる姉の家へ。
姉夫妻と午後1時過ぎまでよもやま話をする。
姪のM嬢がいなくて残念。
読書「貧困の光景」(曽野綾子著:新潮社)
10年ほどまで「日本財団」の社会貢献賞を受賞した際、
授賞式の後のパーティーで曽野綾子さんと一緒になった。
当時、曽野綾子さんは、日本財団の理事長をしていた。
10分ほど、海外支援問題を話し合ったが、海外支援は
支援する人の善意は受ける人たちに取っては「利権」だ
という点で話は一致した。
曽野綾子さんは「海外邦人宣教者活動救援後援会」
という組織を作り、アフリカなどで活動するキリスト教者
の支援を行っている。長年の経験から、支援物資や
お金がどこかに消えてしまうという体験をいやなほど
している。そこから支援は、直接自分が現地に運び
直接被支援者に渡すという活動をしている。
本書は2005年から2006年に書かれたものである。
アフリカ支援活動を通して、支援の難しさを具体的に
体験を通して書いている。
私の認識と一致する部分が多い。
2009年11月10日
散歩:読書
午前中晴天 午後曇り
午前中、赤塚公園など1時間程散策。
晴天の下の散策が今の私は一番好きである。
ベトナムではなかなか散策ができない。
時間がないのが最大の問題であるが、
気候の問題もある。夏は外気温40度。散策するような
状況ではない。冬は、毎日雨で散策はできない。
ベトナムへ行った16年前は朝5時に起きて散歩を
兼ねて路上のこどもたちを見つけていたが、今は
来客が多いこと、仕事の範囲が拡大し、忙しく
朝5時の散歩ができないなってしまった。
時間のある時、できる範囲でのウオーキングを
したい。心臓の主治医からは一番言われているのが
ウオーキングである。
読書「大日本帝国崩壊」(加藤聖文著:中公新社)読了
体調も何とか回復しつつある。体調が悪い時は読書も
文章も書く気力がない。読書ができて、文章を書くのを
厭わなくなることは、健康回復の分水嶺と思っている。
著者は東京オリンピックも知らない1966年生まれ。
彼らがアジア太平洋戦争・日本のアジア侵略をどうみている
のか?に興味があった。結論的にいえば、真っ当な
評価と分析をしている。
1945年8月15日の敗戦時、海外には、300万人の
兵士と300万人の民間人がいた。その引き上げ問題。
日本軍と政府は、基本的には、海外にいる兵士と
日本人は「居留人はできうる限り定着の方針を執る」
との方針を出している。海外日本人の切り捨て方針
である。
今まで国内唯一の戦場になったのは、「沖縄戦」だった
と言われているが、事実は、1945年9月5日まで
樺太でソ連軍と闘っていたことが分かる。
8月22日には、樺太の豊原(」当時)に集まった
日本人などにソ連軍が無差別空爆を行っている。
今回改めて以下の文書の全文邦訳を読んでみた。
●1941年、ナチスドイツを撃滅するために「米英」で
発した「大西洋憲章(米英共同宣言)」
●1943年12月1日公表の「カイロ宣言」
(日本国に関する英米華 三国宣言)
・1914年の第1次世界大戦開始以後に日本が奪取、
占領した島嶼の簒奪、満洲、台湾、膨湖島など
を中華民国に返還する。
・朝鮮の独立
●ヤルタ協定(米英ソ 1945年2月11日)
・ナイスドイツが敗北し、2~3ヵ月後にソ連は
連合国にくみし、日本に対する戦争に参加する
・1904年(日露戦争)で日本にとられたソ連の権益
をソ連に返還する
・樺太、千島列島はソ連に返還・引き渡す
●ポツダム宣言(1945年7月26日 米・英・中華民国)
・日本の無条件降伏
・カイロ宣言の履行(千島樺太のソ連への委譲)
・日本の主権は北海道・本州・九州・四国・3カ国が
決定する島に限定
・一切の戦犯に対する処罰
・戦争産業の禁止
ポツダム宣言は連合国の宣言だと思っていたが
米英中3カ国の宣言だった。
ソ連は「日ソ中立条約」を締結していた。
日本軍部・政府はソ連を通して連合国との停戦を
模索していた。
●降伏文書(1945年9月2日午前9時8分東京湾上
ミズーリ号での連合国への降伏文書)
・日本側 重光葵(天皇と日国政府代表)
梅津美治郎(日本帝国大本営代表)
・連合国 最高司令官 マッカーサー
米国・中華民国・英国・ソ連・オーストラリア・
カナダ・フランス・オランダ・ニュージーランド
(9カ国)
●昭和天皇の終戦の詔書(1945年8月14日)
「8月15日に放送された玉音放送の内容」
趣旨は、国体護持
中高校社会科の教科書で名前だけは知っていた
各種宣言・協定などの全文を読むと時代とその
本当の意味が分かってくる。
ポツダム宣言自体には元々はアメリカの
戦後政策が絡みソ蓮を除いている。
これらの宣言等を改めて読むと、「戦後世界政治」
今日の日本の置かれている状況の出発点となっている
ことが分かる。
テレビ、新聞では猟奇的な事件、殺人事件などで
あふれている。
英国女性の死体遺棄事件の容疑者が逮捕された。
芸能人の麻薬事件・・・・・。
日本に帰るたびに日本社会の崩壊の実体を見る
思いがする。異常な日本を実感している。
福島の孫から電話。元気に学校生活を送っているようで
安心した。新型インフルエンザにかからないようにして欲しい
などど思ってしまう。
「貧困の光景」(曽野綾子著:新潮社)を読み始める。
10通のメール受信。9通の返信。
2009年11月09日
JASSベトナム事務所「テト事務所閉鎖」
●JASSベトナム事務所「テト休暇」について
2010年2月9日(火)から2月21日(日)
の間、2010年の旧正月(テト)休暇となります。
JASSベトナム事務所は閉鎖されます。
この期間のベトナム事務所へのお越しはご遠慮頂ければ幸いです
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赤塚公園へ散歩。
終日自宅で休む。
ベトナム事務所といくつかの問題でメール連絡。
2009年11月08日
休息
終日寝ている。
11月14日、栃木県那須高原で行われる
JASS各地の会交流会での話す内容をまとめる。
読書「大日本帝国崩壊」をほぼ読み終わる。
私の知らなかった敗戦の各地の様子を詳細に調査している。
メール受信。いくつかの、メールを送信。
2009年11月07日
JASS静岡の会主催講演会:静大工学部留学生との懇親会
晴れ 少し寒い
午前8時、静岡市内のホテル起床。朝食。
午前10時チェックイン。
ホテルの車で静岡駅へ。駅構内の喫茶店で今日の
講演会で話す内容を整理する。講演会のメインゲストである
朝日新聞記者の伊藤千尋さんの話の内容に合わせて、
いくつかの内容を計画する。
午後12時。静岡駅で静岡の会代表牧田先生、事務局長の
笠井先生と合流。朝日新聞の伊藤千尋さんを待つ。
伊藤さん無事到着。4人で昼食。「とろろご飯」。美味しい。
午後2時、静岡県教育会館で講演会開催。
70人もの参加者。
初めにJASS静岡の会代表の牧田先生の開会の挨拶。
続いて、私の方から「ベトナム現地報告」を30分。
続いてメインゲストの伊藤千尋さんから「観光コースでないない
ベトナム・平和を求めて世界を歩く」の講演。
伊藤さんは朝日新聞記者。雑誌「アエラ」編集員時代に
ベトナムをハノイからホーチミン市まで縦断取材を行う。
その体験などを通して1995年に「観光コースでないベトナム」
を執筆。ベトナムの観光案内のさきがけであるが、ベトナム戦争
や平和を基調とした真っ当なベトナム案内書。
その中に私のフエでの活動も紹介してくれていた。
ベトナム人のおおらかさと楽天性について話す
その後、朝日新聞の南米特派員として長年活動した経験から
「コスタリカ」の憲法9条ー戦争放棄」の実態を紹介。
憲法9条がいかに現代も止まられているのかを具体的事実を
もとに話していく。すばらしい内容であった。
実際に現地に行き取材する姿勢から出る言葉は本物。
午後4時半、講演会終了。
その後、伊藤千尋さんの著書へのサイン会・・・。
午後5時20分過ぎ、静岡駅からJASS静岡の会副代表・
静岡大学就職課長の滝下さんと一緒に浜松へ。
浜松で静岡大学西村財務担当理事、工学部の松本先生と合流。
唐辛子の効いたなべ料理屋へ。
10月6日静大工学部へ入学したフエの高校卒業生3人と懇談。
静大が全国の国立大学の先鞭を切って実施した「10月入学」
で全国で初めて静大に入学した3人の入学後1カ月の様子を
聞く。
3人とも元気に生活している。現在は日本語教育の特訓中。
日本語も大分上手になっていた。
日本での生活にもかなり慣れてきていると本人たちは言っていた。
現在の問題点、要望、希望などを聞く。
何とか頑張って生活していることを知り、ほっとする。
こうしてベトナムの若者が日本で生活し、勉学に励んでいる
様子を見ると10年後、20年後のアジアの平和、
日本がアジアの人々の友好とへ平和交流の懸け橋に
なって欲しいと思わずにはいられない。
私たちがベトナム・フエで行っている取り組みは小さなもの
ではあるが、それでも人間と人間とのつながりの中で
平和な世界を作って行く小さな礎(いしずえ)になって欲しい
との強い願いをもちながら毎日の活動を行っている。
午後9時過ぎ、懇談会終了。
3人はそれぞれ工学部の松本先生のお世話で自転車を
買っていた。
自転車で静大工学部の宿舎である留学生会館へ帰る。
西村理事・滝下さんと一緒に浜松駅から静岡駅まで。
更に私だけで静岡駅でひかりに乗り換え東京駅へ。
東京駅着午後11時を過ぎていた。
2009年11月06日
孫誕生:JASS静岡の会交流会
晴天
午前中、ベトナム事務所からのメールへ返信。
日本料理店問題・・・・・・・。
午後2時自宅を出て志村坂上の病院へ。今日、午前中
次男に第2子が生まれた。男の子。2944グラム。
母子ともに健康。新生児を見る。
この子で3番目の孫となる。女子1名、男子2名となる。
母子ともに健康であることでほっとする。健康に成長してもらいたい。
そのためにも平和で安心してくらせる社会を作って行きたいものである。
午後5時東京駅から新幹線で静岡駅へ。
明日、静岡の会主催の講演会が或る。今日は前日の打ち合わせを
兼ねて静岡の会の皆さんと夕食交流会を行う。
午後10時前に閉会。市内のホテルに泊まる。
ベトナム事務所からのメールに1時間程かけて返信。
午前0時就寝
2009年11月05日
休息
晴天
まだ体調は完調ではない。
1日、寝ていたい。
ベトナム事務所とSKYPEでいくつかの問題を協議。
バオミンさん・税田さんとも元気に仕事をしていた。
日本で「11月2日、ベトナム中部を台風が
襲い、洪水となり78人が死亡、14000軒が家を失った」
との報道がある。バオミンさんに確認。
ベトナム中部と言っても広い。中部の南、クアンガイ方面
が大きな被害を受けたという。フエは毎日雨とのこと。
今日で8日間、お酒を飲んでいない、というのか飲む気が
起こらない。
2009年11月04日
1週間ぶりに外出
寒い
15通のメール受信
必要な返信。
午前11時半、自宅を出て池袋へ。
10月29日に寝込んで今日で丁度1週間。
久しぶりに外出する。体が重い。
池袋西口メトロポリタンホテルで北海道芸術高校の
坂井理事長、GOD VISIONSの岡崎さんと
いくつかの件で相談・打ち合せ。
お二人とも忙しい中にも拘わらず「子どもの家」のこどもたち
への愛情と支援の気持ちを持っての打ち合せ。
深謝。
午後3時過ぎ、打ち合せを終え、巣鴨経由で自宅へ。
ベトナム事務所からメール数通。
熟読し、返事を出す。
体調がかなり戻ってきたが、まだ本調子ではない。
明日1日休み、明後日から静岡行き。
今夜もお酒を飲む気持ちなし。既に1週間飲んでいない。
肝臓強化には良い一週間だった。
2009年11月03日
終日寝ている
寒い 凄く寒い
6日間も体調を崩し寝込んだのは、ベトナムに行って
16年間で初めて。
今日も1日寝ていた。
電話が何通か。
メール多数。返事を出す。
2009年11月02日
引き続き家で寝ている
終日寒い。
今日は午後3時からHさんと会い、午後5時半から
ブライセン本社での打ち合わせ会議が入っていた。
既に4日間寝ていた。今日は何とか仕事を再開
できると思っていたが、午前中になっても体が
動かない状態。それでも無理をして起きたが
どうしても体が動かず、今日予定されていた2つの
仕事を無理をお願いしてキャンセル。
残念なことだが、体が第一なので致し方ない。
今回は既に今日もいれると5日間寝ている。
薬も飲んでいる。喉の痛み、鼻水など風邪の
症状はなくなりつつあるが、体の真底の疲れ
というようなものがまだ沈殿しているような
気がする。
今日はあまりに寒いので、プラスチックの
いれものにお湯を入れ、足元の布団の
中に入れる。温かくなる。とにかく、背中から
体中が寒い。さむくて布団の中で寝ていられない。
我慢してじっと布団で寝ているしかない。
2009年11月01日
終日寝ている
体調不良
終日寝ていた。倦怠感が残る。
明日から仕事があるので、何とか今日で体調不良を
解決したいが、なかなか思うように行かない。





